今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

真木山 長福寺(岡山県美作市真神414)

2022年09月12日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月2日

真木山 長福寺
真言宗御室派の寺院
天平宝字元年(757年)に鑑真が孝謙天皇の勅命により開いたという
寺は現在の真木山麓ではなく、山上にあった



案内板



鐘楼門



本堂側から







宝蔵庫



手水鉢



本堂
弘安8年(1285年)円源が天台宗の寺院として再興した
再興後、僧坊は65坊を数え最盛期となった
天台宗と真言宗に宗派が頻繁に入れ替わったが、明徳年間(1390年 – 1393年)に真言宗の寺院になった



昭和3年(1928年)に長福寺は山上から現在の地に移転した
山上に残されていた三重塔、真木山鎮守堂(山王権現堂)、金比羅大権現なども昭和26年(1951年)に現在地に解体移築された



本尊:木造十一面観世音菩薩立像(重要文化財ー伝 行基作)



境内は綺麗に整備され、花に囲まれている



釈迦如来坐像(美作市指定文化財)
昭和32年(1957年)頃に真木山から移された



江戸時代の作で、高さ2.2m



弁天堂



三重塔(重要文化財)
数年前、岡山県観光をしている際に不覚にも通過してしまい、悔いが残っていた塔である
寺を目指していると遠くからその姿が見えてくる



朱色は苦手だが天気に左右されず鮮明に写るところがいい



棟札の銘から鎌倉時代の弘安8年(1285年)に大工棟梁・藤原国右衛門尉によって建立された



昭和26年(1951年)真木山上から現在地に移築された。昭和55年(1980年)保存修理が完了



案内板



岡山県最古の木造塔建築物だという



平成27年6月には、杮葺きの屋根が葺き替えられた



三重塔の上に位置している
真木山鎮守堂(山王権現堂)、金比羅大権現か(未確認)



塔の横にある道を歩くことにより、様々な高さから拝観できる



塔を背に駐車場に戻る



撮影日 令和4年6月2日
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中山神社(岡山県津山市一宮695)

2022年09月11日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月2日

中山神社
美作国一宮
社伝(『中山神社縁由』)では、慶雲4年(707年)4月3日の創建

鳥居<中山鳥居>
寛政3年(1791)の建設。高さ8.5m、幅は7m弱、花崗岩製で柱は2分割、笠木は3分割されている
角貫に木鼻がなく、笠木と島木に反りをもたせて壮大美を強調している
このような形は他県にあまり例がなく、特に中山鳥居として一形式をつくっている



名木百選 ムクノキ



樹齢500年だそうだ



愛嬌のある神牛、ワンカップがお好きなようだ(笑)



案内板



鳥居から真っ直ぐ伸びた参道



狛犬1






手水舎



狛犬2
こちらの方が時代が古そうだ



風雨に曝され、柔和な表情になっているような気がする



神門(津山市指定重要文化財)



津山城二の丸にあった「四脚薬医門」を明治初頭に移築した



社務所



神楽殿



拝殿前の門



拝殿



拝殿内部






拝殿を横から



本殿(重要文化財)
天文2年(1533年)、尼子晴久の美作攻めの際、境内に陣を置く敵を攻略するために火が放たれ、社殿が焼失
美作平定後の永禄2年(1559年)、尼子晴久自身によって再建された



中山造(なかやまづくり)という神社建築様式の1つ



岡山県津山市一帯に鎮座する神社の本殿に見られる独特の様式
方3間の入母屋造妻入の身舎正面に、1間の向唐破風の向拝を付す



千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)









撮影日 令和4年6月2日
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栃社山 誕生寺 その2(岡山県久米郡久米南町誕生寺里方808)

2022年09月10日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月2日

栃社山 誕生寺 その2
法然上人生誕地に建立された浄土宗の寺院
建久4年(1193年)熊谷直実、法然上人の弟子となり「蓮生」と改める。同年、誕生寺を創建する

御影堂(重要文化財)



石造五輪塔(岡山県指定文化財)
応永32年(1425年)の供養塔



両幡の椋






無垢橋(登録有形文化財)



