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私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

介護の世界も金次第(5)

2009-05-14 | 3老いる
ここに書くことは事実であるが、決して批判や告発といった意図はなく、単に自身の思考を整理し、記録としてとどめることを目的としている。この点、明記しておきたい。

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さて、どうしよう。

明確に、施設からの退所を切りだされたのだ。

申込をしている特養の順番がまわってくるのは、どんなに早くても半年以上先のこと。

それまで、貝のように押し黙って耐えるしかないのだろうか。

現場の介護スタッフは、それを促すことをおっしゃらないが、経営者は「賞味期限切れの利用者」と、明らかに冷やかな視線を浴びせかけている訳だから。

普通の商取引であれば「不愉快だ」とはっきり申し上げて、即座に立ち去るのだが、命がかかっている。一人の人間の人生の終焉を委ねている。

巻き戻しはできない。

自由になるお金がふんだんにあるのならば、サービスの上質な有料老人ホームを探すだろう。
有料老人ホームはピンからキリまで多彩であって、その選択には慎重な判断が必要になるが、介護保険制度の浸透とともに、費用の点においては入居一時金の額も月々の利用料も値崩れをおこしてきているようである。

バブルの頃には、入居一時金が5~6千万円以上から1億、2億円といった超豪華な有料老人ホームの存在が際立っていた。

当地にはもともと余りバブリーな施設は存在しなかったが、バブル期の入居一時金を半額以下にしていたり、数十万円の入居一時金で対応するとか、中には一時金0でという施設も出てきている。
多いのは、1千万円の一時金を450万円に…といった具合だが。

たとえ一時金を用意できても、有料老人ホームの利用料はやはり割高である。
介護保険利用部分を含めると、月々の支払は25万円ぐらいを想定しておくべきだ。
その支払いを、何年継続することが出来るだろうか。
期間は1年になるか、10年になるかわからないのだ。

しかも、一旦有料老人ホームに入所してしまえば、特養の入所は緊急性がなくなった…と判断されて後回しにされる可能性が高い。
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介護の世界も金次第(4)

2009-05-13 | 3老いる
ここに書くことは事実であるが、決して批判や告発といった意図はなく、単に自身の思考を整理し、記録としてとどめることを目的としている。この点、明記しておきたい。

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そもそも、老人介護保健施設は切ない存在である。

施設のサービスが功を奏し、結果利用者の介護度が軽くなると、それは介護報酬の減額という形で還ってくる。

生死の境をさまよって後「決してよい状態ではないが安定している」という理由で、病院から老健へ居場所を移した場合、老健の立場はますます複雑だ。

移動後すぐに亡くなったり、病院へ逆戻りする程の悪化をみた場合には、施設の対応が問われ、施設内の利用者や介護スタッフのムードは悪化し、評判の良し悪しに影響する。

質のよい対応によって顕著な改善がみられ、よりよい状態で安定をみた場合、もちろん利用者側は感謝を示し、その評判は高くなるが、要介護度のグレードが最も高い層において、それが自発的居宅での生活へつながることはほとんどない。

結果、長期入所による介護報酬減額を見込まなくてはならなくなるからだ。

そんな現実を見ていると、ことさらに「命の重みには差がある…」と考えずにはいられない。

要介護度の高い父の命を考えるとき、生産性もなく、費用計上があるばかりで、国家や社会における彼の価値は、誤解を恐れずに言うならばマイナスでしかないだろう。

彼が存在することによって消費される金銭を、利益として享受する組織がある場合には別だが、それとても相対的により利益率が低いと評価されれば、彼の存在は賞味期限切れということになる。

それでも思うのだ。
数字や目に見える形での価値はなくとも、あの生命力のたくましく尊いこと…と。

水と油のように、わかりあうことのない親子で、相容れないことばかりだった父だが、あの生命力に敬意をはらわずにはいられない。
あらゆる不自由を抱えながら、それでも生きようとする意志。
そのゆるぎない力は私にはないものであり、とてもとても尊いものだと感じるのだ。
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介護の世界も金次第(3)

2009-05-12 | 3老いる
ここに書くことは事実であるが、決して批判や告発といった意図はなく、単に自身の思考を整理し、記録としてとどめることを目的としている。この点、明記しておきたい。

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もとより、介護老人保健施設が中間施設であることは承知している。

