礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

爆弾は多弾式で、多数の子爆弾が散乱していた

2023-12-23 00:24:17 | コラムと名言

◎爆弾は多弾式で、多数の子爆弾が散乱していた

 上原文雄『ある憲兵の一生』(三崎書房、1972)の第三章「戦渦」から、「浜松地区初空襲」の節を紹介している。本日は、その三回目。

 昭和二十年〔1945〕四月憲兵隊臨時編制が下令され、名古屋に中部憲兵司令部が設置され司令官に美座〔時成〕大佐が着任した。それと同時に各県一憲兵地区隊が設置されて、静岡憲兵地区隊長に角田〔忠七郎〕大佐が着任した。私は浜松憲兵分隊長としてそのまま、三島、静岡、浜松、新居〈アライ〉の各憲兵分隊はその隷下に入った。
 浜松憲兵分隊の下には、金谷憲兵分遣隊のほか、御前崎〈オマエザキ〉分駐所が分遣隊に昇格し、新に掛川憲兵分遣隊、館山寺〈カンザンジ〉憲兵分駐所が新設された。
 新居憲兵分遣隊は、私が浜松分隊に着任してから開設され、阪井准尉が分遣隊長であったのが、今次の編制によって分隊に昇格し熊谷少尉が分隊長として着任した。
 新居町の浜名湖口の海岸には、浜名海兵団と海軍施設部が開設されており、軍需工場の分工場も所々に建設され、軍事目標も多くなったので、昭和十九年〔1944〕九月新居町〈アライチョウ〉役場の協力を得て、新居駅から二百米ばかり離れた、料理旅館の別館を借て、新居憲兵分遣隊を開設したのである。
 浜名海兵団は、急造の木造建物数十棟の兵舎で、新入団兵の基礎訓練を主として行なっており、兵員二千名程が起居していた。
 浜名海兵団で起こった事故といえば、昭和十九年八月末、舞坂海岸に敵の魚雷二本が不発のままあがったことがあって、それを海兵団に運んで分解作業中爆発し、四名が死亡し三十名余りの重軽傷者を出したことがある。
 急報によって、サイドカーで新居まで疾走したが、当時東海道の国道は舖装でなく、いたるところ蛸壺ができていて、軽い鞭打〈ムチウチ〉病にかかったことがあった。
 浜松には三方原〈ミカタガハラ〉一帯に、飛行師団、飛行学校、航空通信隊、通信学校、航空分廠、高射砲学校などがあったが、サイパン島陥落後、内地空爆がはげしくなるに従って、実戦部隊以外は、鈴鹿や三国方面に疎開してしまった。
 実戦部隊は、浜松を立ってサイパン島攻撃に出撃していた。
 ところが、ある日サイパン島爆撃の帰途、三方原飛行場に向かって着陸姿勢をとったとき、小松付近の上空で、すでに投下した筈の爆弾が、吊架〈チョウカ〉に残っていて、着陸操作の振動をうけて落下し、民家数戸を破壊し、死者二名と負傷者数名を出す大事故が起った。
 この事故は、戦時下の対戦中の事故として、報道も禁じられており、局部的な人にしか知らされていない事故であるが、今にして思えば大変な事故であった。
 事故現場に急行して、飛行隊員や警防団とともに、被害者の救護にあたったのであるが、厄介なことに落した爆弾が、多弾式とかでいわゆる子持爆弾型で多数の子爆弾が散乱していて、それに振れると爆発するというしろものであり、警防団の一人はそれを踏んで重傷であるという。そこで付近一帯を立入禁止して、散弾集収作業も行なわなければならなかった。
 憲兵は被害調査と加害機の原因調査のため、飛行隊幹部と共に、被害家屋を回ったり、搭乗員の取調べにあたった。
 被害者に対する補償は、死傷者は戦死傷の扱いとし、物的被害は軍が全面的に責任を以て復旧することにした。
 飛行隊幹部とともに、被害者を個々に戸別訪問し
「この度の事故は、敵の対空砲火をうけて、爆撃操作装置の電導線が故障していて、爆弾が残っていたのが、着陸操作の振動で落下したもので、まことに申し訳のないことをいたしました」
 と陳謝を述べて廻ったものである。
 かくして民心安定につとめたのであったが、いかにしても味方の爆弾で、傷つき倒れ、家を破壊された人々の真情は、泣いても泣ききれぬものがあったと想う。間もなく日本の敗戦という結果となり、戦後これ等の犠牲者に対する処遇がどのようになっているのか、今に至るも心残りとなっている。【以下、次回】

 文中、「美座大佐」とあるのは、美座時成(みざ・ときしげ)のことであろう。また、「角田大佐」とあるのは、角田忠七郎(つのだ・ちゅうしちろう)のことであろう。いずれも、インターネット情報による。
「新居駅」とあるが、正しくは「新居町(あらいまち)駅」。当時の浜名郡新居町(あらいちょう)、今日の湖西(こさい)市新居町(あらいちょう)にある、東海道本線の駅。町名と駅名が違っていることで知られる。
「小松」とあるのは、浜名郡小野口(おのぐち)村の中の大字名。現在の浜松市浜北区小松。
「子持爆弾」というのは、いわゆるクラスター爆弾のことである。
 敗戦の少し前、三方原飛行場の近くで、日本軍機による「誤爆」事件が起きていたことを記している文献は、ほとんどないと思う。三方原飛行場から飛び立った日本軍機が(同飛行場は陸軍飛行場)、サイパン島を爆撃していたとあるが、そういう事実は、本当にあったのか。博雅のご教示を得たい。

*このブログの人気記事 2023・12・23(9位の石原莞爾、10位の川内康範は、ともに久しぶり)

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