静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

≪ 過去を振り返り、学ぶのは『二度と同じことをしないために何をすべきか』『より良い未来を作るにはどうすべきか』を考えるため ≫ 『あの当時は仕方ない』と肯定してはならない

2021-12-21 08:22:30 | 時評
毎日:≪「開戦詔書」そのまま受け止め?80年後の自民「保守」派の歴史観 ≫ 【吉井理記/デジタル報道センター】  要旨転載

* 月刊誌「Hanada」10月号。自民党総裁選に名乗りを上げた高市氏のインタビューで。自衛か侵略か、戦争をどう捉えるかは「当時の『国家意志』の問題です」と持論を述べた
  その高市氏、「先の大戦への認識」を問われてこう答えた。
【1】「当時の日本国民は、天皇陛下の詔書によって国家意志を理解したものだと思われます。先の大戦開戦時の昭和天皇の開戦の詔書は<米英両国は、帝国の平和的通商にあらゆる
  妨害を与え(中略)帝国は今や自存自衛のため、決然起って、一切の障害を破砕するのほかなきなり>というものでした」
   太平洋戦争(対米英開戦)は「当時の国家意志」、つまり開戦詔書でいう自衛戦争だ、ということだ。

  <私は常に『歴史的事象が起きた時点で、政府が何を大義とし、国民がどう理解していたか』で判断することとしており、現代の常識や法律で過去を裁かないようにしている>
   その高市さんの応援団でもある安倍晋三元首相も「当時を生きた国民の目で歴史を見直す」(13年の著書「新しい国へ」)という歴史観を披露している。
 「保守」と呼ばれる人たちにはおなじみの考えである。⇔ ユダヤ人虐殺の責任者:アイヒマンの言い訳『私は総統の言いつけ通りやっただけ。当時はそれが正しかったのだ』

【2】関東学院大教授の林博史さん:「『当時の政府の大義』、つまり公式見解ということですね。でもそれは表向きのことに過ぎません。政府や権力者はしばしばウソをつく。
  対米開戦ひとつとっても、政府の表向きの文書と、戦後明らかになったさまざまな内部の文書とは全く内容が違います。開戦詔書は『自存自衛』といいますが、内々では政府は
  南方の重要資源獲得を目標にし、マレーシアやシンガポール、インドネシアは日本領とすることを決めていたのです」

  では、ポーランド侵攻はナチスの自衛行為か。そう考える人が今の世界にいるのだろうか。なぜなら戦後、ナチスは旧ソ連と領土分割の密約を結んでポーランドに侵攻した
  ことが明らかになっているからだ。「『当時の大義』論では、例えばナチスのやったことはどう捉えることになるのでしょうか。国にはそれぞれ『大義』がある。
 『大義』で歴史を捉えると、国際社会における相互理解は不可能です」


  「確かに対米開戦時、多くの国民は喜びました。でもそれは言論弾圧や規制によって反戦の声を潰し、人々に真実を知らせないことで作られた国民感情です。言論の自由がない
  国の『国民の理解』を額面通り受け取るのはおかしいでしょう。北朝鮮国民だってみんな金正恩さんを『支持』しています。でもそれが国民の本心だと思いますか?


【3】高市氏はこうも言っている。<個人の価値観で歴史を見直し、過去の政権や国民を断罪する権利が、はたして50年後の私たちにあるのか>(「政界」1995年3月号)
   前出「Hanada」10月号のインタビューで、高市氏は「過去の戦争やその結果としての他国領域統治の責任を論じ始めると、不幸な未来しか待っていません」とも述べている。

  関東学院大教授の林博史さん:「いや違う。断罪でも批判でもいいのですが、過去を振り返り、歴史を学ぶのは『昔はひどかった』と言うためではありません。
  『今につながる問題はなぜ生まれたのか』『二度と同じことをしないために何をすべきか』『より良い未来を作るにはどうすべきか』を考えるためです。
  それゆえ『悪いことは悪い』と総括することは欠かせないのです。世界各国の指導者や政府は、負の過去であっても総括して批判し、被害者や相手国に謝罪をしています


 ◆ 国民ひとりひとりが個人の価値観で歴史を見直し、過去の政権や国民を断罪する権利こそが自由であり民主的な国の統治ではないのか?
  <他国領域統治の責任を論じ始めると、不幸な未来しか待っていません>・・”不幸な未来しかない”・・・そのように断じる論拠は一体何なのだろう。たぶん論拠などは無い。


