礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

余は喜田氏とは反対の感情を有するものなり(菊池謙二郎)

2020-03-18 02:22:50 | コラムと名言

◎余は喜田氏とは反対の感情を有するものなり(菊池謙二郎)

『日本及日本人』第五百五十四号(一九一一年三月一五日)「南北正閏論」特集から、菊池謙二郎の「南北朝対等論を駁す」を紹介している。本日は、その四回目。文中、喜田貞吉の文章を引いているところは、《 》で示した。

 喜田氏又曰く、
《南北朝合併当時の事を考ふるに南北合併にあらずして実は北朝に併合せられたること韓国が我国に併合せられしが如し、南朝の公卿百僚は凡て免官となり、南朝の主張たる王政行はれず、依然として足利の武家政治行はれ、大覚寺持明院両統交互御即位の議ありしも其事行はれず、又後小松天皇は後亀山天皇より神器を受けられ始めて天皇の位に即かせられたるにあらずして初めより天皇にして其際真の神器を御受なされたるなり。》
 喜田氏は南北合併にあらずして北朝に併合せられしなりといへどそは事実に違へり。南朝は北朝の希望を容れて合一せしなり。北朝に併合せられしものとせば父子の礼を用うるといふは無き筈なり。北朝に併合せられしものとせばいかで両統迭立〈テツリツ〉の議あるべき。韓国皇帝が其主権を我陛下に譲与せられしとは異れり。其両統迭立の議の実行せられざりしも南朝の臣僚が廃黜〈ハイチュツ〉せられしも、王政行はれずして武門栄えしも、要するに勢力の消長に在るのみ、情理には非ざるなり。氏の論は成敗の跡に就いて立言せしに過きず。又後小松院は初より天皇なりといへるは北朝方の見方なり、初より天皇なりと断定するときは南北朝に関する議論を為すに及ばざるに非らずや。此処喜田氏論理を誤れり。
  喜田氏曰く
《南北朝は歴史上前例なき大なる変態なるが其由来は後嵯峨天皇以後、後深草亀山二帝の事より始まる此御兄弟相承より両統交立の習慣を醸成し両統の争の結果南北朝の変態を生ぜり而して此変態は天定つて一に帰す〈イツニキス〉べく北朝即ち皇兄深草天皇の統に帰したるものにして自然の勢と見るべし、〔北畠〕親房卿は神皇正統記〈ジンノウショウトウキ〉に於て天武天皇の御子孫より天智天皇の御子孫に復するに至れりは正統に復するものなりと記せるが正に其通りなり。》
 氏は持明院統を揚げて大覚寺統を抑ふれども余は喜田氏とは反対の感情を有するものなり。大覚寺統は後嵯蛾天皇の遺詔に由りて永く大統を継承すべく持明院統は長講堂領已下〈イカ〉百八十ケ所を供御〈クゴ〉とし天位を断念すべしと定められしにも拘らず、持明院統は之に満足せず窃かに〈ヒソカニ〉鎌府〔鎌倉幕府〕に依頼して遂に交互に皇統を継承することゝなり、剰へ〈アマツサエ〉永く供御地を領有せられしなり、故に北朝方の記録たる梅松論〈バイショウロン〉さへも、いたく大覚寺統に同情を寄せたり。大覚寺統は後嵯峨天皇の遺詔に由つて天位を継承すべきものと定められしものなれば南北合一以後持明院統に皇位の帰せしと天智天皇の御子孫に天位の復帰せしとを同一視すべきにあらず、形式の上より見れば天智天皇・後深草天皇も皇兄なるが故に喜田氏は同一視して正統に復するは自然の勢なりと論ぜしならむも情理に於ては異れり。親房卿が『この君(光仁天皇)かく継体にそなはり給ふ、猶正にかへるべきいはれなるにこそ』と言へるは天智天皇が単に天武天皇の皇兄なりとの故のみにあらずして天智天皇が逆臣を誅し国家をも安んじ給ひし功徳を称へ〈タタエ〉暗に天武天皇の挙兵を非なりとし天智天皇の御子孫に天位の帰せしは正に復したりとの意なり。親房の此論旨を持明院大覚寺両統の間に応用するは失当なり。【以下、次回】

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