礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

浜松にも防空監視隊本部が設置せられた

2023-12-05 00:55:25 | コラムと名言

◎浜松にも防空監視隊本部が設置せられた

 先月25日から29日にかけて、浜松空襲・戦災を記録する会編集・発行『浜松大空襲』(1973)の「浜松大空襲体験記」の部から、稲留藤次郎の「救護部長として」という文章を紹介した。
 本日は、同じく「浜松大空襲体験記」の部から、高橋国治の「防空監視隊副隊長として」という文章を紹介してみたい。かなり長いので、何回かに分けて紹介する。

    防空監視隊副隊長として      高 橋 国 治

 昭和十二年〔1937〕四月「防空法・防空委員会法」が制定され、県警防課が防空計画の設定事務を担当することになった。
 浜松市では、昭和十三年〔1938〕七月から浜松警察署に隣接する浜松市立西青年学校の生徒が市学務課の命で、浜松署望楼で、防空監視演習を私が哨長で行なった。
 翌年〔1939〕、十三番浜松監視哨が設置され、市内の青年学校から、各教官一名、生徒二十名宛〈ズツ〉が参加して五個班を編成して、哨長として教官二名、哨員として生徒四十名が五日目毎〈ゴト〉に、一昼夜動務で服務をつづけた。
 やがて、浜松にも防空監視隊本部が設置せられ、浜松警察署の次席警部を隊長に、青年学校教官を副隊長に、生徒は本部員に、事務は警察の警防課が行なうことになった。
 浜松監視哨は廃止された。
 浜松防空監視隊本部の管下は最初、県下西半分の広範囲であったが、下田・沼津・静岡・浜松の四か所に本部が設置されると、同時に監視哨の固有番号も改められた。
 浜松本部の管区は、御前崎〈オマエザキ〉・川崎・金谷〈カナヤ〉・池新田〈イケシンデン〉・豊浜・横須賀・掛塚〈カケツカ〉・新津〈シンヅ〉・舞阪〈マイサカ〉・新居〈アライ〉・白須賀〈シラスカ〉等海岸部から、森・二俣・気賀〈キガ〉・三ケ日・竜山〈タツヤマ〉・山香〈ヤマカ〉・渋川・水窪〈ミサクボ〉等山間部にわたって、二十三か所に設けられ、それぞれの固有番号で呼ばれていた。
 昼夜防空監視に当り、
 「何番、敵機(爆音)発見、時刻、機種、機数、高度、進行方向」などと、即時に敵機来襲の情報を通信した。 
 本部は、時をうつさず、中部軍・東部軍司令部、名古屋師団に報告し、軍の作戦にラジオ放送に利用せられた。 
 情報こそ一刻一秒をあらそうもので、早期発見と報告の迅速が軍作戦行動に影響した。敵機の識別訓練や情報通信の教育は本部員・哨員に絶えず繰り返し行なわれた。
 昭和十六年〔1941〕十二月八日朝、軍艦マーチの吹奏についで「大本営達海軍部発表、帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」宣戦の詔書が発せられたのは、午前十一時四十分であった。
 ハワイ奇襲作戦の戦果が発表された。
 大東亜戦に癸展し、戦時色はますます濃くなって、軍関係の徴用や兵員充実のため本部員男子は女子青年と更新されて、モンペ姿の女子が動務していた。
 副隊長にも応召者が出て交代がつづいた。
 私は、哨長時代から副隊長として只一人、終始一貫して勤務した。【以下、次回】

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