【4】シンガポールの「国父」とされる初代首相、リー・クアンユー氏が「リー・クアンユー回顧録」(2000年、日本経済新聞社)でこんなことを書いていた。
  <私は日本から多くのことを学んできたが、一方で率直に批判もする。とりわけ戦争中の行為への謝罪に明らかに消極的な姿勢を問題にする>
  さらに日本軍占領下の数々の残虐行為をも厳しく論じた同書について<「アジアの中の日本」の歴史の一こまを日本の若い世代に読んでもらうことは意味のあることだ思う>
  と結んでいる。
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私が肯定できない政治的信条は青や赤に彩色した部分&太字に現れているが、是だけではない。全貌を知るにはWikipedia に要領よく且つ公平に整理されているので、挙げておく。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B8%82%E6%97%A9%E8%8B%97#%E3%80%8C%E7%B5%8C%E6%AD%B4%E8%A9%90%E7%A7%B0%E3%80%8D%E7%96%91%E6%83%91
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フランス人が使う『タタミゼ』:《日本人のようになんでも「検討します」と言い、断定、確答を避けようとする傾向》 褒められてると勘違いしては駄目!

2021-12-18 12:14:40 | 時評
下に引用したのは2014年9月15日の本ブログに書いたもの。何と7年以上前になる。引用した理由は、毎朝届く前日のレヴュー数統計の欄にリストアップされる過去のコラム閲覧
で頻繁に見かけるため「どうして是を多くの人がレヴューするんだろう?」と書いた本人の私がタイトル以外はコロッと忘れている中身を思い出したくなったからである。

読者からリマインドされる内容はタタミゼ(tatamiser)」以外でも幾つかあるが、改めて驚くのは、7年前にコラム子が指摘する”とかく摩擦を嫌い、相手との同化を
探る日本人”の≪ 曖昧を善しとする日本文化の秘める危険と弱さ ≫が、今なお何も変わらぬまま此の社会を包んでおり、変わりそうな兆候が依然見えない現実である。

 世代替わりしても、輝きを失っても日本人は根本的な反省ができないまま、『ケセラセラ』と徒らに時は流れる・・・。

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◆ タタミゼの試練 ; 現代フランス語に「タタミゼ(tatamiser)」という言葉ができている?
毎日の2014年9月15日朝刊「風知草」から。  http://mainichi.jp/shimen/news/20140915ddm002070063000c.html

  イントロとして<日本語のニュースがアッという間に世界に広がる時代になった。それがどういうことなのか、明確な説明を避け、あいまいに笑って取り繕うだけではすまされない時代が来た>。<ことばの壁、文化の壁の内側に籠もった説明不足を改め、国益を見定めて誤解を放置せず、情報通信革命の新局面に対応していかなければならない。ただし、それは、単に出来事や状況を洗練された英語に翻訳できればよいという問題ではない。言われたら言い返せという問題でもない。反論は大事だが、世界が、日本、日本人、日本語、日本文化をどう見ているかを深く理解し、懐の深いコミュニケーションを探る必要があろう>。 
   これをマクラに展開するのだが、私は、海外での日本語学習人口が35年前の31倍に増えたという指摘よりは、日本語を学ぶ動機が<「日本語そのものへの興味」(62・2%)「日本語でのコミュニケーション」(55・5%)の順に多く、「マンガ・アニメ・J-POP等が好きだから」(54・0%)を上回っている>という国際交流基金の調査結果(2012年)にコラム子同様、強く驚いた。
 さらに興味深いことに、コラム子によれば< 西欧で最も日本語学習人口が多いのはフランスだ。現代フランス語に「タタミゼ(tatamiser)」という言葉がある。言語学者、元外交官、日本語の達者な在日フランス人に聞いてみたが、《日本かぶれする》《日本びいきになる》という意味で使うほか、《日本人のようになんでも「検討します」と言い、断定、確答を避けようとする》傾向をさすことばでもあるという>。 パスカルを始め、論理を貫徹したがることでは西洋人でも断トツのフランス人が、断定を避けることに魅力を感じているとは!  意外ではないですか?

