礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『アラビアのロレンス』これで見納め(その3)

2023-12-29 00:59:44 | コラムと名言

◎『アラビアのロレンス』これで見納め(その3)

 映画評論家の青木茂雄さんのエッセイ「『アラビアのロレンス』これで見納め」を紹介している。本日は、その三回目。文中、一行アキは、原文のまま。

 『アラビアのロレンス』これで見納め(3)         青 木 茂 雄

 前回の続きである。

  観るたびに発見のあった映画  『アラビアのロレンス』5

2.シーンとシーンの継承、  シナリオの累積構造について
 スティーブン・スピルバーグ監督は、若い頃に映画館の最前列に陣取り、『アラビアのロレンス』をノートにメモをとりながら、何度も何度も繰り返して観たという。それほどまでに、この若い映画制作者の卵にとって、この作品は汲めども尽きせぬ泉のようなものであったのである。
 おそらく、スピルバーグが読み取ったのは、この作品の巧みなシナリオ構成であったろう。観客がおのずから画面に精神を集中させるためには、配慮された事項の時系列の排列、つまりシナリオによる導きがあってのことである。
 『アラビアのロレンス』は70ミリの大画面における砂漠の造形の美しさで公開当初評判になった。私も、公開当初にそのような批評を新聞や雑誌で読んだ。それに異論があるわけではないが、しかし、回を重ねて観賞していくにつれて、その美しさとは、単なるそこに映し出された色や形そのものではなく、それが《意味》を持った美しさなのであり、《意味》を与えるのがシナリオ構成なのである。
 一見してどのように壮大な画面も、どんなに美しい画面も、つまりどんなにスペクタクルな画面も、そこに込められた“意味”を抜きにしては、ただの画面である。その“意味”を感知させるのは何よりも、巧みに排列された画面のつながり(つまり“意図”された画面のつながり)である。通常、それは「カット割り」とか「カッティング」とか呼ばれ、ある場合は個々の監督の、ある場合はフィルムの個々の編集担当が“極意”として身につけてきたものである。それを草創期のソ連のエイゼンシュタインやプドフキンが“モンタージュ”論として提起したところから、のちの映画青年たちにはありがたい“護符”のように受け取られてきたことはあったとしても、この「カット割り」が映画の基本中の基本であることは極めて正しく、それは映画の本質とさえ言えるものだと私は思う。
 その「カット割り」に《意味の流れ》を与えるのがシナリオであり、シナリオはまたある種の《観念》がテーマを通して、有形なものとなったものとも言える。

 黒澤明によれば、映画の特徴はどちらかと言うと音楽と類似したものがあり、音楽と同様に時間の芸術の要素が強いという。それは《意味の流れ》が時間を介して人間の意識に現れ出ていくことを別の側面から言ったものであると私は考えている。たしかに作品としての映画は、第一義的にはフィルム(最近では電子情報媒体)という素材としてある。しかし、映画を映画たらしめているのは、上映→観賞を通して観客の中に時間の経過とともに現れて出ていくもの、これがその本質であると思う。その意味では、一つの媒体の中から観賞した観客の数だけ、映画があると思う。
 さて、職人芸を誇った映画監督、マキノ雅弘(正博)の口癖は、映画は「一スジ、二ヌケ、三ドウサ」、であったという※。「スジ」とはシナリオであり、「ドウサ」は演技のことをさす、これはすぐわかったが、「ヌケ」が長らく分らなかったが、映画に流れを作り出す「カット割り」のことだと気づいた、少なくとも自分はそう解釈している。そこで、問題はこの順序である。
※ 残念ながらどこで読んだのかは忘れてしまって手元に資料もない。あくまでも私の記憶としてご容赦願いたい。

 例えば、成瀬巳喜男の場合は私の見方では「一ヌケ、二スジ、三ドウサ」である。成瀬の「ヌケ」の技術は黒澤明も舌を巻くほどの、それほど神業に近いものであり、どんなに陳腐なスジや未熟なドウサであっても、見ごたえのある映画にしてしまう。
 黒澤明の場合は「一スジ、二ドウサ、三ヌケ」であろうか。彼がシナリオの作成に集団で心血を注いだというのは有名な話だが、その次に重んじたのが俳優の演技である。主役を全員缶詰状態にして、長期間シナリオの読みから始めてリハーサルに至るまでの経過はさながら“劇団黒澤”のようであった、という。そして完成された演技を舞台上演のような形でまず、行う。そして次に撮影。となってくると、従来の1カットずつの撮影方式によれば、演技に流れがずたずたにされてしまう。そこで彼は撮影においてはカットのつながりよりも演技のつながりの方を重視し、そこから複数カメラ(マルチカムシステムと当時呼ばれた)による独自のワンカット・ワンシーン(いやそれ以上のワンカット・ワンシークエンスとさえ言える)の製作技法を開発していった。撮影が終わると、黒澤はひとりで暗室に閉じこもり、ほとんど一人でフィルムの編集作業を行った、という。
 ワンカット・ワンシーン方式の草分け溝口健二の場合は、さだめし「一ドウサ、二スジ、三ヌケ」である。
 閑話休題。
 話しを元に戻す。カットの連続(継承)に対して大きなところで意味付けの連続(継承)性を与える装置が、シナリオである。カットにおける連続性と同様にまたシナリオも連続(継承)性の観点から考察しなければならない。          
 さて、『アラビアのロレンス』のシナリオ構成をシーンの連続(継承)という観点から以下具体的に見ていくとどのようになるであろうか。(この項、以下未完)  

 青木茂雄さんの「『アラビアのロレンス』これで見納め(その3)」は、ここまで。ご覧の通り、「語り納め」というわけではない。「つづき」の到着を待ちたい。

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