私のつれづれ草子

書き手はいささかネガティブです。
夢や希望、癒し、活力を求められる方の深入りはお薦めしません。

自分で自分のことができなくても

2008-11-20 | 3老いる
私の父は、もうかれこれ2年以上、自分だけでは食べることも、排泄することも、そして意思を伝えることもできないでいる。

日本の高度経済成長を支え、税金も十分に納めてきた世代だが、生きることを脅かされた少年期と異なり、いろいろな手段で命を保たれつつ、本人にとっては不本意な生き方を強いられている。

老人施設と呼ばれるところでの生活。
老人について普通の人々より深く学んだはずの、孫子の世代に世話をしていただいている。

そうした施設での就業を選択する若者は、世の若者達よりずっとこころやさしい子達なのだと思う。個人差はあるだろうけれど。
決して良い就労条件ではないと聞いているので、有り難く見てはいる。

しかし、中年の私が、若い頃思っていたよりずっと頼りなく、悟れない状況にあるのと同様に、ご老人達も、若者達が思っているほど、子供に戻っているわけではないだろう…と感じることが最近多い。

教育の行き届かない介護士が「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ぶのを聞き流し(○○さん…と姓名でお呼びするのが正当と聞いている)、退屈なレクリエーションの進行途中、不覚にも大あくびする姿、小学生の様にフロアを追いかけっこする姿を見るともなしに見ている。
指摘しても自分の得になることは何もないので、見逃しているだけだ。

「とても若いのだから致し方ない」
「自分の孫にもよく物事のわかった孫と出来の悪い孫がいる」
なんてことを考えながら…。

彼らは子供に戻るどころか、大いなる大人の良識で状況を黙認している。
長生きするからには、受け入れがたい現実といちいちぶつかるのではなく、無駄なエネルギーを費やすことを回避するのが賢明なのだ。

賢い対応の積み重ねの上に長命はある。

とってもうがった見方だけれど、自分のことが自分で出来なくなっていたって、周りから認知症の認定をされていたって、長命にたどり着いたご老人達は、どこかとっても賢明で、すべて認識したうえでやり過ごしているのだと思う。

忘るることなかれ。
ご老人達は皆が思っているよりずっとわかっているのだ。
ちゃんとわかっていて、賢く対応することをして来た人達こそが、障害の多い長い人生をくぐりぬけてきているのだと。
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