礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

観樹将軍(三浦梧楼)、南北正閏問題を語る

2020-03-11 02:53:57 | コラムと名言

◎観樹将軍(三浦梧楼)、南北正閏問題を語る

『日本及日本人』第五百五十四号(一九一一年三月一五日)、「南北正閏論」特集の紹介に戻る。
 本日は、同書の巻頭にある「観樹将軍の正閏観」を紹介する。『日本及日本人』の記者によるインタビュー記録である。長いので何回かに分けて紹介する。「観樹将軍」とは、明治大正期の軍人・三浦梧楼(一八四七~一九二六)のことである。

  観樹将軍の正閏観

 去る〔三月〕九日、観樹将軍を熱海の別墅〈ベッショ〉に訪ふ。昨秋〔一九一〇年八月〕朝鮮併合当時は、激甚なる水害の惨禍を受け、九死の中僅に一生を得られ、家屋倒壊、庭園荒廃、唯だ砂礫の累々たるを見るのみなりしも、今や全く旧観に復し、瀟洒たる楼屋新たに成り、雅致ある泉石其の処を得、幽邃〈ユウスイ〉なる四囲の山光水色と相映して、宛乎たる脱塵の一仙郷、見るからに心すゞしき趣を覚えぬ。柴門〈サイモン〉深く鎖せる〈トザセル〉古色蒼然たる一小鐘を吊り、其の右側の柱に撞木〈シュモク〉を掛け、上に將軍の書とおぼしき飄逸なる体にて、「これを御たゝき」との帖書あり、乃ち取つて之れを打つに鏗々〈コウコウ〉として響く、侍女の案内未だ了らざるに、欣々乎たる将軍は戸を排いて〈ヒライテ〉迎へられ、「オー能く来た、サアー」と許り請ぜられぬ。

 どうだ、東京は煩るさいだらう、何んのかのと騒いでるぢやないか、田舎は暢気なもんぜ、暖つたかだらう、モウとつくに春だ、梅は過ぎて了まつたが、四五日したら桜がポツ々々咲くき出すだらうよ。それに鶯〈ウグイス〉の奴がね、毎日朝早くから鳴いて居るのは、中々気持がよい、あいつ等も不思議なもので、巣立の始めはチツとも調子の合はない声で鳴てるが、自分でも考へるものと見へて、日一日と上達して一週間もすぎると立派にホーホケキヨと鳴くやうになるから面白いぢやないか。
 近頃?、丸るで土方の仲間入り、まだなほし切らん所が沢山あるので、石を動かしたり、土を運んだり、朝から晩まで泥まぶれ、それにね、庭木も何も一切押し流されたので、アツチコツチから木を選り出して来て植ゑて見るが、ナンボー植ゑても植ゑ足らんやうな気がしていかんよ、最初此処を作る時もさうだつた、始めは無茶苦茶に植ゑ込んで見たが、段々時が立つに随つて、あれも邪魔だ、これも要らぬと次第に抜き取つて、仕舞には半分位にへらしたものだ。今度も追々はさうなるだらう、何んでも創業の際は思ひ切つて集めるがえ い、それから漸々に選抜して整頓するのが順序だからノー。
 オヽ桜井〔熊太郎〕が死んだね、惜しい事をしたナア、あの位真面目で元気ある男は珍らしかつたが、今少し活かして置きたかつた、これから働き出さうと云ふ時に、残念な事をした、こんなに早く逝つたのは、無理に我慢をしたからだぜ。ソレ、去年中から一処に酒飲む度に、痛い痛いて云つてたぢやないか。もうあの頃から胃癌だつたのだらう、それを無理押して始終暴ばれ者の仲間と飲み廻つて居たのは、どの位病勢を速めたか知れはしない、いくら元気でも病気には勝てないからノー。無理をしてはいかん、病気になつたら一日も早く医者にかゝるが肝腎だ、君なども病気の時は元気任せに無埋をしてはいかんぜ。
 ヲイ、あの文部の、ソレ、小松原〔英太郎〕とかは未だ辞職せんのか、可怪しい〈オカシイ〉奴だナア、あの位の騒ぎをおつ始めて置きながら, 知らん顔の半兵衛はひどい、喜田〔貞吉〕!、そんな手下の奴等を何人斬つたからつて何になるもんか、兵卒を幾人殺して御託びしても、将校の責任は免れられる訳であるまいぢやないか、訳が分らんのか、づうづうしいのか、面の皮の厚いにも程があると云ふものだ。併しあゝ云ふ暗流は、宮内省にも文部省にも余程前から在つたものと見えるね、それを今日まで決めずに居つたなどは、無責任と云はうか、無能と云はうか、呆れ返つて了ふ。新聞などで見ると、近頃 陛下から御叱りを蒙つて、愈々南朝正統説に決つたなどの話を聞くが、そんな事なら、責任は益々重大な訳で、到底免れる道はない、これ程重い失態はなからうよ。
 山県〔有朋〕公が知らなかつたらしいつて、そんな事はあるまい、一朝一夕に起つた事でもないらしいのに、我々と違つてあの 人が今迄少しも知らないなんて事はなからう、併し知らなかつたと云ふでらう、あの人の遣り口は何時でも其の手だからナア。何時かも井伊掃部〔直弼〕の銅像一件で、あとで何か文句を云はれたやうだが、御手許拝見で、それよりすっと以前に島田三郎かの書いた井伊を頌した『開国始末』に、チヤンと序文を書いてるぢやないか。それを後とで都合が悪いと見ると、すぐ俺は知らないと御逃げになる、此の筆法はあの人の奥の手だから、今度の事だつても当てになるものぢやない。【以下、次回】

 文中、「激甚なる水害の惨禍」とあるのは、一九〇〇年(明治四三)八月に東日本一帯を襲った、いわゆる「明治四十三年の大水害」のことである。

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