大正9年(1920年)建造。片目川に架かる石橋。長さ7.3m、幅2.6m



片目川






勢至堂
法然上人の両親の霊廟















法然上人 産湯の井戸





五輪石塔(岡山県指定文化財)






津山城主関係者の墓



無垢地蔵(山陽花の寺霊場)



守護大仏(岡山県指定文化財)
延享2年(1745年)鋳造 高さ6.42m、重量450kg
岡山県下で一番大きな仏像である



勢至丸(法然上人)の旅立ち






見守る母・秦氏君(はたうじのきみ)



その秋、37歳の若き身をもって病没



宝物館
宝物館の扉が開いていた
入館料を箱に収め、初めて中に入る









東郷平八郎直筆















木造清涼寺様釈迦像(岡山県指定文化財)






熊谷直実<法力房蓮生>(三代豊国画)
誕生寺開基・初代住職






撮影日 令和4年6月2日
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栃社山 誕生寺 その1(岡山県久米郡久米南町誕生寺里方808)

2022年09月09日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月2日

栃社山(とちこそさん) 誕生寺 その1
法然上人生誕地に建立された浄土宗の寺院
浄土宗には総本山・大本山・本山・特別寺院があり誕生寺は特別寺院4寺のうちの1つ

山門(重要文化財)
正徳5年(1716年)の建造
付帯する筋塀は安政4年(1857年)伏見宮家より寄進された






今回が2度目の参拝になるが、「熊谷 直実」の名に目が止まった






毘沙門堂
山門右手にあり毘沙門天を祀る






公孫樹(岡山県指定天然記念物)



久安3年(1147年)15歳の勢至丸(法然上人)が比叡山に旅立つ際に杖とされた銀杏の枝をさしたところ正着繁茂したという




公孫樹の先に御影堂が見えてくる



御影堂(重要文化財)
過去に二度損壊し、現在のものは元禄8年(1695年)の建造



この寺の場所は法然上人が長承2年(1133年)4月7日に、父漆間時国、母秦氏の子として生れたところ
幼名を勢至丸といい、9才のとき父時国が、源内武者定明という武士によって、夜討ちをうけて亡くなったがその遺言によって、出家する決意する



建久4年(1193年)弟子の熊谷蓮生房が法然上人の等身像をこの地に移し、昔の館を仏閣として誕生寺と号したのが始まりである



額には「誕生律寺」 
かつては誕生律寺と呼ばれていた
本尊:圓光大師(法然没後、朝廷から贈られた大師号)



さて、熊谷 直実(くまがい なおざね)の名に目が目が止まったと書いた
鎌倉殿の13人を視聴するにあたり「平家物語」を再読していた
最も有名な「祇園精舎の鐘の声……」も素晴らしいが、最も感動したのが
「熊谷 直実、息子ほどの敦盛を涙ならに討つ」場面である



寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦い
この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を
「卑怯にも敵に後ろをお見せになるのか」と呼び止めて一騎討ちを挑む
直実がむずと組んで若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐらいの年齢の少年だった



直実が「大した者ではないが、武蔵の国の住人、熊谷次郎直実だ」と名乗った後、
敦盛は「私が名乗らなくても、首を取って誰かに尋ねてみよ。きっと知っている者がいるであろう」と答えた
これを聞いて立派な武士だと感動した直実は一瞬この少年を逃がそうとしたが、背後に自分たちの味方の手勢が迫ってくる



たとえ自分が少年を逃がしたとしても、どのみち生き延びることはできないだろうと考えた直実は
「同じことなら直実の手におかけ申して、死後のご供養をいたしましょう」と言って、泣く泣くその首を斬った
その後、首実検をするとこの公達は清盛の甥・平敦盛と判明、齢十七だった
討ち死にの折に帯びていた笛「小枝」(さえだ)は、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から賜ったものだという

瑞應殿(旧阿弥陀堂)

敦盛を討った直実は出家の方法を知らず模索していた。 法然との面談を法然の弟子・聖覚に求めた
聖覚が法然に取り次ぐと、直実は「後生」について、真剣にたずねたという
法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応えたという



