帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第九 羇旅歌 (409)ほのぼのとあかしの浦の朝ぎりに

2018-02-05 19:32:39 | 古典

            

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第九 羇旅歌

 

(題しらず)           (よみ人しらず)

ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島かくれゆく舟をしぞ思ふ

     この歌は、ある人の曰く、柿本人麿が歌なり。

(ほのぼのと明けゆく、明石の浦の朝霧どきに、島隠れゆく舟を、惜しいとぞ思う……ほのかに夜が明けゆく、厭かしの心の浅限りに、肢間かげに隠れ逝く夫根を、愛しく惜しいと、思う)。

 

「あかし…明石…地名…名は戯れる。夜を明かし、飽きし、厭きし」「浦…言の心は女…うら…裏…心」「朝霧…浅切り…浅限り…薄情な終わり」「島…しま…肢間…股間」「かくれゆく…隠れて行く…隠れ逝く」「舟…ふね…夫根…おとこ」「をしぞ…(お肢)ぞ…惜しいぞ…愛しい…愛着ある…執着ある」。

 

作者は流されゆく人、その舟より見た、明石の浦の朝霧の中、島陰に隠れゆく他の舟の景色――歌の清げな姿。

人麿はある日、都から忽然と消えたという。そのまま、流されゆく時の歌。

 

ほのかに夜が明けゆく、厭きし心の浅限りに、肢間かげに隠れ逝く夫根を、愛しく惜しいと思う――心におかしきところ。

己の命、都に残した妻、地位などに対する執着が、性愛の果ての惜しまれる情況に顕されてある

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


 


帯とけの「古今和歌集」 巻第九 羇旅歌 (408)宮こ出でて今日みかの原いづみ河

2018-02-03 20:10:27 | 古典

            

                      帯とけの「古今和歌集」

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第九 羇旅歌

 

題しらず            よみ人しらず

宮こ出でて今日みかの原いづみ河 かはかぜさむし衣かせ山

(題しらず)            (よみ人しらず・匿名で詠んだ女の歌として聞く)

(都を出でて、今日みかの原、出づ身かは?・泉川、川風寒い、衣、貸せ山・鹿背山……絶頂を出て、京見たのか、平の原、出づ身、貴身かは?、おんなの心風寒い、心と身に、山ば貸しておくれ)。

 


 「宮こ…都…京…極まり至ったところ…山ばの頂上」「今日…けふ…京…絶頂」「みかの原…原の名…名は戯れる。見たか平原、見たのは平原か」「いづみ河…川の名…名は戯れる。泉川、おんな川、出づ身かは?、我が身か、貴身の身か?」「川風…川に吹く風…女心に吹く風…おんなに吹く風」「川…言の心は女…おんな」「ころも…衣…心身を被うもの、心と身の換喩」「かせ山…山の名…名は戯れる。鹿背山、貸せ山ば」。

 

都を出でて、今日みかの原、泉川、川風寒い、衣、鹿背山――歌の清げな姿。

行き先も事情も、わからないけれども、原、川、山の名の羅列で、女の寒々とした旅情を表現した。

 

絶頂を出て、京見たのか、平の原、貴身、出づ身かは?、おんなの心風寒い、心と身に、山ば貸しておくれ――心におかしきところ。

性愛における、おんなの喪失感。それらは、清げな歌言葉の、戯れに顕れる。

流人の歌の隣に、ただ並べられてあるが、もしや、流人の妻の歌かも。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第九 羇旅歌 (407)わたの原八十島かけてこぎいでぬと

2018-02-02 19:39:02 | 古典

            

                      帯とけの「古今和歌集」

                     ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第九 羇旅歌

 

隠岐国に流されける時に、舟に乗りて出で立つとて、

京なる人のもとに遣はしける     小野篁朝臣

わたの原八十島かけてこぎいでぬと 人にはつげよ海人の釣り舟

(隠岐国に流された時に、舟に乗って出で立つとて、京にいる人のもとに遣った・歌……沖のくにに、流された時に、ふ根にのりて、またも漕ぎ出たと、山ばの頂上にいる女の許に遣った・歌)(おののたかむらあそん)

(神の海原、八十島、かけて漕ぎ出たと、人々には、告げよ、海人の釣り舟……綿のをうな腹、多情の肢間かきわけ、またも漕ぎ出たと、女には告げよ、おんなの吊りふ根)。

 

 

「隠岐の国…沖のくに…奥のくに…おんなのせかい」「いでたつ…出で立つ…(再度)出で立つ」「京なる人…都にいる人々…山の頂上にいる人…山ばの頂上にいる女…絶頂に成った女」。

「わたの原…神の海原…綿の腹…おんなの柔腹」「八十島…多数の島…多情の肢間」「しま…島…肢間…おんな」「こぎ…漕ぎ…水かきわけ進む…をみなかき分け進む」「人…人々…女」「あま…海人…漁師…おんな」「釣り舟…(吾間の)吊りふ根…さね…おんなの核」。

 

流人の乗った舟が、出立したと、京の人々に告げてくれ、見知らぬ漁師よ――歌の清げな姿。

命も怒りも全てを捨てた男の、むなしい心の叫び。

 

綿のをうな腹、多情の肢間かきわけ、またも漕ぎ出たと、女には告げよ、おんなの吊りふ根――心におかしきところ。

この世で、出世欲なども命も捨て、思い切り、表出したエロス(性愛・生の本能)。

 

