◎8隻の敵艦隊からの砲撃で177名が死亡
浜松空襲・戦災を記録する会編集・発行『浜松大空襲』(1973)の「浜松大空襲体験記」の部から、高橋国治の「防空監視隊副隊長として」という文章を紹介している。本日は、その四回目。
昭和二十年七月下旬になって敵機襲来は頻繁になって来た。警報サイレンが数回鳴り渡った。
【この間、約四ページ分を割愛】
七月二十九日、風もなくむし暑い中に、真赤な夕焼空に日が沈まんとしている。
私は、警察屋上に登って四囲を眺めて居た。三方原〈ミカタガハラ〉上空では友軍の薄暮飛行演習が終了したばかりだった。
突如、薄闇〈ウスヤミ〉の中に、一機・二機・三機とつづいて数機の真黒い珍しい型の飛行機が、三方原上空を低く旋回しはじめた。
私は双眼鏡でジッと眼をこらした。
監視哨からも続々と「機種不明中型機」の報告が入る。中部軍及び東部軍へ通報したが「友軍の夜間飛行だよ」と一笑に付されてしまった。警戒警報も発令されない。
時計は刻々として不安のうちに二十一時になった。不明機はなお旋回をつづけている。私は屋上で先刻より監視をつづけていた。
三方原上空に大きな照明弾が投下された。空中に吊られた照明弾は、煌々として浜松中心部を昼のように描き出した。
ついで天竜川辺と可美村〈カミムラ〉地内の浜松市東西両端に小型照明弾が投下されて、いつまでもいつまでも浜松全市を照している。
二一時五分になってようやく警戒警報が発令された。
「浜松が目標にされた。全員退避」と命令して、本部員を五社神社裏地下壕へうつして通信をつづけた。私は只一人ふみとどまった。
遠州灘沖に八本の火柱が立った数分後……ドドンと地ひびきがした。
八隻の敵艦隊から艦砲が発射されたのだ。
砲弾破裂時の地ひびきのものすごさ、鉄筋コンクリートの庁舎を強くゆすぶった。
発射は十数分であったがその時間を長く長く感じた。砲弾は高射砲連隊近くの追分町〈オイワケチョウ〉六間道路にそって東へ、更に中央部西部へと六七八発発射され、一七七名死亡、重軽傷二〇六名、建物被害六二三戸。六月十八日の全市大空襲についでの大被害をうけた。
浜松駅前広場の防空壕も直撃をうけた。
三方原飛行場にも多数のカンヅメ爆弾が投下された。
翌日〔7月30日〕は晴れ渡った空に敵艦載機が低く旋回して戦禍を見きわめつつ機銃掃射が行なわれた。【以下、次回】
文中に、「カンヅメ爆弾」が出てくる。缶詰を偽装した爆弾を「缶詰爆弾」と呼ぶことがあるようだが、三方原飛行場に投下された「カンヅメ爆弾」が、どういうものだったかは不詳。「艦載機(かんさいき)」は、航空母艦から発進する航空機のこと。「機銃掃射」は、機関銃を広角度に発射すること(この場合は、艦載機による機銃掃射)。
なお、軍艦が、他の艦船、地上の施設などを目標とし、大砲を発射することを「艦砲射撃」という。浜松市は、7月29日、八隻の敵艦隊からの艦砲射撃によって、6月18日の大空襲に次ぐ甚大な被害を受けることになったのであった。