◎豊橋の自転車店で、ようやく二台売れた
浜松空襲・戦災を記録する会編集・発行『浜松大空襲』(1973)の「浜松大空襲体験記」の部から、和久田純一「私の終戦前後の思い出」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
故郷の大久保(現在は浜松市)に帰り、まず第一に食料品の自拾自足を図る必要に迫られ、屋敷の東側に一反余の畑を耕し、麦をまき、隣人から親切に麦踏みから収穫までの指導を受け、その他さつま芋、砂糖きび等々の耕作に懸命となった。第一塩の入手ができないので村人と共同で製塩を始めた。少々汚い話だが命にはかえられないので肥桶を清流で洗い、数個の桶を牛車に引かせて舞阪まで塩水を汲みに行き、この塩水を煮つめて二斗位の塩をとった。その他黒砂糖、味噌、醤油とすべて自給自足をはかるかたわら被災した㈱城北製作所の復旧に村から元目の会社に毎日約一時間自転車で通動した。
当時六十五、六歳の頃であったと思うが、今考えてみてよくも通勤ができたものと、今更精神力の偉大なるを覚える。冬は寒さのため一の坪貯水池まで来るのに約二十分かかり、その間指は寒気のため凍るほどで感覚を失い、途中敵擬が飛来すると橋の下或いは道路と畑の間の溝に身体を横たえ難を避けた。
食事はおよそ口にすることのできるものは殆ど食べた。
当時農家には市民が食糧品の買い出しに来て衣料と交換したり、あまりにも買い出しが多いと柵を結び、入れぬようにした村人もあった。
幸い宅は父が村長或は県会議員をした関係で村人からいささか尊敬されていた。又ひとつには小作人が三、四十名あったため、何等関係のない土地に疎開したのとは異り、比較的に村人の好意をうけたことを忘れることができない。
自宅が焼失し、焼け跡の土地にトマトを植えたところ、実に驚く程見事なしかも大きな実を結んだので村人から「旦那はトマト作りに名人だ。どうしたらこんなトマトができるか」と尋ねられた。そこでとっさの冗談に「トマトを上手に作るには家を焼いて畑にしなさい、そうすると自然に立派なトマトができるぞ」と言って笑った。
或る日、浜一中(北高)卒業生三十二名程が拙宅で会食を開催して、互いに今後の方針について意見の交換をした折、様々の意見があり、そのまま百姓生活に余生を送る者、或いは何とか生活のため自衛策を講ずる者等々、種々の意見がそれぞれあったが、私は再び工場経営を図り、これを生涯の事業とすると答え、元目町の元の工場で二十名位の工員と共に、資本金十八万円で城北機業株式会社の社名で、爆弾のため大穴ができた跡に埋めた機械を掘り出し、鍋釜作りから手廻し製粉機、砂糖絞り機等を造って細々と経営し、将来の発展を期していた。
たまたまドイツから帰国した長男弘一の「戦後の日本では材料の少なくて数量の多くできるものをやらなくては」との意見で、自転車のIEブレーキの製造をすることにした。
試作品を携え名古屋に行き、業界の意向を聞いたが、見込み薄との意見で落胆、帰路豊橋の自転車店に立寄り、是非採用してくれと懇願の結果、二台売れた時の喜びはいまも忘れられない。
その後研究を重ね、東西に販路を求めた結果好評を得、月産一万個位生産することができ、ようやく社運の発展の基盤ができた。
その後全国各地の畳材料業者からライオン畳縁の復活を求める声が起り、織機五十台を基盤に再び本業の光輝畳縁の生産を始めた。
一方自転車のIEブレーキはその後オートバイに新用途を求め、販路を拡張し、鈴木自動車からヤマハ発動機㈱と納入先の変遷をみたが、現在ではヤマハ発動機の主発注先として重要保安部品の全貴任を負わされ、現在資本金六千万円、従業員二百四十名で、将来の発展を期している。 (現・浜松市広沢□丁目□□の□□)
文中、「浜一中」は、旧制の静岡県立浜松第一中学校のことである(現在の静岡県立浜松北高等学校)。
「長男の弘一」とあるのは、登山家でもあった和久田弘一(わくた・ひろかず、1909~1990)のことであろう。和久田弘一は、北大在学中、札幌の鉄工所に門田直馬(かどた・なおま、1877~1954)を訪ね、ピッケルの製作を依頼した。そのピッケルが、「門田のピッケル」第一号になったという話はよく知られている。
和久田弘一は、戦前、海外に滞在し、開戦にともなって「海軍武官室嘱託」となったという(インターネット情報)。この人物については、さらに調べたあと、当ブログで紹介してみたい。
「IEブレーキ」は、内拡ブレーキ(internal expanding brake)とも言う。一対のブレーキシューを回転ドラムの内面に押し付ける方式のブレーキである。城北機業の和久田純一は、戦後まもなく、自転車用のIEブレーキを製品化したが、その後、これを、オートバイ用に改造し、オートバイ業界に販路を拡げた。詳しくは、城北機業株式会社のホームページ「城北機業100年の歩み」を参照されたい。