◎おろして見ると皆が探していた娘の死骸であった
上原文雄『ある憲兵の一生』(三崎書房、1972)の第三章「戦渦」から、「浜松地区初空襲」の節を紹介している。本日は、その四回目。
地上防衛のため配置された護古師団隸下の各部隊は、小学校や寺院、集合所を仮兵舎としていた。
赤佐〈アカサ〉小学校に駐屯していた笠原部隊では、構築した待避壕に電灯線を引く作業をしていた兵一名が、柱上の高圧線に触れて転落即死した事故があった。
このような無断配線による事故防止のため、中部配電浜松支局の築山局長と同道して、実状調査と注意勧告に赴くと、笠原大佐は、
「憲兵、すまんことをした。あたら尊い兵を失ってしまった」
と詫びるのであった。そこで、
「電灯配線工事は、中配も極力協力を惜しまないので、面倒でも付近の中配出張所に連絡して実施してもらいたい」
と忠告した。大佐は憲兵大尉に敬礼するのは気まづかったのか、側〈ソバ〉に立っている築山局長に対し、直立不動の姿勢をとって、挙手の敬礼をした。
あとで築山さんは、
「大佐にあんな敬礼をされたのははじめてである。気持のよいものですネ」
と云っておられた。
築山さんといえば、市の防衛連絡会などで度々同席したが名論家であった。空襲警報が発令されると、衛戍〈エイジュ〉司令部からの命令により、飛行部隊から電気工事技術者を集めた復旧部隊の小隊が、中部配電浜松支局に派遣されて待機することになっていた。
部隊が到着すると裏庭に整列して、
「配電局長に対し、頭ら〈カシラ〉右、電気工作部隊何名到着」
と報告する。局長は被害場所を示して復旧作業を区処する〔区分して処置する〕ことになっていた。
ところが築山さんは巻脚絆〈マキキャハン〉が嫌いとみえ、長ズボンのままで答礼に出るというので、小林総務課長が私のところへ来て、
「局長の服装が格構つかぬから、隊長さんから注意して下さい」
と頼むので、私は憲兵下士官兵用の革長靴〈カワチョウカ〉の中古を一足貸してやることにして、
「巻脚絆がめんどうなら、これならはくでしょう」と、
小林総務課長に渡した。爾後その革長靴を愛用していたと聞く。
(築山さんはあとで、中部電力の常任監査役になり、末端職場で働くわたくしを呼び出してくれて、懐旧談に花を咲かせたものである)
敵B二九の爆撃は、サイパン島から出撃をするようになって、日を追ってはげしくなり、大編隊で、東京、横浜、名古屋を空襲するようになった。その往復路は必ず浜松上空を通過し、例によってお土産投下をして行く。
見附〈ミツケ〉の電話中継所附近一帯が爆撃されて、多数の死傷者を出し民家が破壊された。
日没近くであった。現場に急行してみると、警防団や付近の部隊員によって、負傷者の救出や行方不明者の捜索が行なわれていた。
娘一人がまだ行方不明であるといい、壊れた家屋を掘り起して探がしているところであった。私は小用をたすため、街裏の柿の木の下に立つと、枝に衣類のようなものがひっ掛かっている。よく見ると手と足がだらりと垂れている。おろして見ると皆が必死で探していた娘の死骸であった。【以下、次回】
ここに登場する「築山局長」というのは、築山茂俊のことであろう。中部電力10年史編集委員会編『中部電力10年史』(1961)に、その名前がある(インターネット情報)。名前の読みかた、生没年などは未詳。