◎枢密院本会議を休会し陛下の録音放送を拝聴した
今井清一編『敗戦前後』(平凡社、1975)から、東郷茂徳の「八月十二日より十六日まで」という文章を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
御前会議後閣僚と共に首相官邸に赴き閣議に参加したが、その間に外務次官を招致し連合諸国に対する通告書を準備するように話した。閣議は夜に入り詔勅案の審議を了えて捧呈し、同十一時詔勅が発布せられた。右閣議終了後全部の人がまだ円卓について居る間に阿南陸相は自分の所に来て姿勢を正した上、先刻保障占領及び武装解除に付き連合国側に申入るる外務省案を見たがあれはまことに感謝に堪えない、ああ云う取扱をして貰えるのであったら御前会議でもさほど強く言う必要もなかったのだと挨拶したから、自分はこの二問題に付いては条件として提出するに反対であったが我が方の希望として申入るることはたびたび説明した通りであると答えたが、先方は重ねていろいろ御世話になりましたと丁寧に御礼を云うので、少しく鄭重過ぎる感じを受けたが、とにかくすべて終了してよかったと笑って別れた。
同日深更から十五日早朝にかけ宮中において近衛兵一部の騒擾〈ソウジョウ〉があり、又総理の私邸及び平沼邸の焼打事件があった。又十五日早朝に陸相自決せる旨の報道に接した。それでその昨夜の態度が了解せられた。その他にも本庄〔繁〕大将以下多数者の自決があった。
十四日深夜スイス及びスエーデン両国政府を通じて米英蘇支四国政府に対し、陛下におかせられては「ポツダム」宣言受諾に関する詔書を発布せられ、右に関する諸手続を執らるる用意ある旨を申入れた。なお前記の占領及び武装解除の問題に付き十五日朝、
一 帝国政府は「ポツダム」宣言の条項を誠意をもって実行せんとするものなるにかんがみて帝国政府の責務を容易円滑ならしめかつ無用の紛糾を避くるが如き配慮を希望する、これがため、
(イ) 連合国側の艦隊又は軍隊の本土進入に就きてはあらかじめ通報せられたい。
(ロ) 保障占領の地点はその数を少なくしかつ派駐の兵力も小ならんことを希望する。
二 武装解除は帝国軍自らこれを実施し連合国は右の結果として武器の引渡しを受くるものとせられたく、又随身兵器は認められたい。
旨を述べ、なお万一先方が強圧的態度に出で、双方共に不慮の困難に遭逢〈ソウホウ〉するが如きことなきよう四ヵ国政府が我が希望に対し切実なる考慮を加えられんことを希望する旨をスイス国政府を通じ米国政府に伝達せしめた。
なお十五日夕刻在スイス国加瀬〔俊一〕公使から在同地米国公使館より中立諸国に在る日本の公使館及び領事館の財産及び書類を連合国側に引渡すべき旨の要求があったとの来電に接したから、十六日直ちに本件要求は我が方の受諾したる「ポツダム」宣言のいずれの条項にも該当するものでないから米国の要求を応諾し得ざることを回答した。
十五日午前十時から枢密院本会議開催せらるることになって居たが、前夜宮城内における騒擾のため幾分遅延して十一時半より陛下御親臨の下に開催せられ、自分から戦争終末に関する詳細の経緯を報告した。正午陛下の終戦に関する録音放送があったので暫時休会して一同これを拝聴したが、陛下の大仁無私にして真摯なる態度がよく現われて居るので国民一同の感動はさこそと察せられた。報告後二、三質問があり、本庄〔繁〕顧問官等は占領の長明に渉るを恐れて居るので、保障占領の性質上かつは近時の実例に照らしさほど長かるべしと思われずと説明し漸く安心を得た模様であった。更に深井〔英五〕顧問官はかねて戦争の成行に付き甚大の憂いを持って居たがかく終末に至ったのは誠に慶祝の至りで、これ御陵威【みいつ】の致す所なるも政府殊に外務大臣の苦心に対し満腔〈マンコウ〉の謝意を表するものでそのためわざわざ病躯を提げて出席したと述べて感銘を与えた。一時半までに報告及び質問に対する応答を了えた。
右会議前総理より内閣総辞職に付いて相談があったから、自分は極めて適当の措置と思うと賛成したが、午後二時緊急閣議が開催せられ、総理から時局の収拾に付き御聖断を煩したるはまことに恐懼【きようく】に堪えずかつこの際少壮有為の人物が政局を担当することが適当と考うる旨を述べ、右の理由をもって総辞職をなしたいと申出でたので、各閣僚すべてこれに賛成して総理より全部の辞表を捧呈した。
十六日正午に戦闘を休止すべき旨の御命令があった。しかしこの命令が各地に到達するには内地においては二日、満州、支那、南洋地域においては六日、「ニューギニア」及び比島は十二日の日子〈ニッシ〉を要する旨を先方に通報した。
『東郷茂徳外交手記――時代の一面』
昭和四十二年 原書房
8月15日午前11時半より、天皇親臨の枢密院本会議が開催されたが、12時に暫時休会し、「録音放送」を聞いた、とある。本会議の場にラジオが持ちこまれたのか、顧問官らがラジオのある場所に移動したのか、このあたりを書きとめておいてもらいたかったところである。
「本庄大将」と「本庄顧問官」が出てくるが、同一人物である。元侍従武官長の本庄繁は、1945年5月19日に枢密顧問官となった。同年11月20日に自決。
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