礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

本家は貧乏しても本家なり(菊池謙二郎)

2020-03-17 01:05:42 | コラムと名言

◎本家は貧乏しても本家なり(菊池謙二郎)

『日本及日本人』第五百五十四号(一九一一年三月一五日)「南北正閏論」特集から、菊池謙二郎の「南北朝対等論を駁す」を紹介している。本日は、その三回目。文中、喜田貞吉の文章を引いているところは、《 》で示した。

     
 喜田氏が南北朝対等の論拠として世間に発表せられたるは右の外に出でざるが昨年〔一九一〇〕十二月文部省開催の修身科講習会にて同氏演述の筆録を見るに稍〈ヤヤ〉詳細に渉れるが如し。但し其筆録は喜田氏の検閲を経たるものならざれば固より正確なりと断定すること能はざれども余は会員二名の筆記を参照斟酌〈シンシャク〉して略々〈ホボ〉喜田氏の意見を窺ひ知るを得たり。左に抄出せるは即ち是なり。もし誤謬あらば講演者喜田氏の寛恕を乞はざるべかからず。さて喜田氏曰く、
《尊氏西上するや後醍醐天皇延暦寺に幸〈ミユキ〉せらる、尊氏光厳院の院宣を奉じて光明〈コウミョウ〉天皇を擁立せり、其後一時講和の時後醍醐天皇より光明天皇に神器を御渡になれり、伹し此神器は偽器なりと雖も正当の神器なりとして御授与ありし上は真の神器と其価値変ることなし、又当時の実際に徴すれば其初は南北の勢力匹敵なりしも終に南朝は吉野の一隅を有せらるゝに過ざざりしなり。》
北朝方に在りては光厳院を天皇と認めしも北畠親房卿の如きは偽主なりと言へり。後醍醐天皇隠岐より還幸の時、重祚〈チョウソ〉の礼を用ひ給はずして巡狩還幸の儀を用ひさせられ光厳院の御在位を否認せられしなり。後醍醐天皇隠岐遷幸の際二種の神器を光厳院に授け給ひ且後醍醐帝蒙塵〈モウジン〉中統治権は光厳院に帰せしを以て光厳院を天皇と認むべしとの説あれ共二種の神器を授け給へりといふことに就いては異説ありて真偽分明ならざるのみならず、後醍醐帝は其巡幸中に単に皇太子が政治を行はれしものと認定せられしなり。されば後醍醐天皇の御旨意よりすれば光厳院を天皇と認むるは非なり。大日本史以来の如く光厳院を天皇と認めざるときは其の院宣の効力も従つて疑問となる、其効力の如何しき〈イカガワシキ〉院宣に由つて践祚せられし光明院は正天子なりや、実に疑はしき限りなり。喜田氏は光明院が後醍醐天皇より受けさせられし三種の神器は偽器なりしも真の神器として授受ありし上は其価値に於て同一なりと言へども、北朝にては偽器たることを覚りて別に神器を造れり、初より終まで偽器たることを知らずして真の神器と認めしなれば其価値異ることなしとの議論も或は理あるに似たれども偽器たることを知りては詮なきことならずや、後醍醐天皇が予め神器を造り置きて之を授け給ひしより見ても真の神器を擁する以上は天皇なりとの御自信あらせられ、又北朝が神器を以て安んぜず、如何にもして真の神器を得んと熱望せられしより観るときは実際神器を有せざりし北朝を正統なり認むる能はざるなり。又喜田氏が両朝の勢力の上より対等論を主張する如きは弁ずるに足らずと思はる、本家は貧乏しても本家なり、分家は富有なれども分家なり、喜田氏の論は猶〈ナオ〉貧富を以て本末を別つが如し、勢力の大小と天位の正閏とは別問題なり、没交渉なり。【以下、次回】

 このあたりは、かなり込み入った議論になっている。事実関係については、関係の歴史書によって確認されたい。私はたまたま、東京新聞で、呉座勇一さんの「争いに嫌気差した尊氏」という記事(「名ぜりふで読み解く日本史」第12回、二〇二〇年三月三日夕刊)を読んでいたので、喜田と菊池の間の議論は、何とか理解することができた。
 なお、ここで押さえておかなければならないのは、菊池のこの文章が書かれた当時は、歴史とイデオロギーとが分ちがたく結びついていたということである。すなわち、ここでの菊池謙二郎の議論も、歴史上の「事実」についての議論のように見えて、実は、歴史という「イデオロギー」についての議論なのである。

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