この歌についての、俊成の評は、「人には告げよ、と言へる姿心、たぐひなく侍るなり」。人々には告げよ…女には告げよと言った、清げな姿…心におかしきところ、類例はないのです。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第九 羇旅歌 (406)あまの原ふりさけ見れば春日なる

2018-02-01 19:15:56 | 古典

            

                      帯とけの「古今和歌集」

                     ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第九 羇旅歌

 

 

唐土にて月を見て、よみける    安倍仲麿

あまの原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも

(もろこしにて、月を見て、詠んだ・歌……遠い外国にて、月人壮士を見て、詠んだ・歌)(あべのなかまろ)

(天の原、ふり離れて見れば、あれは、春日の三笠の山に出た月ではないか……吾女の腹ふり避けて、見れば、わがものは、かすかである、三重なる山ばに出た月人をとこ、あゝ)。

この歌は、昔、仲麿を、唐土に物習はしに遣はしたりけるに、多数の年を経て、え帰りまうで来ざりけるを、この国より又使まかり至りけるにたぐひて、まうで来なむとて出で立ちけるに、明州と言ふ所の海辺にて、かの国の人、餞別しけり。夜になりて、月のいと面白くさし出でたりけるを見て、よめるとなむ語り伝ふる。

 

 

「あま…天…吾女…わがおんな」「原…腹」「かすがなる…春日なる…微かなる」「三笠の山…山の名…名は戯れる。三重なる山ば」「月…月人壮士(万葉集の歌言葉)…(万葉集以前の別名は)ささらえをとこ」「かも…詠嘆を含んだ疑問の意を表す…詠嘆の意を表す」。

 

大海原をふり離れて見れば、あれは昔、春日の三笠の山に出た月ではないか――歌の清げな姿。

抑えがたき望郷の念。

 

吾をうな腹、ふり避けて、見れば、微かである、三重なる山ばに出た、ささらえをとこ、あゝ――心におかしきところ。

難破し漂着した南方の明州から、唐の都へ帰る折の、男の心と身の端が、最も憔悴した情況。

 

この歌は、土佐日記に、解りやすく、現代文にすれば、ほぼ次のように紹介されてある。

 

廿日。昨日のようなので、船を出さない。みな人々、うれへなげく(憂れい、嘆く)。苦しく心細いので、ただ日の経った数を、今日で幾日、二十日、三十日と数えていると、お指も傷めてしまいそう。とっても詫びしい、夜は眠れず。はつかの(二十日の…かすかな)夜の月がでた。山の端もなくて、海の中より出て来る。このようなのを見てか、むかし、阿倍の仲麻呂といった人は、唐に渡って、帰り来るときに、船に乗るべき所にて、彼の国の人、はなむけし(餞別の宴をし)、別れ惜しんで、彼の国の漢詩を作ったりしたのだった。飽きもしなかったのだろうか、二十日の夜の月が出るまで、そうしていたという。その月は海より出たのだった。これを見て、仲麻呂の主、わが国では、このような歌をですね、神世より神もお詠みになられ、今は、上中下の人も、このように、別れを惜しむときや、喜びも悲しみもあるときには詠むのです」といって詠んだ歌。

「彼の国の人、聞いてもわからないだろうと思ったけれども、ことの心(言の心)を、おとこもじ(漢字)にして、さま(様…歌の意味)を書き出し、わが国の言葉を伝え知った人に言い知らせると、こゝろ(歌の心・心におかしきところ)を聞き得たのでしょう。思う以上に愛でたのだった。唐とわが国とは、言葉は異なるけれども、つきのかげ(月の光…月の陰の意味)は同じでしょうから、人の心も同じことなのでしょうか」。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第八 離別歌 (405)下の帯の道はかたかたわかるとも

2018-01-31 19:04:59 | 古典

            

                      帯とけの「古今和歌集」

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も知るべきである。

 

古今和歌集  巻第八 離別歌

 

     道に遭ヘリける人の車に、物を言ひ付きてわかれ

 ける所にて、よめる           友則

下の帯の道はかたかたわかるとも 行めぐりても逢はむとぞ思ふ

(道で出遭った人の車に、物を言っていて、別れた所にて詠んだと思われる・歌……路に合った女の、来る間に、物を言い尽きて、離れたところにて、詠んだらしい・歌)とものり

(下の帯状の道は、互いの方向に別れるけれども、往きめぐりても、逢いたいと思う……下のおひの通い路は、片々・方々と、離れても、逝き、め繰りても、また合いたいと思う、思うでしょう)。

 

 「道…路…通い路…おんな」「あへり…遭遇した…出会った…合った」「付きて…尽きて」。

「した…下…下半身」「帯…帯状になった道…おび…おひ…ものの極まり…感の極まり…絶頂」「かたがた…方々…片々…それぞれの方向…カタカタ…車の音」「行…ゆき…往き…過ぎ去る…逝き」「めぐり…廻り…巡り…め繰り…め捲り」「め…おんな」「逢はむ…合はむ」「む…(逢い)たい…意思を表す…(合い)ましょう…勧誘の意を表す」。

 

帯状の道は、互いの方向に別れるけれども、往きめぐりても、また逢いたい、と思う――歌の清げな姿。

女車に、物言いかけていて、別れ際に詠んだ歌。女たちには快く響く言葉だろう。

 

下の感極まる通い路は、片々と、離れても、逝き、め繰りても、め捲っても、また合いたいと思う、思うでしょう――心におかしきところ。

女車には、ものもうでに出かける女房・女官が四人ほど乗っていたとしよう。彼女たちは、すぐに歌の「心におかしところ」を感じとり、今の男誰よと、嬌声をあげて、和んだだろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)