帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」(九十四)秋の夜は春ひわするゝ物なれや

2016-07-20 19:20:27 | 古典

               



                             帯とけの「伊勢物語」



 在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を、原点に帰って、平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で読み直しています。江戸時代の国学と近代以来の国文学は、貫之・公任らの歌論など無視して、新たに構築した独自の方法で解釈してきたので、聞こえる意味は大きく違います。国文学的解釈では、歌や物語の「清げな姿」のみ顕れて「心におかしきところ」の無い味気ない物語になっている。


 伊勢物語
(九十四)秋の夜は春ひわするゝ物なれや

 
 むかし、おとこ有けり(昔、男がいた…武樫おとこが有った)。どうしたのだろう、そのおとこ(その男…そのおとこ)、すまずなりにけり(通って来なくなった…こと済まなくなったのだった)。後に女は別の男が出来たけれど、前の、この男とは子のある仲だったので、ことこまやかとは言えないが、時々便りは寄こしていたのだった。女は絵を描く人だったので、前のこの男が、絵を依頼して描かせていたのだが、いまのをとこの物す(今の男が来ている…今の男の物する)ということで、一日、二日と描いて寄こさなかった。前の男は、たいそう辛く、我が言った事を今までやってくれないから、道理とは思うが、やはり女を恨んでしまうのも当然だろうということで、女を・からかって、詠んで遣った。時は秋だったのだ。

 秋の夜は春ひわするゝ物なれやかすみにきりやちへまさるらん

 (秋の夜は春の日々を忘れるものだろうか、春霞より秋霧は、千も重ねるほど優っているのだろうか……秋の夜は、春情の火を忘れるものなのか、かす身に飽き限りは、心地・千倍も増さるのだろうかと、こんなのを詠んだ。

 女、返し、

 千々の秋ひとつの春にむかわめやもみぢも花もともにこそちれ

 (千々の秋一つの春に向かって、季節は移り・行くでしょうよ、もみぢの君も春花の君も、同じよ・共に散るものだし……千々の飽き満ち足り、一つの張るものに、対向できるかしら、君の方が・千倍も好いよ、もみじも花も共に、散ればいい・わが庭に

 

 

貫之のいう「言の心」を心得て、俊成のいう言の戯れを知る

 「すまず…住まず…通って来ない…済まず…ことが完了しない…和合できない」「ゑかく人…絵描く人…絵師」「ものす…来ている…仕事をしている(絵を描いている)…ものしている」「もの…はっきり言い難いこと」。

 「秋…飽き…飽き満ち足り」「春…春情…張る…張るもの…武樫おとこ」「かすみ…霞…かすか…かす身」「かす…くず…自嘲した言い方」「きり…霧…限り…果てどき」。

 「もみぢ…秋の木の葉…飽き満ちた子の端」「はな…桜花・梅花…木の花…おとこ花」「こそちれ…散るのよ(強調)…(わが庭にぞ)散れ(命令形)」「庭は物事行われるところ…言の心は女…おんな」「ちれ…ちる…はてる…ゆく」。

 

春のおとこ花も、飽きの満ち足りたもみじばも、共に、我が庭に散らしていいよ、という。このように言う女も居たというお話。

このようなお話を、結婚形態が異なり、倫理観も異なる、今の世の不倫は罪悪のようの思う文脈で読み、とやかくいう愚かさは、言わずともおわかりでしょう。よくあることである。二人の男、鉢合わせしないようにするのが、家の女房たちの腕の見せ所で、この家の庭(には)は荒廃することはない。めでたしめでたしである。


 (
2016・7月、旧稿を全面改定しました)