フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

漱石が言う

2010-06-29 21:38:18 | today's focus
さて、ユーウツな話が2回続いたけれど、じつはもう1つのユーウツがぼくにはあった。

それは学会シンポジウムの複言語主義の基調講演の中で出てきた異文化適応能力というものだ。ぼくが研究したり学生に話したりしている接触場面にしろ多文化接触にしろ、じつは言語教育的には類似なものと言ってよい。複言語主義にユーウツを感じたとすれば、自分自身の拠って立つ場所についても疑惑の目を向けることになる。だから、講演を聴きながらぼくがメモしていたのは、異文化適応能力をEU市民の必要条件のように言うくらいなら、老子の小国寡民のほうがずっとマシではないかというものだった。

異文化をすぐに理解して共感し、円滑にコミュニケーションができる能力を養うことが市民の必要条件だとは少しも思えない。それはペラペラ英語能力よりもタチが悪い気がする。それよりも自分の足場をよく理解して静かに暮らすほうがずっとすてきではないか?もし遠方からまれびとが来たならごく自然に客人として遇すればよいではないか?その客人が住み着くならごく自然にその人に対すればよいだけではないか?

しかし、老子が良いというのと、接触場面研究とその教育とは矛盾しているのではないか?

そんなことをしばらく考えていた。

週末に本屋をのぞいて見つけたのは水川隆夫著『夏目漱石と戦争』(平凡社新書)だった。まだ読み始めたばかりなので本の評価は出来ないが、最初の数ページを読んだところで、漱石が学生時代から、人が国家国家と叫んでいることに文句を言っている言葉が目に入った。彼はそして教育についてこのように述べる。

固より国家の為めに人間を教育するといふ事は理屈上感心すべき議論にあらず。既に(国家の為めに)という目的ある以上は、金を得る為めにと云うも名誉を買ふ為めにといふも或は慾を遂げ情を欲しいままにする為に教育すといふも、高下の差別こそあれ其の教育外に目的を有するに至っては毫も異なる所なし、理論上より言へば教育は只教育を受くる当人の為めにするのみにて其固有の才力を啓発し其天賦の徳性を涵養するに過ぎず。つまり人間として当人の資格を上等にしてやるに過ぎず。(p.20)


ぼくが複言語主義をユーウツに感じた理由の一端が100年以上前のこの言葉の中にある。複言語主義はそれ自体、接触場面研究と同様に意義のあるものだが、それがEU社会の発展のためと位置づけられた途端に、教育外の目的を忍び込ませたとても窮屈で、教育される当人をないがしろにする性格を帯びてしまう。言語政策学会自体がそうした志向を本来的に持っていそうだし、多文化共生もまた当事者を忘れているのかもしれない。接触場面研究とその教育は当事者のためのものであり、個人に立脚している。それは第三者が必要だからと当事者に押し付けるものではなくて、当人の可能性と自律を促すものに過ぎない。

青臭い議論かもしれないが、ぼくは青臭くて構わない。
いやはや漱石に救われるとは思わなかった。

写真は学会を抜け出して小一時間遊んだ法隆寺本堂横の何かの実。枇杷ではないと思うんだけど。玉砂利の上に無数に落ちていた。
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