礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

林三郎「終戦ごろの阿南さん」(1951)を読む

2023-08-17 03:03:53 | コラムと名言

◎林三郎「終戦ごろの阿南さん」(1951)を読む

 似たような話が続いて申し訳ないが、本日以降、しばらく、林三郎の「終戦ごろの阿南さん」という文章を紹介してみたい。この文章は、今井清一編『敗戦前後』〔ドキュメント昭和史・5〕(平凡社、1975)に収録されていたものだが、初出は1951年だという。
 林三郎(1904~1998)は、終戦時に阿南惟幾陸軍大臣の秘書官を務めていたことで知られる軍人、軍事評論家である。

   終戦ごろの阿南さん       林 三 郎

〈……〉八月十二日の早朝、日本政府の要請にたいする米国側の回答が放送された。それによると、天皇の地位にかんする日本政府の唯一の留保条件には首及していない。そのため軍中央部の空気は一段と硬化し、午前八時二十分には両軍総長が揃って参内した。そして、天皇を連合軍最高司令官の意志に従属せしめんとする条件は日本を属国化するに等しく、陸海軍ともに平然としてはいられない旨を述べ、この際、連合国の条件を拒否されたいと奏上した。
 一方、陸軍では中、少佐が騒ぎ出した。すなわち午前十時ごろ十数名の中、少佐が大臣室にやってき、竹下〔正彦〕中佐が一同を代表してポツダム宣言受諾を阻止すべきであると、興奮しきった口調で述べた。そして「もしも阻止できなければ、大臣は切腹すべきである」とまで激しく詰め寄った。座は一瞬しーんとした。同席の若松〔只一〕次官は竹下中佐の言葉を強く抑えた。阿南〔惟幾〕さんは別に意見を述べようとはせず、他用があるとてすぐに部屋を出た。彼は自動車にのると、いつもはすぐに話しだすのだが、この時ばかりは沈痛な面持ちで、しばし無言であった。自動車が市ガ谷駅の横をすぎ麹町三丁目あたりにさしかかったころ、漸く低い声で「竹下はひどいことを言う奴だ。腹を切れとまで言わなくてもよさそうなのに。自分のような年輩になると、腹を切ることは左程むずかしくない」と話しだした。竹下中佐の言葉は、よほど強くこたえたようであった。
 官邸で少憩の後、彼は午前十一時三十分に鈴木〔貫太郎〕総理を訪ね、連合国の回答を無視するよう説得した。午後には一時から閣僚懇談会に出席した。席上先ず〔東郷茂徳〕外相が米国側の回答文を報告し、説明を付け加えた。その説明によれば、天皇の身分を明らかにすることを更に要求し、あるいは留保条件をふやすことは日本が交渉決裂をもくろむ証拠とみなされる危険がある。天皇の身分にかんする規定は曖昧だが、第一項、第二項および第四項において天皇の地位、なさるべきこと、最終的な日本国政府の形態のことが規定されているのは、天皇の地位が変わらずに残るものと解釈すべきであると。これにたいし阿南さんほか一、二の大臣は、そんな勝手な解釈を下すわけにはゆかぬから、今一度照会すべきであると力説した。総理には動揺の色がみえ、連合国の回答にたいする不満を率直に表明した。そして、今までの所信を変えて戦争を続ける以外に途がないと言いだした。議論は正に百出のかたちで午後五時をすぎてもつきない。だが、外相は形勢を不利とみ、正式回答を待つことを提案したので、漸く散会となった。
 この間、陸軍中央部では、日本皇室にかんする米国側放送を丹念に調べた。ニューヨーク・タイムス』紙や、『ヘラルド・トリビューン』紙が皇室廃止論であるというので、これらを印刷して閣議に届けたりした。
 午後八時、阿南さんは三笠宮〔崇仁親王〕邸をたずねた。宮邸といっても焼跡に残った防空壕であった。三笠宮から、天皇に翻意を促していただこうと、彼は考えたのである。会談後の彼は、竹下中佐の「切腹勧告」のあとと同じように、自動車が走り出しても、しばらくは無言であった。官邸に着く少し前になって漸く「三笠宮から陸軍は満州事変いらい大御心〈オオミココロ〉に副わない行動ばかりしてきたとお叱りをうけたが、そんなひどいことをおっしゃられなくてもよいのに」と、ただそれだけを低い声で語った。三笠宮のお叱りも、ひどくこたえたようであった。【以下、次回】

 文中、〈……〉は、『敗戦前後』の編集者によって省略されていることを示す(以下も同じ)。

追記 ここに登場する竹下正彦中佐は、当時、陸軍省軍務局軍務課内政班長。竹下正彦は、陸軍中将・竹下平作の二男であった。竹下平作の二女・綾子は、阿南惟幾に嫁いでいたので、阿南惟幾にとって、竹下正彦は義弟にあたる。このころ、阿南惟幾は、三鷹に住んでいたが、その裏隣りは、竹下正彦邸で、かつ綾子の生家であったという。2017年1月26日のコラム「三鷹の借家の前に阿南惟幾大将の邸宅があった」で、私は、以上のことに触れたが、本年8月17日に、このコラムを書いたときには、そのことを忘れていた。ここに追記する。2023・8・21追記。

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