◎敵機は、浜松全市を灰燼にして立ち去った
浜松空襲・戦災を記録する会編集・発行『浜松大空襲』(1973)の「浜松大空襲体験記」の部から、高橋国治の「防空監視隊副隊長として」という文章を紹介している。本日は、その三回目。
二十年〔1945〕六月十七日は日本晴の風のないむし暑い日であった。私は富塚〈トミツカ〉の農園で生徒と芋畠の手入れ中だった。十時過ぎた頃、B29が一機上空を旋回して胴下部がパッと開くと、大きなタンクが落下された。ポーンと大きな音と共にタンクは二つに割れ、ビラが撒かれた。「マリアナ時報」というルビ付の日本字の豆新聞が二種あった。
比島戦況、東都心臓部戦災、沖縄戦に関わる戦局等不安の記事が満載してあった。
この日は珍しく昼間のB29の編隊来襲はなかった。
監視隊本部室内は蒸れている。
嵐の前のしずけさ! 無気味なうちに時はすぎて、ボン、ボン、ポンと時計は深夜の十二時を打った。六月十八日になった。
突如けたたましいベルが鳴った。
「零時十分、舞坂監視哨から〝敵機発見……〟」つづいて各監視哨からの報告がひっきりなしにくる。空襲警報のサイレンが腹にしみ渡るように鳴りひびく。敵機B29編隊は順次繰り返し波状的に浜松上空に侵入して、投下した焼夷弾は火の雨が降るようだ。鴨江町〈カモエチョウ〉が真赤になって昼のようだ。
ついであちらこちら火の手があがり、全市火の海に包まれてしまった。炎熱地獄といおうか、四囲焔に包囲されて生きた心地もしない。
B29 は鈍重な響をたてて五十機ほど空中旋回している。
裏側別館の警察経済室が大音響をたてて火をふいた。熱気をおびた真赤な火の風が窓を破って吹きこんで、隊員の服まで燃えついた。
通信はヒッキリなしにくる〝隊員は職場ははなれられない〟……互いにバケツの水を掛け合って勤務をつづけた。用意してあった用水槽の水も枯れ果てて、便所の水まで汲んで運んだほどであった。
敵機は一時間ほど波状攻撃をくりかえし、浜松全市を灰燼にして立去ったが、浜松は一望の焼野原となって、所々に白煙が立ちのぼっていた。
この日投下された焼夷弾被害は、
焼夷弾 六五、〇〇〇発
死亡者 一、七五七人
重傷者 二五五人
軽傷者 一七七人
全焼建物 一六、〇一一戸
半焼建物 一九三戸
であった。 【以下、次回】