 <日本人みたいにあいまいになって悪いか?・・・・これは、なかなか微妙な問題である。とかく明瞭さを好み、論争好きなフランス人の「タタミゼ」は自己否定とも見えるが、《日本語を使うことで自分が以前よりも優しく、礼儀正しくなったと感じる》フランス人もいるらしい。何かと譲り合い、「すみません」を連発し、会釈するのも「タタミゼ」効果ということになる。言語は話者の人格に作用する>とここまではいい。だが、<日本語に親しんで日本化する外国人はフランス人だけではない>は本当かしら?・・・・と思わず呻りました。
  <ある研究者が、こう言っている。「英語一辺倒のグローバリゼーションは危うい。非対決的な文化に根差す日本語こそ人類を平和共存へ導くカギだ」
宗教対立、地域紛争が激化する一方の世界を眺めれば傾聴に値する>とコラム子は云う。だが、論理明晰さを欠くことに文化的美点を誇る日本人のこだわりが政治に限らずビジネスでも弱さ/脆さの真因であることを痛感してきた私には、そう素直に無邪気に受け入れられない。
  私はヒネクレ者だろうか?

 私は以下の指摘がこのコラムの最も重要な視点だと申し上げたい。<非対決的な文化を広めるためには、対決を恐れぬ覚悟が要る。とかく摩擦を嫌い、相手との同化を探る日本人の弱点を乗り越えねばならない。その勇気を欠いたためにこじれた政治問題は枚挙にいとまがない>。← この政治問題が西欧に限らないことに、ご注意! 
   ここでいう「対決を恐れぬ勇気」とは、情緒に逃げず、論理に即した言葉で闘うことを恐れない態度のことだ。それは、私が本稿で幾度も様々な話題ごとに繰り返し訴えてきたのでおわかりいただけると信じている。
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≪ アメリカ親分の睨みが怖く 自立して動けないニッポン ≫   ドイツ新政権は同じ米軍の核支配下でも 核兵器禁止条約締約国会議にオブザ―バーを送る  情けなくないか?

2021-12-17 08:31:24 | 時評
◆ 毎日【金言】 峠 三吉とアラゴン=小倉孝保 (論説委員)
・  <ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ> 広島で被爆した峠三吉の「原爆詩集 序」は、この有名な一節で始まる。

  三吉がこれを書いたのは、米国が朝鮮戦争で原爆を使う可能性があったためだ。トルーマン大統領は1950年11月30日の記者会見で、核兵器使用について否定しなかった。
  日本は当時、連合国軍総司令部(GHQ)の統治下にあった。原爆関連情報は統制され、50年8月には平和記念式典も中止に追いやられる。それでも当日、供養塔前には焼香の
  市民が列を作った。

・ 三吉は51年3月に詩集を書き上げたものの、出版社は発禁処分を恐れて発行をためらった。胸を病んで療養中にもかかわらず、三吉はあきらめなかった。自費でガリ版刷りの
  詩集500部を作り、東ベルリン(東独)での平和イベントに送っている。
   三吉はルイ・アラゴンを敬愛していた。この仏詩人は第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの占領に抵抗する作品を地下出版している。GHQの「圧力」に抗して、自費で
  反核の詩集を作った三吉の姿にも通ずる。

* 核兵器禁止条約の締約国会議が来年3月、初めて開かれる。独新政権がこれにオブザーバー参加する見通しとなった。日本同様、米国の「核の傘」に依存するドイツである。
  米国の圧力もある中、「核なき世界」に近づこうとする国際社会の声に耳を傾ける姿勢を示した。
  一方、日本政府は核の保有国と非保有国の橋渡しをする役割を強調し、条約には背を向けている。橋渡し役を担うなら、まずはオブザーバー参加すべきではないか。
  非保有国からの信頼を得たうえで、核の傘に頼らざるを得ない東アジアや国際社会の現状を説明すればよい。


★ 三吉は「原爆詩集」を出した2年後、肺葉切除の手術中に病状が悪化し36年の生涯を閉じた。遺品となった手帳にはアラゴンの詩が書かれてあった。
  <髪にそよぐ風のように生き 燃えつくした炎のように死ぬ>・・敗戦国のドイツと日本。共に核の脅威にさらされる両国政府の姿勢の違いを、三吉はどう考えるだろう。
    ドイツを孤立させないためにも、日本はオブザーバー参加すべきだと、私は思う。
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≪ 繰り返し憲法53条を無視・違反する政府 それでも支える与党支持層とは誰? ≫  それを指摘する野党を”批判ばかりする”と攻撃する国民 どうなってゆく?此のクニは?

