礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

隊員嗚咽のうちに解散式を終えた

2023-12-09 01:04:50 | コラムと名言

◎隊員嗚咽のうちに解散式を終えた

 浜松空襲・戦災を記録する会編集・発行『浜松大空襲』(1973)の「浜松大空襲体験記」の部から、高橋国治の「防空監視隊副隊長として」という文章を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

 八月六日、広島に原子爆弾、つづいて九日、長崎にも投下された。
 八月八日、ソ連は対日宣戦を布告し満州に侵入した。八月十五日正午にはラジオの前に集まって、前日からくり返し告げられていた、重大放送に耳をかたむけていた。
 君が代の奏楽につづいて、天皇の声が電波に乗って流れ始めた。ほとんどすべての国民にとって、初めて耳にする「現人神【あらひとがみ】」の玉音であった。
 「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝国政府ヲシテ 米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ……」放送はつづいた。呆然として自失し、わが耳を疑った。
 昨日まで、ひたすらに「聖戦」の完遂を叫ばれていたものが一転したのだ。
 停戦命令も発せられ、巨大な陸海軍もつぎつぎに武装解除せられていった。
 防空監視隊も解散の日がついにきた。
 財団法人大日本防空協会から県警察本部の大石警部が見えて、悲壮な解散式がしめやかに、三階の訓示室で行なわれた。
 大石警部の解散の挨拶についで、副隊長の私は一同を代表して、むせぶ涙をおさえながら答辞をのべた。
 「私どもは一途に勝たんがため、か弱い身にむち打って参りました。ある時は焼夷弾の火をあび、全身火に包まれながらも、互いに躰〈カラダ〉に水をかけ合って消し、大部分の隊員は自家の焼失をも省りみず勤め、火の海となった焼夷弾攻撃中も、地をゆりうごかした艦砲射撃中も只一心に自己を忘れ、〝八紘一宇目的完遂のため〟〝勝たんがため〟通信機にすがり闘いつづけて参りました。
 ああ、八月十五日―天皇陛下のお言葉も、本土決戦を決意され、一億一心身を以って屍〈シカバネ〉を乗り越え、最後一員まで戦え……との御命令と心待ちいたしていたものの、無条件降伏とは、何たることでしょう……。
 ことここに至りましては止むを得ません。ただ、大御心〈オオミココロ〉を体して、焦土の上に立って、郷土の復興に力を注ぎます。……」
 後は涙で、隊員嗚咽の中〈ウチ〉に解散式を終り、幾多の戦闘資料も敵機模型も涙と共に一瞥の灰としてしまった。
 昭和十三年〔1938〕七月、監視哨の初めから浜松防空監視隊本部が設置されて七か年余、戦局のうつり変りとともに隊員も男子青年学校生徒から女子青年と交代した本部員、教育と勤務にあわただしい毎日だった。
 最初から最後まで終始一貫勤務した私は、大日本防空協会静岡県支部長今松治郎(県知事)の表彰伏を手に感慨殊に深かった。 
               (当時・浜松防空監視隊本部副隊長 現・浜松市鹿谷町〈シカタニチョウ〉□□の□□)

 最後のところに、「今松治郎(県知事)」とある。今松治郎(いままつ・じろう、1898~1967)は、第32代静岡県知事(1943~1945)。戦後、衆議院議員、総理府総務長官(第一次岸信介内閣)。なお、森喜朗元首相が政界に入ったキッカケは、新聞記者時代に、今松治郎衆議院議員と出会い、その秘書となったことだという。
 明日は、「アクセント」の話題に移ります。

*このブログの人気記事 2023・12・9(9・10位になせか野村秋介、8位に極めて珍しいものが)

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