礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

磐田の南方・御厨村に敵機が焼夷弾を投下した

2023-12-21 00:38:06 | コラムと名言

◎磐田の南方・御厨村に敵機が焼夷弾を投下した

 当ブログでは、2016年12月、2017年1月に、上原文雄著『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、1972)という本を紹介したことがある。
 上原文雄は、1944年(昭和19)4月以降、名古屋憲兵隊に所属する浜松憲兵分隊の分隊長を務めた。本のサブタイトルに、「秘録浜松憲兵隊長の手記」とあるが、正確なところは、「秘録浜松憲兵分隊長の手記」である。
 時期からして、上原文雄は、浜松大空襲に遭遇している。そして彼は、『ある憲兵の一生』において、憲兵分隊長として、浜松大空襲に対し、どのように対処したかを、非常に詳しく語っている。
 本日以降、しばらく、同書のうち、浜松大空襲に関わる部分を紹介してゆきたい。ただし、年内に紹介できるのは、同書の第三章「戦渦」のうち「浜松地区初空襲」の節のみとなろう。

   浜松地区初空襲

 浜松地区は大小三十回に達する爆撃をうけたのであるが、最初に爆撃をうけたのは、昭和十九年〔1944〕暮れのことであった。
 深夜の空襲警報で分隊に待機していると、爆音が響き、ガラガラドスンという爆撃音を残して翔い〔ママ〕去った。
 岩田〔磐田〕の南方御厨村〈ミクリヤムラ〉に敵機が焼夷弾〈ショウイダン〉を投下したと、警察からの連絡で、直ちに自動車で現場に急行した。
 被爆地帯は田圃〈タンボ〉で、刈り取った稲はざを少し焼いた程度の被害で、人畜被害はなかったが、現場に散乱する焼夷弾を見ると、さきの〔本土初空襲時の〕ノースアメリカン〔B-25〕が投下した焼夷弾とは比べものにならぬ程精巧であり、型も大きく太くなっていた。
 その頃から敵B二九の来襲が頻繁となり、南方洋上から浜松付近に接近して、東か、西へ翔び去ることが多くなり、そのうちの一機か二機がいたづらのように爆弾や焼夷弾を投下した。
 第一回の爆撃があって間もなく、和田の農業倉庫付近に大型爆弾が投下された。
 現場に急行してみると、倉庫の前に直径十米もある大穴ができていて、穴の中心に倉庫の鉄扉が三分の一程残して埋っていた。
 倉庫の中には、軍用の乾パンが保管されていて、爆風で散乱し、倉庫員の一人は乾パン箱の下敷となっていて救出されたのであるが、扉付近にいたと思われる同僚の倉庫員一名は、行方不明であるという。
 そこでみんなが付近の防空壕を探がしてみても見あたらないので、最後に爆破による穴の中に吹い込まれているのではないかとスコップで堀ってみると、逆さになった倉庫員のゴム足袋が現われて、被害者は爆風による真空に吹い込められていたのである。
 昭和二十年〔1945〕の正月となると、敵機は三機、五機と編隊を作って来襲するようになり、浜松の上空をかすめて、東は京浜方向に、西は名古屋から阪神方面に向った。
 そのうちの一機か二機が、お土産げ〈オミヤゲ〉のように爆弾を投下することが多くなった。
 正月の三日には、浜松市東部の東海道国道沿いに爆弾が投下され、家屋を破壊して一部火災を起こしたが、大事に至らず消し止めた。
 信州の父がめずらしく正月休みに遊びに来てくれたが、途中豊橋駅で一時間余り、空襲退避をさせられたということであった。
 父親は一週間程官舎に逗留していたが、空襲被害現場の取締に度々出動する私の身を心配してくれ、家族も早く疎開させるように言って帰った。
 父はそのとき護古師団の中村大尉(陸士出身)が道場へ剣術の練習に来て、官舎で休憩しているのをつかまえ、得意の十八史略の講義を語っていた。
 長男の靖弘も六歳になったので幼稚園に通わせることとした。空襲時のことなども考え近くの松城〈マツシロ〉幼稚園に入園させた。
 ところが部下の中には、そこへの入園に反対する者があった。
 それはその幼稚園は、キリスト系で戦前は外人牧師もいて敵性色が濃いというのである。
 私は、
「構わぬ。幼児を教育するに敵性もあったものではない。こんな時勢にこそキリストの愛情は大切である」
 と言い張って入園させた。保母さんが児童を送って帰えって、その帰途は官舎へ寄って妻と茶を飲んで話して行くことも多かった。
「神様、よい子達をお守り下さい」
 よく朝礼の真似などして見せたものである。そのうちに、浜松高等工業学校や高射砲学校のある名残〈ナゴリ〉付近が爆撃され、憲兵分隊の詰所(元連隊区司令部跡)も焼失した。
 その爆撃で浜松高工の金原講師の家族が爆死して、靖弘の幼稚園友達であった子供さんが亡くなられた。その葬儀に靖弘も保母さんに連れられて参列し、涙を流して帰って来たこともあった。【以下、次回】

「御厨村」は、磐田郡御厨村。現在は、磐田市の一部。
「稲はざ」とあるのは、「稲架」(はさ、とうか)のことであろう。
「護古師団」は、原文では、「護固師団」とあったが、引用者の責任で校訂した。「護古」は、名古屋を守るという意味だという。
「長男の靖弘」というのは、のちに、さくら銀行副頭取となる上原靖弘氏のことだと思われる。
「浜松高工の金原講師」については不詳。「金原」の読みは、たぶん「きんぱら」。

*このブログの人気記事 2023・12・21(8位になぜか森永製菓、10位になぜか嘉納治五郎)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする