礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

飛行機からのビラが、天皇をそうさせた(林三郎)

2023-08-20 01:31:47 | コラムと名言

◎飛行機からのビラが、天皇をそうさせた(林三郎)

 今井清一編『敗戦前後』から、林三郎の「終戦ごろの阿南さん」という文章を紹介している。本日は、その四回目。
 
 八月十四日の早朝、米軍飛行機は東京その他の都市に多数のビラを撒きちらした。ビラには日本語で、ポツダム宣言受諾にかんする日本政府の申入れと、連合国側の回答とが印刷されてあった。政府は狼狽した。今まで隠していたことが暴露されたからである。
 阿南さんが頼みにしていた畑元帥は、米軍飛行機の頻繁な来襲のため、十三日には来れず、やっと十四日の朝に着京した。その上、着京後の元帥の行動も、彼の期待外れとなった。天皇が先手をうち、午前十時に杉山、畑、永野〔修身〕の三元帥を宮中に召されたからである。そして天皇は降伏の決心を固めた旨を述べ、軍がこれに服従するよう要求された。
 一方、阿南さんは他の大臣とともに、午前十時開会予定の閣議のため、総理官邸に集まっていた。ところが急に予定が変更され、そのままの服装で、すぐに宮中に参集ということになった。全閣僚のほか、両軍の総長、〔平沼騏一郎〕枢密院議長、最高戦争指導会議幹事も召された。天皇自らの発意にもとづく御前会議の召集である。このような召集は、今回が最初である。これまでは、いつも総理と両軍総長の共同奏請にもとづき召集されていたのである。飛行機からまき散らされたビラが、天皇をそうさせた。軍隊や国民が、和平交渉を知って騒ぎ立てる前に、聖断を下してしまおうという意図だったのである。
 御前会議では総理は〔梅津美治郎〕参謀総長、〔豊田副武〕軍令部総長、陸軍大臣の順序に意見を述べさせた。この三人の意見は大体同じ趣旨のもので、連合国の回答によると国体の護持がむずかしそうであるから、今一度問合わすべきであり、もしも、その保証がえられなければむしろ戦争を続けた方がよいというのであった。だが、結局、重苦しい空気のうちに、遂に降伏にかんする聖断が下された。時に正午であった。
 御前会議から出てきた阿南さんは、平素と少しも違った様子はなく、いつもの温顔にゆったりした物腰であった。そして、その足で総理官邸に赴き、他の大臣と一緒に昼食をとった。昼食後、彼は階下の便所で小用を足しながら、しばらく考えこんでいた。それから真剣な面持で「東京湾の近くに来ている上陸船団に打撃を与えてから、和平に入る案はどう思うか」と、小さな声で私に尋ねた。この思いがけない質問に、私は驚いた。彼には、聖断がすぐに呑みこめなかったらしい。私は「第一に聖断が下った以上、これに従うべきである。第二に上陸船団にかんする情報をしばしば聞くが、どこからもまだ確認の報告は一つもきていないから、そのような重大な決心の対象にはならない」旨を述べた。彼は、ただ私の顔を見つめながら聞いていた。
 この上陸船団にかんする情報は、そのころ、確かに陸軍中央部内に言いふらされていた。聖断の下った十四日の夜、市ガ谷台の警備憲兵や衛兵が集団逃亡したのは、この船団があすにでも上陸してくるとの噂に、脅えたったためであった。クーデターを計画した将校や八・一五事件を起こした将校も、この噂を信じていた。彼らは、米国は強力な上陸船団を背景にして、日本に無条件降伏を強要しており、その船団の上陸は極めて近い将来に違いないと判断していた。しかし判断の基礎は確認された情報ではなく、単なる噂にすぎない。その噂がたびたび言いふらされているうちに彼らはいつのまにか、それを信じてしまった。そして、このような米軍の上陸が極めて近いとの判断から、彼らに大打撃を与えることにより無条件降伏を緩和させることができようと、考えたのである。〈……〉

 8月14日、昭和天皇の発意による御前会議が召集された。林三郎によれば、同日早朝、米軍機によって撒かれたビラが、昭和天皇をして、御前会議の召集を決断させたという。この件については、のちほど、若干の補足をおこないたい。

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