◎商工省から畳縁製造の転業を命ぜられた
当ブログでは、先月25日から29日にかけて、浜松空襲・戦災を記録する会編集・発行『浜松大空襲』(1973)の「浜松大空襲体験記」の部から、稲留藤次郎の「救護部長として」という文章を紹介した。
また今月は、5日から9日にかけて、同じく「浜松大空襲体験記」の部から、高橋国治の「防空監視隊副隊長として」という文章を紹介した。
本日は、やはり「浜松大空襲体験記」の部から、和久田純一の「私の終戦前後の思い出」という文章を紹介してみたい。かなり長いので、何回かに分けて紹介する。
私の終戦前後の想い出 和 久 田 純 一
大東亜戦争の思い出は、我が国建国以来曽て〈カツテ〉敗戦の苦難を知らない国民としては、筆紙に書き表わすことのできぬ悲惨極まる、夢想だにしなかった苦悩を覚ゆるもので、今更過去は考えぬことにして今日に至りましたが、折角のご要望であるので、当時を想い起こしてここに実感を書くことにしました。
【一行アキ】
私は城北機業株式会社として事業の経営に当たっていて、創業当時は元目町〈ゲンモクチョウ〉に工場があったが、遠州織機株式会社から助信町〈スケノブチョウ〉の地に五千余坪の土地を買い入れ、将来の発展を期して、織機百五十台を据え付け、ライオン光輝畳縁〈タタミベリ〉の商標で全国生産量の五〇パーセントを製造していた。
ところが日支事変が拡大、大東亜戦争へと進展した結果、当社の事業は平和産業なるが故に時の商工省から転業を命ぜられ、中島飛行機会社に売り渡すことになり、敷地、建物一切の施設を処分し、元目町にあった系列株式会社城北製作所に移った。
城北製作所に於ては、軍の命令を受け、当時浜松在住の工作機械製造工場五社を糾合して旋盤集団を結成し、私がその集団長として、軍の指導の下に戦時型旋盤の生産に努め、鬼畜米英打倒のため昼夜を分かたず一台でも多くの旋盤の増産に協力し、時には軍監督官と共に戦闘帽をかぶり、巻脚袢〈マキキャハン〉姿で名古屋方面或いは新潟方面の軍需品生産工場に出向き、従業員を一堂に集め、国家存亡の秋〈トキ〉に際しての奮起を促したものである。
当時は全国民挙げて生死を意に介せず、いかにして米英を倒すかに専念し、自己の運命などは意に介しなかった。しかし米国の偉大なる軍事力には滅私奉公の精神を以ってしても抗することができず、曽て不敗を誇った日本軍も次第に南方各地で破れ、敗戦の色が濃くなってきたのである。
当時浜松には飛行隊、高射砲連隊が配置されていた為、米軍B29の攻撃は執拗をきわめ、実に三十余回に亘る爆撃、焼夷弾攻撃をうけ、全国において最も大きな被害を蒙り、全市は灰燼と化してしまった。
元目町にあった当社は前後四回にわたり焼夷弾の洗礼を受け、至近弾、直撃弹による惨状は目にあまるものがあった。
道路上には死人が多数放置され、とりわけ憐れを感じたのは、小学生が臍の部分から真っ二つに裂かれ、あまりに無残な姿なので胴体をつないで姓名を調べた上(当時は必ず住所氏名を着衣につけていた)、父母のもとに知らせてあげたこともあった。又浜松軽便鉄道のレールに直撃弾が落ち、レールの破片が当社倉庫にとびこんできたり、爆弾の威力には一驚した。
当社の南には線路をへだてて高さ十数メートルの台地があり、その下に防空壕が掘ってあった。ところが地盤が甚だ脆弱なので避難しないよう注意しておいたが、爆弾を投下されたので、通行人と当社勤務西川氏が避難した際、爆弾落下の震動のため内部が崩壊し、生き埋めになってしまった。土砂取り除きに懸命に努めたが、容易に工事が進まず、数時間を費し夜半頃やっと掘り出したが既に死体となっていた。ご家族の方々の悲嘆には実に堪えがたき念慮を覚え、戦争の犠牲とは言え、見るに忍びず香を焚きひたすら冥福を祈念した。【以下、次回】
文中、「浜松軽便鉄道」とあるのは、1914年(大正3)に、「浜松軽便鉄道」として開業した鉄道のこと。1915年(大正4)に「浜松鉄道株式会社」と改称した。戦後の1947年(昭和22)、遠州鉄道と合併し、「遠州鉄道奥山線」となる。1964年(昭和39)、全線廃止。