礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

念の為、賢兄、ボアソナードに御面会……(伊藤博文)

2023-08-25 03:54:18 | コラムと名言


◎念の為、賢兄、ボアソナードに御面会……(伊藤博文)

 長尾龍一『思想としての日本憲法史』から、第4章「鹿鳴館の挫折とともに」の第五節「ボアソナードの義憤」を紹介する。

     ボアソナードの義憤

 ボアソナードの「旧条約ニ劣レル事甚ダ著シ」という言葉に関しては、明治前期最大の外交問題であった条約改正問題の概要を想起しなければならない。
 幕府が安政年間に列国と結んだ条約は、「屈辱的な不平等条約」でもあるが、神戸・横浜などの開港地以外での外国人の活動を厳しく規制するなど、鎖国原理を相当程度貫徹しており、これを先進国並みに改正しようとすれば、一方で関税自主権回復や開港地における治外法権の撤廃などの反面として、開港地以外での外国人に(例えば英米人がドイツやフランスで認められる程度の)「文明国」の国際的標準に沿った権利を与えなければならなかった。これがいわゆる「内地雑居」問題である。
 明治一二年〔1879〕に外務卿に就任した井上馨が、各国別交渉でなく、列国と一括して条約問題を交渉するため、彼が議長を勤める、各国公使による条約改正予備会議(一五年)の成果に基づいて、同本会議を一九年〔1886〕五月一日より開催した。モッセ到着の直前である。
 条約改正に関して日本国内で問題となったのは、内地雑居の文化的影響、更には脆弱な日本経済が外国資本の支配下に置かれる危険(「富士山が買い占められる」という者もいた)などであつたが、列国側は、日本の法制が不備で、裁判官の質も低く、「文明国民」の権利保護に不充分であるとして、法制の整備と外国人裁判官の任用を要求した。二〇年〔1887〕四月二日までに一応成案への合意が得られたが、その内容は「日本帝国政府ハ、本条約締結後二ケ年ノ中ニ於テ、全ク国内ヲ開放シ、永久外人ヲシテ雑居セシムヘシ」(一条)、「日本帝国政府ハ、万国公法ノ通則ニ従ヒ、日本帝国臣民ノ応ニ有スベキ権利及特権ヲバ凡テ外国人ニテ享有セシムヘシ」(三条)に始まり、「泰西主義」に基づく刑法、刑訴法、民法、商法、民訴法を起草し、その英訳を列国に示す(四条)、外国人が当事者である裁判に際しては、外国人裁判官が過半数、法廷用語は原則として日英両語で、日本代言人議会(弁護士会に相当)に外国人代言人の入会を認め(七条)、日本政府は外国人裁判官・検察官を任命する(八条)、本条約の効力は批准後一七年間とする(一二条)というものである⑴。ボアソナードは、外国人裁判官について井上毅に、「比〈この〉裁判ハ公平ナルベシト信ズル事ヲ得ルカ。其親近ナル処ニ偏庇スルハ普通人心ノ短所ナレバ、通常比裁判ハ日本人ニ不利益ナルベシ」と指摘している⑵。
 井上外相らは列国外交団の心証をよくするため、都心に続々洋風建築を建設し、また鹿鳴館を中心に、外国使節らを招いて舞踏会や晩餐会を頻繁に開催した。モッセ書簡にも頻繁にその様子が描かれる。「一月一〇日は[ホレーベン]公使主催、一五日は伊藤〔博文〕主催の舞踏会、一六日は我が家〔モッセ家〕でディナー、一九日は青木〔周蔵〕のところで、山縣〔有朋〕、ホレーベンらの出席する高級ディナー、我が家の倹約主義も滅茶苦茶だわ」(L20-11-7)。「昨夜は伊藤招待の舞踏会。ここで踊られているのがLancerやQuadrilleやCaledonianだとどうして信じられよう」(L20-1-6)、「日本にいると、心の中で軽蔑しているものを褒めるのが上手になる」(L20-10-13)と散々である。リーナによれば、会食の贅沢さは「罪悪的なほど(strafbar)」であった(L20-1-4)。この頂点に立つのが例のファンシーボールである。
 六月一日、ボアソナードの条約案批判意見書が内閣に提出され、先の井上毅との会談の筆記も秘密出版として世に流れる。七月三日、谷干城〈タニ・タテキ〉農商務相が批判の意見書を提出し、二八日に辞任。モッセは「ポアソナードと谷は時代の英雄となっている」と言っている(A20-8-8)。各新聞も激しく政府批判の論陣を張り、遂に井上外相も二九日各国公使に条約改正会議の無期延期を通告するとともに、辞意を表明した。八月一四日付伊藤〔博文〕の日記に「同氏[黒田清隆]ヲ同邸ニ訪外務大臣井上官ヲ辞セントスルノ大意ヨリ同人ノ請求ニ出スル大隈重信ヲ後任ニ挙クルコトニ及ヒ大隈諾否ノ意向如何ヲ探問スルコトヲ黒田ニ依頼ス」とあり、九月一七日井上は正式に辞任した。

 ⑴ 『明治文化全集 外交篇』四六四~九頁。
 ⑵ 同、四五〇頁。
 ⑶ 『滄浪閣残筆』二一二頁。

 文中、(L20-11-7)、(A20-8-8)などとあるのは、モッセ夫妻『在日書簡集1886‐1889』に収録されている書簡を示す記号。Aはアルバート、Lはリーナ、数字は明治の年号と月日だという。
「LancerやQuadrilleや Caledonian」とあるのは、いずれもダンスの種類。インターネットで検索すると、それぞれ、動画によって、踊っている様子を視聴することができる。
 最後、伊藤日記から引用している部分が、ややわかりにくい。「井上馨は、黒田清隆を黒田邸に訪ね、外務大臣を辞職するつもりだとして、その大意を語り、ついては大隈重信を後任に推挙したいので、黒田から大隈に対して、諾否の意向を探ってほしいと依頼した」という意味であろう。

今日の名言 2023・8・25

◎日本にいると、心の中で軽蔑しているものを褒めるのが上手になる

 アルバート・モッセの妻リーナ・モッセの言葉。明治20年(1887)10月13日付の書簡中に、こうあるという。上記コラム参照。

*このブログの人気記事 2023・8・25(3位・9位に極めて珍しいものが入っています)

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする