ちょっと長い話。しかもネガティブな...
1,2週間前のNHKのレポートでマレーシアの話が合った。あの"Look EAST"政策で日本に留学生を送り続けていたマレーシアの話だ。マレーシアでは日本留学制度はまだ続いているが、じつは希望者が集まらないらしい。映像では日本に留学して良いことがあるとは思えないといった意見がさまざまな人々から投げ掛けられていた。
マハティール前首相もインタビューで「日本を見習うことは今はないです。見習ったら経済停滞になってしまうから。見習うべきは中国と韓国です」と正直に答えてもいた。ごもっともな話だ。だから将来何かで活躍しようと考える積極的な人間はいまは日本を目指さない。日本にやって来るのはアニメや文化好きの、どちらかというとのんびりとした若者か、そうでなければ、これはずいぶん前から指摘されていることではあるけれど、ほかの国に行くだけの才覚がない人が来ているということのようなのだ。
隔世の感がある。
レポートを聞きながらぼくは「それはそうだろう」と呟いた。でも、この明らかな事実はかすかにぼくを動顛させていたかもしれない。
先週末は大阪の関西大学を会場にして日本言語政策学会が開催され、ぼくも参加させていただいた。梅雨の大阪は東京に比べるとじっとりと蒸し暑くて、すっかり疲れてしまったが、それでも大阪にいた頃毎日使っていた阪急電車の路線に乗れて懐かしさもひとしおだった。
学会のオープニングで会長挨拶があったが、それに続けて欠席した文科省副大臣の挨拶が読まれた。外国人の定住が拡がり、多文化共生と日本語教育が緊喫の課題となっている、ぜひとも学会の力を得たいというような趣旨の話だった。NHKのレポートを聞いたばかりだったからかもしれない。副大臣は何を言っているのだろうと思った。経済も停滞し外国人に活躍してもらうだけの場も作っていない日本で、そして留学生も集まらない日本で、日本語教育がなぜ緊急の課題になるのだろうか。タイムラグがあるのかもしれない。日本語教育界がこぞって必要性を叫んだ結果、ようやく今になって文科省も取り上げてくれたということなのか。しかし、タイミングは逸している。
もちろん、今のような停滞期であっても日本語教育を必要とする人々は少なくない。それは事実だ。しかし、日本語教育だけが際立って重要だということにはならない。外国人をとりまくさまざまな社会的な課題のほうが重要かも知れないし、語学ということであれば日本人の中国語や英語の教育の促進のほうがもっと大切かも知れない。ぼくは日本語教育界で食べさせてもらっている身ではあるけれど、客観的に見て、日本語教育が今の言語政策で最重要課題だとはとても思われないのだ。
もしかしたら、日本語教育が、ではなく日本語教育界の生存が危ぶまれている、そのことが緊喫の課題なのだということなのだろうか?それならまだ理解しやすい。利益団体としての主張ということなら構図はわかりやすい。いくつもの雑誌が休刊しているし、大学院で日本語教育学を専攻しようとする日本人も激減している。志願者のほとんどは留学生だが、だからといって日本語教育に憧れているから志願しているとは一概に言えない事情がある。しかしいずれの場合もやはり日本語教育自体が緊急の課題というわけではないと言わざるを得ない。
ぼくが動顛したのはなぜか。これまでの威勢が良く、黙っていても日本語を学習したい人々がやってくる日本語教育がもはやないということ。これは現在の日本語教育を肯定しようが批判しようが、その議論を根底から無意味化させてしまう。くどくどと言わないが、何のことはない、ぼくの日本語教育もずいぶんと親方日の丸だったのだ。
1,2週間前のNHKのレポートでマレーシアの話が合った。あの"Look EAST"政策で日本に留学生を送り続けていたマレーシアの話だ。マレーシアでは日本留学制度はまだ続いているが、じつは希望者が集まらないらしい。映像では日本に留学して良いことがあるとは思えないといった意見がさまざまな人々から投げ掛けられていた。
マハティール前首相もインタビューで「日本を見習うことは今はないです。見習ったら経済停滞になってしまうから。見習うべきは中国と韓国です」と正直に答えてもいた。ごもっともな話だ。だから将来何かで活躍しようと考える積極的な人間はいまは日本を目指さない。日本にやって来るのはアニメや文化好きの、どちらかというとのんびりとした若者か、そうでなければ、これはずいぶん前から指摘されていることではあるけれど、ほかの国に行くだけの才覚がない人が来ているということのようなのだ。
隔世の感がある。
レポートを聞きながらぼくは「それはそうだろう」と呟いた。でも、この明らかな事実はかすかにぼくを動顛させていたかもしれない。
先週末は大阪の関西大学を会場にして日本言語政策学会が開催され、ぼくも参加させていただいた。梅雨の大阪は東京に比べるとじっとりと蒸し暑くて、すっかり疲れてしまったが、それでも大阪にいた頃毎日使っていた阪急電車の路線に乗れて懐かしさもひとしおだった。
学会のオープニングで会長挨拶があったが、それに続けて欠席した文科省副大臣の挨拶が読まれた。外国人の定住が拡がり、多文化共生と日本語教育が緊喫の課題となっている、ぜひとも学会の力を得たいというような趣旨の話だった。NHKのレポートを聞いたばかりだったからかもしれない。副大臣は何を言っているのだろうと思った。経済も停滞し外国人に活躍してもらうだけの場も作っていない日本で、そして留学生も集まらない日本で、日本語教育がなぜ緊急の課題になるのだろうか。タイムラグがあるのかもしれない。日本語教育界がこぞって必要性を叫んだ結果、ようやく今になって文科省も取り上げてくれたということなのか。しかし、タイミングは逸している。
もちろん、今のような停滞期であっても日本語教育を必要とする人々は少なくない。それは事実だ。しかし、日本語教育だけが際立って重要だということにはならない。外国人をとりまくさまざまな社会的な課題のほうが重要かも知れないし、語学ということであれば日本人の中国語や英語の教育の促進のほうがもっと大切かも知れない。ぼくは日本語教育界で食べさせてもらっている身ではあるけれど、客観的に見て、日本語教育が今の言語政策で最重要課題だとはとても思われないのだ。
もしかしたら、日本語教育が、ではなく日本語教育界の生存が危ぶまれている、そのことが緊喫の課題なのだということなのだろうか?それならまだ理解しやすい。利益団体としての主張ということなら構図はわかりやすい。いくつもの雑誌が休刊しているし、大学院で日本語教育学を専攻しようとする日本人も激減している。志願者のほとんどは留学生だが、だからといって日本語教育に憧れているから志願しているとは一概に言えない事情がある。しかしいずれの場合もやはり日本語教育自体が緊急の課題というわけではないと言わざるを得ない。
ぼくが動顛したのはなぜか。これまでの威勢が良く、黙っていても日本語を学習したい人々がやってくる日本語教育がもはやないということ。これは現在の日本語教育を肯定しようが批判しようが、その議論を根底から無意味化させてしまう。くどくどと言わないが、何のことはない、ぼくの日本語教育もずいぶんと親方日の丸だったのだ。