◎発端は『月刊日本語論』に発表した拙論(小泉保)
小泉保の『縄文語の発見』は、1998年(平成10)6月に初版が発行された。小泉保は、2009年(平成21)12月に亡くなったが、その後、2013年(平成25)6月に、同書の「新装版」が発行され、2021年(令和3)5月には「新版」が発行されている。発行所は、いずれも青土社。
2013年の「新装版」では、著者の「あとがき」のあとに、三浦祐之(すけゆき)さんの「新装版に寄せて」という文章が付されている。また、2021年の「新版」では、「新装版に寄せて」のあとに、同じく三浦祐之さんによる「追い書き」が付された。
本日は、著者による「あとがき」を紹介してみたい。
あとがき
「ミイラ取りがミイラになる」というたとえがあるが、筆者はまさにミイラになったミイラ取りである。今から二十年ほど前、日本語の起源について白熱した論議が取り交わされた時期があった。当時、大修館書店におられた山本茂男氏から、日本語の系統に関する諸説を論評してくれるよう依頼を受けた。その頃筆者には日本語の来歴について自説というものがなかったので、案外客観的に諸説を批評できるのではないかと思い引き受けてしまった。ところが各種の系統論を扱っているうちに、おのずと独自の見解らしいものが出来上がってきた。
戦後五十年の間に、日本の考古学は縄文文化の雄大な輪郭を掘出しつづけてきた。だが、縄文時代の言語については言語学者も国語学者も口をつぐんだままであった。怠慢と言われても仕方がない。それは、奈良時代の言語の母親筋にあたる弥生語が現代日本語の祖先であるという仮説に縛られていたからである。そして、弥生語以前には素性の分からない多様な言語が話されていたが、弥生語によって統一されたと思いこんでいたのである。それは戦前の考古学が縄文時代を無視していた態度と共通している。このため、日本の周辺で用いられているいずれかの言語と弥生語とを関係づけようとするいくつかの系統説が主張され、相互に論争を繰り返しながら決着を見ないまま現在に及んでいる。
とにかく、異質の縄文諸語が今から二千年ほど前に弥生語によって制圧されて、消滅してしまったという見方はおおよそ歴史的に現実性の乏しい憶説である。この呪縛から解放されたとき、今われわれが話していることばの祖先である縄文語の姿が見えてくると考えている。ただし、言語の系統を解明する際、考古学や人類学の成果を尊重し、これを裏付けとして考慮する必要がある。
本書は、日本語以外の言語に日本語の起源を求めようとする従来の系統論とは違い、日本語の諸方言に比較言語学と地域言語学の手法を使って具体的に縄文語を再現しようと試みるものである。比較方法をもってすれば、今から三千年ほど前、すなわち、縄文晩期の言語を復元することはさほど困難なことではない。もちろん、ひとつの試論であるから、各方面からの叱正をいただきたいと願っている。だが、日本語の史的実相をいささかでも解明していると認めてくだされば筆者の意図はかなえられたことになる。
なお、服部四郎氏(一九三七)は「アクセントと方言」の注の中で、「発表したくないのであるが、誰もさう云ふことを考へずに今後幾年もたつ事は残念であるから」とことわってから、四国方面より近幾地方への甲種方言を話す民族の移動があり、本州にはすでに乙種方言が成立していて、甲種方言の割り込みにより中国と東国に切断され、その破片を十津川〈トツカワ〉の山岳地方に残したのではないかと付記している。これは拙論における表日本縄文語の設定にかかわる考え方である。すでに本書が初校を終えた段階で、この重要な見解を見落していたことに気づいたので、ここに紹介しておく。
本書は、山本茂男氏の熱心な慫慂〈ショウヨウ〉に応えるもので、胸中にはぐくまれた日本語の祖形を再構成する方式を発表する機会が与えられたことに深く感謝している。
思えば、本書執筆の発端は『月刊日本語論』(一九九四年一一月号・山本書房刊)に発表した「方言周圏論による原日本語の内的再構」にあった。この拙論において「トンボ」の方言形を通しその原形を求める作業を行なった結果として、縄文語が東北方言に継承されているに相違ないと信じるようになった。この考え方に基づいて、さらに構想を全国的に拡大し、比較実証の方法を精密化することにより、本書にまとめられたような結論に達した次第である。さらに、青土社の清水康雄氏がこころよく本書の出版を引き受けてくださったことに心からの謝意を表明する次第である。
一九九七年 霜月 小 泉 保
小泉保の論考「方言周圏論による原日本語の内的再構」は、『月刊日本語論』第2巻第11号「一周年記念特集――日本語の起源をさぐる」(1994年11月)に掲載された。
『月刊日本語論』というのは、1993年11月(第1巻第1号)から1994年11月(第2巻第11号)までの間、山本書房から発行されていた月刊誌で、編集・発行人は山本茂男であった。第2巻第11号(通巻第13号)を出したところで休刊。小泉保の右論考が掲載されたのは、その最終号である。
文中、服部四郎氏(一九三七)の「アクセントと方言」とあるのは、服部四郎『アクセントと方言』〔国語科学講座第7(45)〕(明治書院)のことと思われるが、確認はしていない。
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