建久4年(1193年)頃、法然の弟子となり法力房 蓮生 (ほうりきぼう れんせい)と称した



平家物語の感動した場面に出てくる熊谷直実が法然の弟子になり誕生寺を建て
それを知らずに訪れていたとは驚きであった






鐘楼



観音堂(岡山県指定文化財)
初代津山城主・森 忠政公(森 蘭丸の弟)より寄進をうける
建立は寛永8年(1631年)頃と伝わる



堂内の様子



聖観音像を祀っている









次回に続く

撮影日 令和4年6月2日
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最上稲荷山 妙教寺<最上稲荷>(岡山県岡山市北区高松稲荷712)

2022年09月08日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月1日

最上稲荷山 妙教寺<最上稲荷>
最上稲荷(さいじょういなり)は、日蓮宗の寺院
麓の駐車場を利用すると「最上稲荷参道口」の看板が目に入ってくる



参道両側には商店が並んでいるが、この日はほとんどが閉店していた
本堂近くにも駐車場がある



龍王山の懐に抱かれた最上稲荷は広大な敷地を有し、大きく三段に分かれる
本殿の建つ正面中央の台地は「祈祷ゾーン」、旧本殿の建つ右奥の上段部分は「文化財ゾーン」、根本大堂の建つ右下の下段部分は「供養ゾーン」と称される

<祈祷ゾーン>

御水舎
御水舎の龍像は、工芸家・加茂霊峰の手によるもの






境内図



金色小判絵馬



本殿(霊光殿)
開山千二百年記念事業として計画され、5か年の歳月を経て昭和54年(1979年)に完成した



年間約300万人もの参詣者を迎える巨大な賽銭箱



古風な「おみくじ」



結界廊



<文化財ゾーン>

七十七末社
最上尊に仕え、それぞれが厄除けや縁結びなどの役割を担って衆生救済の手助けをする神



緑の末社
縁の願掛けは、悪縁を絶つ「縁きり」と良縁を結ぶ「縁むすび」を合わせて行うのが特徴



離別天王
人の縁に限らず、病気・酒・煙草・賭け事等々あらゆる悪縁を絶つ



霊石 縁切撫で石



縁引天王(登録有形文化財)
男女の縁に限らず、仕事・学業・夢等々のあらゆる復縁を結ぶ



霊石 良縁撫で石









鐘楼(登録有形文化財)



社殿



御厩舎



朝日天王社(登録有形文化財)



荒熊天王社(登録有形文化財)



日車天王社(登録有形文化財)



霊応殿前殿(登録有形文化財)












霊応殿拝殿(登録有形文化財)



霊応殿経王殿(登録有形文化財)



霊応殿本殿(岡山県指定文化財)















神馬



<供養ゾーン>

仁王門



山門



根本大堂



大客殿



撮影日 令和4年6月1日
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北海道 道北の旅 その2(道の駅・野寒布岬・朱鞠内湖)

2022年09月07日 | 北海道
訪問日 令和4年9月5日

道の駅「わっかない」
国道40号の終点の位置にある日本最北端の道の駅
「JR稚内駅」と、再開発ビル「キタカラ(KITAcolor)」などが一体となった建物で「道の駅」としての機能も担っている



駅舎の前で記念写真を撮っている人が多かったので近くに寄ってみると……



「日本最北端の線路」があった



「JR稚内駅」を突き抜けて駅前広場へレールが続いている



このレールの続く先には(痕跡から)……北埠頭へと続く



稚内港北防波堤ドーム
北埠頭は旧樺太航路の発着場として使われていた
北防波堤ドームは、ここに通じる道路や鉄道へ波の飛沫がかかるのを防ぐ目的で、昭和6年(1931年)から昭和11年(1936年)にかけ建設された防波堤



稚内公園から見える稚内港北防波堤ドーム



設計者は、北海道庁の技師として稚内築港事務所に赴任してきた当時26歳であった土谷実
古代ローマ建築物を思わせる太い円柱となだらかな曲線を描いた回廊は、世界でも類のない建築物