状態の安定した御老人が、老健入所生活中のリハビリや生活管理を通して、居宅生活の可能性を高めることを意図する施設(法的に正しい定義ではなく、私個人の理解)である。

以前行われていた介護報酬の逓減制が廃止されてから、老健入所者の施設入所期間は長期化し、実質、老健が特養予備施設と化している傾向が問題視されているらしい。

http://homepage2.nifty.com/kamikawaji-cpa/tax/iryou/kaigo.htm#a2-13

しかし、このこと…構造的に致し方ない流れの中にある。

診療報酬の逓減制で縛られている病院は、もう回復の可能性が低い御老人であっても、症状が安定していれば、在宅での生活を促す。

入院を継続させることは、ダイレクトに病院経営の赤字化につながる訳だから。

そうかと言って、自立不能な御老人を直接自宅へ戻せず、老健を介在させることになる訳だ。

だが、考えてみよう。
要介護1や2と言った比較的軽度の機能不全を抱える御老人に、帰宅の可能性はあるだろうが、食も排泄も、移動も、すべてにおいて優しい介助の手なくして生命を維持できない御老人の帰宅には、介護者となりうるしっかりとした身内の存在が欠かせない。

介護ヘルパーを時々利用しながら、24時間見守り、支えることのできる身内をもつ御老人が、世の中にはどれくらいの割合でおられるだろうか。

業として携わる介護のプロには、割り切って関われるちょっとしたことでも、親族であれば色々な感情をはらんで大きな苦痛である場合もある。

欽ちゃんファミリーの清水○貴子さんが自ら命を絶たれたのは、御自身が介護に専心し始めて3年目のことだったようだが、多分私の場合は3週間もたないような気がする。
ひょっとすると3日間も危うい。
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介護の世界も金次第(2)

2009-05-11 | 3老いる
ここに書くことは事実であるが、決して批判や告発といった意図はなく、単に自身の思考を整理し、記録としてとどめることを目的としている。その点、明記しておきたい。

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何度目かのカンファレンス。

いつものように、施設の職員の方々とテーブルを囲み報告が始まった。

父の細かな生活のトピックスが語られ、専門職の方々に見守られながら、より良い日々を一日一日過ごさせてもらっているのがわかる。

私はただただ感謝するしかなく、自分では出来かねる父の生活への気配りや配慮にいちいち感謝を伝える。

いつものように、無事カンファレンスが終わりにかかり、最終発言者が口を開く。

医師ではないが、経営者のご親族で、実質的に施設でナンバーワンの発言力をもっておられる人物。

その方が開口一番、不機嫌な様子で話しはじめられたのは
「ここのサービスが良いと言ってもらうのは良いのだけれど、長期入所の方達が経営を圧迫しているのよね」というもの。

グループの特養に申込がされていないことを捉えて、特養の申込に話が及ぶ。

しかし、残念なことに申込申請しているのはグループ外特養。

「○○特養さんに、順番がどこまで来ているか聞いてみられたらいい」

「ここの老健だけでなく、他の老健も試してみられたら?」
「対応が変わることで、新しい発見があるかもしれないでしょう」

と、言い方には気を使っておられるが、入退所加算が見込めず、リハビリ加算も途絶えがちになる、いわば賞味期限切れの利用者を手放してしまおうと、「老健わたり」や「老健ジプシー」と呼ばれる施設を転々とする行為を勧めておられる訳だ。

現在は、病院の長期入院者に対する診療報酬の逓減制などと同じ縛りは、介護保健施設に適応されていないようだが、それでも、回転率が上がることで、その都度加算される単位数が見込めないことは、施設収入減につながっているのだろう。
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介護の世界も金次第(1)

2009-05-10 | 3老いる
「やっぱり…」と哀しいかな思った。

介護事業は事業であって福祉ではないのだ。
そんなことは解ってはいたのだけれど、あざとくその現実をつきつけられると面くらい、動揺を隠せない。

ここに書くことは事実であるが、決して批判や告発といった意図はなく、単に自身の思考を整理し、記録としてとどめることを目的としているので、それを明記しておきたい。

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その日は突然やってきた。

脳梗塞に端を発し、要介護5の認定を受けて久しい父は、老健と呼ばれる介護老人保健施設にかれこれ1年半お世話になっている。

入所時には見事にやせ細り、顔面には死相が現れていたと思う。
要介護5の認定は2年間の期限。
快復の目処はなく、多分次回更新時期より前に寿命を全うするであろう…という見解が込められていたと思う。

しかし、父の生命力はことのほか強かった。
その老健の行き届いた介護とリハビリの結果、鶏ガラのようだった体に少し肉がついた。

当然、認知症状があり、いつも不機嫌で能面のようだった顔に、時折笑顔が現れるようになった。
会話は出来ないが、時に単語を発することもある。

ただひたすら、老健の上質な対応に感謝していたのだ。
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叫ぶ父

