◎舞阪の砂町付近一帯が焼夷弾で全焼
上原文雄『ある憲兵の一生』(三崎書房、1972)の第三章「戦渦」から、「浜松地区初空襲」の節を紹介している。本日は、その五回目。
浜松市内での比較的大きな爆撃は、連尺町〈レンジャクチョウ〉一帯に爆弾が投下され、火災が起って民家や寺院、病院などが焼けたときである。
休日で市内に外出中の兵隊が、空襲警報で帰隊するため交叉点に集合したところを直撃されて多数の死傷者を出した。
真昼のことであり、防護活動も活発に行われていたが、火災は延焼して病院に及び、多くの入院患者を搬出するため、非常線を張っているところえ三十歳くらいの婦人が、防空頭巾にモンペ姿で現われて、警戒中の警官や防護団員に、
「あの病院に母が入院しているから通していただきたい」
と掛け合っている。私が近寄って。
「お母さんは歩けるのですか?」
と聞くと、
「とても歩けないので、私がおぶって連れ出さなければ、焼け死んでしまう」という。
私は、幸い側に居た部下を呼んで「この奥さんと一緒に行って、お母さんを救い出せ」と命じた。
二人は延焼中の病院に飛び込んで行ったが、暫時して老婆を背負って出て来た。
この時はそれきり、私も各方面を駈け廻っていてそのままであったが、終戦になって、残務整理中、航空分廠長や警察署長、復員兵などが一団となって、館山寺の手前の大草山〈オオクサヤマ〉の南斜面を開拓して入植することになり、雑草地を地主から購入する話しに立会てくれと頼まれ、その地主宅を訪問すると、この夫人が応待に出て来たので、いまさら因縁というものの不思議さに驚ろいたことであった。
この話は主人の見付中学教諭の理解があって、格安に開拓団の手に入った。
このほか、砂町〈スナマチ〉付近一帯が焼夷弾で全焼するなどの小空襲をうけたが、遂に昭和二十年六月十八日深夜の大空襲によって、浜松全市街は焼野原と化したのである。【以下、次回】
「連尺町」は、原文では「連雀町」とあったが、引用者の責任で校訂した。
「見付中学」とは、旧制の静岡県立見付中学校のことである(今日の静岡県立磐田南高等学校)。
「砂町」は、浜名郡舞阪町(まいさかちょう)の地区名。現在は、浜松市西区舞阪町舞阪砂町。
著者は、この「比較的大きな爆撃」の日付を記していないが、1945年(昭和20)4月30日の空襲だったようだ。インターネット情報によれば、この日、連尺町を通行していた新兵の一隊(三方原の通信部隊)が爆弾の直撃を受け、約80名の死傷者を出したという。
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