高さ13.6m、柱の内側から壁までが8m、総延長427m、柱の総数70本、半アーチ式の構造形式






土木学会選奨土木遺産
国内の歴史的建造物のうち土木構造物について、これの保存に資することを目的として構造物群を「土木遺産」に認定して顕彰する制度









防波堤の機能を持った芸術作品。26歳の若者が設計したとは驚きだ






平成13年(2001年)に北海道遺産に指定された



稚内灯台(北海道稚内市ノシャップ2丁目)
高さは42.7mで、北海道では一番高い灯台であり、全国では島根県日御碕(ひのみさき)灯台に次いで2番目の高さを誇る
明治33年(1900年)ノシャップ岬の丘陵地(現レーダーサイト)に建てられた旧稚内灯台
昭和41年(1966年)1月10日現在の位置に移された



ノシャップ岬(野寒布岬)
ノシャップとは、「岬のそば」「岬がアゴのように突き出たところ」というアイヌ語、「ノッ・シャム」が語源となっている



この日は曇り空ではっきりとは見えないが
眼前には秀峰「利尻山」と花の浮島「礼文島」、サハリンの島影をも一望することができるという



広場の様子






ノシャップ岬の丘陵地には航空自衛隊稚内分屯基地のレーダーサイトがある




朱鞠内湖(北海道雨竜郡幌加内町)
国道40号(豊富バイパス)-275号を通り帰宅途中、道路沿いの展望台からの眺望






朱鞠内湖畔展望台から



雨竜川上流に位置する人造湖
日本最大の湛水面積(広さ2,373ha、23.73k㎡)を持ち、総貯水容量も戦後に佐久間ダムが完成するまでは日本一であった



車中泊による一泊二日の旅(走行距離760km)を終えたが地元の旅も楽しい



撮影日 令和4年9月5日
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北海道 道北の旅 その1(宗谷岬・稚内公園)

2022年09月06日 | 北海道
訪問日 令和4年9月4日

宗谷岬(北海道稚内市宗谷岬)
自宅から国道231号-232号-40号-238号を約360km走る(北海道は広い)
先ず驚いたのは地元なのに読めない地名が多いことだ(恥)
読めますか(答えは最後に)
①花畔 ②生振 ③若生 ④知津狩 ⑤聚富 ⑥正利冠 ⑦望来 ⑧発足 ⑨安瀬 ⑩濃昼

第5回日本最北端わっかない平和マラソン2022だったが、影響を受けずに2時過ぎに到着した
40数年ぶりの宗谷岬になる



間宮林蔵像
江戸時代後期の徳川将軍家御庭番
樺太(サハリン)が島である事を確認し間宮海峡を発見した



文化5年(1808年)4月13日、幕府から命を受けた間宮林蔵(当時29歳)は、松前奉行支配調役・松田伝十郎とともに、第1次樺太探検に出発した
このとき、林蔵は郷里から持ってきた墓石を海岸に建て、探検への覚悟のほどを示したといわれている
同年7月13日、第2次樺太探検のため出発し、トンナイ(旧真岡付近)で冬を越し、翌年5月に樺太を北上、樺太北端のナニオーまで踏査して樺太が島であることを確認した
この時の探検地図が、後にシーボルトによって紹介され、樺太北部と大陸の間が「間宮海峡」と命名された



「日本最北端の地」の碑
20代前半に勤務していた職員旅行で訪れたことがあり、変なポーズをとった写真が残っている
その時の様子と現在とでは何かが違っている



透き通った海水に無数の小魚が見える



宗谷岬音楽碑
スイッチを押すと「宗谷岬」が流れる



ダ・カーポの「宗谷岬」



奥に霞んでいるが見えるのが「樺太」



大岬旧海軍望楼(稚内市指定文化財)









大岬旧海軍望楼からの眺望






平和の碑






宗谷海域海軍戦没者 慰霊碑



あけぼの像
北海道の牛乳生産量100万tと飼育乳牛50万頭突破記念



彫刻家:峯 孝 の作品 天北酪農の夜明けを象徴している



祈りの塔
「大韓航空機撃墜事件」1983年9月1日
大韓航空のボーイング747が、ソビエト連邦の領空を侵犯したために、ソ連防空軍の戦闘機により撃墜された事件
乗員・乗客合わせて269人全員が死亡した
塔は、「鶴が大きく羽を広げ、天空に首を持ち上げる姿」をしている