2009-02-06 | 3老いる
父は左脳の梗塞を何度かやって、今や右半身がほぼ動かない。

左脳の言葉を発する機能をつかさどる部分(ブローカ野という)もダメージを受けていて、相手の話していることはわかっても、自身の思いを言葉にして発語することは困難だ。

頑固で、昔から気の合わない父だったのだが、老いてもその気質は変わらない。

やさしい老人施設の職員の方達に見守られ、認知状態の低下している時は、可愛らしい、端正な御老人でいるが、意識がクリアな時、言葉が出ないストレスもあって彼の表情は苦々しい様子だ。

そして、自分の意に反した行為がなされるとき、あるいは拒否したいとき、40kgに満たない体重で、どこからそんな声が出るのかと驚くばかりの声量で、彼は叫ぶのである。

「もういい、わかった!」
「うるさい、それ以上言うな!」
「そこは触ってくれるな!」
おそらくそういった思いを伝えるべく、彼は腹式呼吸で思いっきり叫ぶ。
「あ、あ、あーぁあっ!!」と。

その大声は、フロア中に響きわたるが、そんなことお構いなしだ。
とにかく、表現方法はそれしかないのだから。

その大いなるエネルギーを見せつけられ、私はただしらじらと冷めてゆく。
相変わらず、父は自分のことしか考えていない。

温かい周りの人たちの手を借りなくては、一日たりとも過ごすことが出来ない状態にありながら、いつもいつも一番の高みにいて、必ず他者を見下ろしていた彼の姿は健在なのだ。

父のその生命力を称える気持ちがない訳ではない。
親子の情愛が全く枯れてしまった訳でもない。

しかし、強烈な父の声を聞く度、心は冷え冷えとし、情愛は凍りついてしまいそうだ。

看護や介護を専門とするスタッフは、夫々に癖のある御老人達を、穏やかに淡々と受け止めていらっしゃる。
家族としての記憶や歴史がないから出来ることか。
もっと具体的に言えば、個人的な恨みつらみがないから、長く生きてきた、一つ一つの尊い命として接することができるのかもしれない。

プロたちの見事な対応を見るにつけ、割り切ることができず、いつまでも子供としての葛藤を抱え続ける自分を哀しく感じるばかりだ。
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自分で自分のことができなくても

2008-11-20 | 3老いる
私の父は、もうかれこれ2年以上、自分だけでは食べることも、排泄することも、そして意思を伝えることもできないでいる。

日本の高度経済成長を支え、税金も十分に納めてきた世代だが、生きることを脅かされた少年期と異なり、いろいろな手段で命を保たれつつ、本人にとっては不本意な生き方を強いられている。

老人施設と呼ばれるところでの生活。
老人について普通の人々より深く学んだはずの、孫子の世代に世話をしていただいている。

そうした施設での就業を選択する若者は、世の若者達よりずっとこころやさしい子達なのだと思う。個人差はあるだろうけれど。
決して良い就労条件ではないと聞いているので、有り難く見てはいる。

しかし、中年の私が、若い頃思っていたよりずっと頼りなく、悟れない状況にあるのと同様に、ご老人達も、若者達が思っているほど、子供に戻っているわけではないだろう…と感じることが最近多い。

教育の行き届かない介護士が「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ぶのを聞き流し(○○さん…と姓名でお呼びするのが正当と聞いている)、退屈なレクリエーションの進行途中、不覚にも大あくびする姿、小学生の様にフロアを追いかけっこする姿を見るともなしに見ている。
指摘しても自分の得になることは何もないので、見逃しているだけだ。

「とても若いのだから致し方ない」
「自分の孫にもよく物事のわかった孫と出来の悪い孫がいる」
なんてことを考えながら…。

彼らは子供に戻るどころか、大いなる大人の良識で状況を黙認している。
長生きするからには、受け入れがたい現実といちいちぶつかるのではなく、無駄なエネルギーを費やすことを回避するのが賢明なのだ。

賢い対応の積み重ねの上に長命はある。

とってもうがった見方だけれど、自分のことが自分で出来なくなっていたって、周りから認知症の認定をされていたって、長命にたどり着いたご老人達は、どこかとっても賢明で、すべて認識したうえでやり過ごしているのだと思う。

忘るることなかれ。
ご老人達は皆が思っているよりずっとわかっているのだ。
ちゃんとわかっていて、賢く対応することをして来た人達こそが、障害の多い長い人生をくぐりぬけてきているのだと。
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