19.83mある塔の高さは事故発生の年を、16枚の羽は遭難者の母国を、269枚の白御影石は遭難者の数を表している



子育て平和の鐘



世界平和の鐘



宗谷丘陵展望休憩施設



宗谷岬灯台
日本国政府が管理する灯台としては日本国最北に位置する



国道238号から見える標高1,721mの利尻山(利尻富士)が美しい






稚内公園(北海道稚内市中央1丁目)
宗谷岬から30km程離れた稚内公園に移動した
ここには是非訪れてみたいと思っていた場所がある

氷雪の門
かつて日本領土だった樺太で亡くなった日本人のための慰霊碑



彫刻家:本郷 新 の作品
両側に高さ8mの門(望郷の門)があり、中央に2.4mの女性の像がある



女性の像は、顔は戦争で受けた苦しみを、手のひらを見せているのは樺太も家族も失ったことを
足はその悲しみや苦しさから早く立ち上がることを表している



「日本最北端の地」の碑で、変なポーズをとった写真が残っていると書いたが実はこの像の真似
もしかしたら、この像は宗谷岬にあったのではないかと思うのだが……



教学の碑



行幸啓記念碑
昭和43年(1968年)昭和天皇・皇后両陛下は九人の乙女の秘話をお聞きになった時
目頭に涙を浮かべ、深く頭をお下げになり、冥福をお祈りされた



この碑には、後日、この時のご感銘を詠まれた御製・御歌が刻まれている
御製「樺太に 命をすてし たをやめの 心を思へば むねせまりくる」
御歌「樺太に つゆと消えたる 乙女らの みたまやすかれと たゞいのりぬる」



九人の乙女の碑
この話しを初めて知ったのは「虎ノ門ニュース」というYouTubeの番組である
この話しに感動して稚内市にある慰霊碑に是非訪れてみたいと思っていた(実現した)



真岡郵便電信局事件とは、太平洋戦争後の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件である

真岡郵便局における電話交換業務は、市内・市外ともすべて女性交換職員による手動交換接続方式だった
特に戦時下における電話交換業務は国防用また緊急連絡用として重要な使命を担い日夜繁忙を極めていた



上田・真岡郵便局長は上司から「女子職員は全員引き揚げるよう、そのため業務が一時停止しても止むを得ない」との命令を受けた
皆その知らせを喜んでくれるだろうと思っていた上田局長だったが、意外な事に局員からは「全員、疎開せず局にとどまると血書嘆願する用意をしている」と告げられた
友人や知人が次々と北海道へ向けて避難を始める中で、多くの女子職員が職場に踏みとどまり交換作業に従事していた



「ソ連の軍艦が方向を変え、真岡に向かった」との連絡を受け、宿直者全員を交換台に着席させ、関係方面への緊急連絡を行うとともに郵便局長にこの旨、電話で報告を行った
郵便局は場所的にも戦火に巻き込まれる位置にあり、交換室にも弾丸が飛び込むなど、極めて短時間のうちに危機は身近に迫っていた
しかし、緊急を告げる電話回線を守り、避難する町民のため、またこれらの状況を各地に連絡するため、最後まで職務を遂行した



『今、皆で自決します』と知らせてきたので『死んではいけない。絶対毒を飲んではいけない。生きるんだ。白いものはないか、手拭いでもいい、白い布を入口に出しておくんだ』と繰り返し説いたが及ばなかった
ひときわ激しい銃砲声の中で、やっと『高石さんはもう死んでしまいました。交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません
局長さん、みなさん…、さようなら長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら』という渡辺さんの声が聞き取れた
居合わせた交換手達は声を上げて泣いた。誰かが、真岡と渡辺さんの名を呼んだが二度と応答はなかった」と語っている



「9人は白っぽい制服にモンペをはいており、服装はみじんも乱れていなかった。また、交換台には生々しい数発の弾痕があった
さらに、睡眠薬の空き箱があったことは見苦しくないようにするため、睡眠薬を飲んだあと、青酸カリを飲んだのであろうが、息絶えるまで送話器に向かって呼びかけていたようだ。」と語っている



この物語は映画化されています「樺太1945年夏 氷雪の門」

読み方
①花畔(ばんなぐろ)②生振(おやふる)③若生(わかおい)④知津狩(しらつかり)⑤聚富(しっぷ)
⑥正利冠(まさりかっぷ)⑦望来(もうらい)⑧発足(はったり)⑨安瀬(やそすけ)⑩濃昼(ごきびる)

撮影日 令和4年9月4日
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景光山 観音寺<不洗観音寺>(岡山県倉敷市中帯江820)

2022年09月02日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月1日

景光山 観音寺<不洗(あらわず)観音寺>
真言宗の単立寺院
寺伝によれば、稽文会・稽主勲父子が刻んだ観音像を天平年間(729年 - 749年)に行基と菩提僊那が当地に安置し開基した

おまいり道



山門






わらべ地蔵



手水舎



影向の松(ようごうのまつ)
倉敷市指定天然記念物



推定樹齢200年。当寺院の義雲和尚が移植したと伝わる黒松



枝が円形に張り出しており周囲は約60m






薬師堂









地蔵堂






鐘楼



大師堂



扁額の文字が読めない「遍照○」
遍照窟なのか
世の中を平和にするため、幸せの火をあまねく(遍)てらす(照)道場(窟)の意味



絵馬の石段



唐門の彫刻



子宝と安産祈願の参拝者が集まるので「コウノトリ」なのか?






良縁祈願と安産祈願の絵馬が並んでいる



石段を上がると本堂なのだが熱心にお参りしている人がいたので右側に移動した



正面には「十一面観音像」、上には祈願所がある



生後3ヶ月の赤ちゃんを抱えた若い夫婦がお礼参りに来ていた
観音像を背景に写真を撮ってあげた。記念になると嬉しい



足もとには知足(吾唯足知)の手水鉢



瓶から出ているのは「閼伽水」



祈願所へと続く階段の両側には「七福神像」



本堂
本尊:十一観世音菩薩
本尊を信じ生まれたこどもは三日三晩たった後、この霊水で洗うと無病息災、かつ安楽に成長すると言われている



三日三晩のあいだ産湯をつかわせなくても、体が血で汚れることも不浄になることもなく、きれいな子に育つと言われ
このことから、いつの間にか「不洗(あらわず)観音」と呼ばれるようになったという



本堂には次から次へと参拝者が訪れ、写真を撮るまで時間がかかった



年齢から、良縁・安産祈願の女性が多いように感じた



仏足石



荒神社



稲荷社



貴船神社
不洗観音寺の隣にある神社



「貴船大明神」の額



拝殿









見た道を戻り駐車場へ向かう



撮影日 令和4年6月1日
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日照山 国分寺<備中国分寺>(岡山県総社市上林1046)

2022年09月01日 | 神社・仏閣
訪問日 令和4年6月1日

日照山 国分寺<備中国分寺>
真言宗御室派の寺院
聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、備中国国分寺の後継寺院にあたる

初めて訪れた時、五重塔に目を奪われ手前の遊歩道を車で乗り入れ顰蹙を買った(冷汗)






山門



客殿



寺号「國分寺」の額



勅使門






本堂
本尊:薬師如来



寺伝では、廃寺となっていた国分寺を天正年間(1573年-1592年)に備中高松城主・清水宗治が再興したが衰微
江戸時代中期の宝永年間(1704年-1711年)に再建されたとされる






大師堂






経堂(岡山県指定文化財)






石仏






礎石の上に立っている



鐘楼






五重塔(重要文化財)
南北朝時代に奈良時代の七重塔(推定高さ50m 塔跡が残る)を焼失



1821年(文政4年)に位置を変えて再建を開始
弘化年間(1844年-1847年)に完成した



高さは34.315m 岡山県内唯一の五重塔



当初は三重塔で計画されたのを五重塔に変更したとされる
3層まではケヤキ材、4・5層まではマツ材が主体









案内板



普段は近寄って撮ることは少ないのだが……






蟇股に施された、十二支禽獣彫刻









撮影日 令和4年6月1日
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