2021-12-16 08:13:25 | 時評
毎日:【理の眼】◆世も末な「批判」の矛先=青木理 要旨転載
1. 約5カ月前の7月16日、野党4党は新型コロナ対策や五輪開催問題を議論するため臨時国会の召集を求めました。
 <いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない>と定める憲法53条に基づく要求でした。

 しかし、菅前首相はこれに応じないまま9月に辞任を表明。10月に入って首相選出のために臨時国会をようやく開いたものの、首相の所信表明演説と代表質問があっただけで、
 実質的な審議は行わないまま同14日に衆議院は解散されてしまいました。

2. つまり現在の本格審議は野党要求から実に5カ月後。いくら憲法に召集時期の定めがなくとも、これは明々白々たる憲法違反でしょう。ただ、最近の政権は同じ振る舞いを
 繰り返しているのです。たとえば2017年6月、森友・加計問題の真相解明を求めて野党は国会召集を要求しました。なのに当時の安倍首相は3カ月以上も無視し、同9月に
 臨時国会を召集しましたが、審議に入らぬまま「国難突破」と称して冒頭で衆院を解散。これは違憲だと野党議員は3地裁で訴訟を起こしました。

 いずれの判決も違憲性の判断を避けたものの、岡山地裁は野党要求に内閣は「憲法上の法的義務」を負うと指摘し、義務に反すれば「違憲と評価される余地はある」と言及。
 控訴審では政権の態度を「明白に違憲」と断ずる元最高裁判事の意見書が原告側から提出された、と朝日新聞が伝えました。

3. 憲法は公権力の行使者を縛り、市民の権利を保護するもの。それを政権が平然と無視するのは無法国家。だというのに、それを指摘する野党が「批判ばかり」という批判を
 浴び、野党合同ヒアリングの見直しも検討しているとか。いやはや、面妖な話です。国会を開かず、開いても真摯(しんし)な議論に応じないからヒアリングが必要だったのでは。

 憲法違反を繰り返す側が批判されず、それを批判する側が「批判ばかり」と批判されるとは世も末じゃありませんか。
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与党支持者ではないが、同じ国民が選んだ野党の憲法53条違反との指摘と開会要求を政府与党が無視し続け、好き放題に解散に持ち込む。これは青木氏の言う通り”無法国家”だ。
 これが臆面もなく何故できるのか?・・それは、内閣総理大臣が恣意的に行使する通称<解散権>が横行してきたからに他ならない。

 <解散権>の根拠たる7条に書かれているのは【内閣の助言と承認によって衆議院を解散できる】であり、まるで大統領制下のような独裁専権を首相に与えている。
其の片方で53条を内閣が無視ししても禁止または罰則は設けられていないので止められない。これは7条と矛盾する現行憲法の欠陥であるから、改憲討議の対象条項ではないか? 
憲法裁判所創設とセットで議論されるべきテーマだと私は信じる。

★ 総選挙を原則5年毎として首相の恣意的な解散に歯止めをかける下院議会任期固定法を定めた英国が、多数党不在による議会停滞の反省から約1年前に同法を廃止した記憶は
新しい。当時の加藤官房長官は「実質的に衆院の解散を決定する権限を持つのは天皇の国事行為に助言と承認をする内閣だ」と説明した。「いかなる場合に衆院を解散するかは内閣が
その政治的責任で決すべき事柄だとされている」と語った。
← 国会解散が「天皇の国事行為」というのは国民主権原則に反しないか?天皇の為の国会ではない筈だが???組閣後の天皇親任&国会初日の天皇臨席もオカシイ・・・。


 英国が任期固定を諦めたのは多数党不在と政権交代で連立内閣を組まざるをえない国民の支持多様化が背景だ。連立内閣の混乱がEU離脱を巡る国論不統一を招いた反省
から、この任期固定法廃止に至ったのであり、活発な民意反映と議席が連動しておらず政権交代による政治の活性化とはほど遠い日本に同様の反省は生まれない。

 英国のように民意反映と議席が日本では活発に連動しないのをいいことに、安倍首相以降の政府は13条を盾に取り7条規定無視に援用し続けてきた。
其の背景はというと、2000から2010年頃までの連立内閣乱立、政党再編、そして旧民主党政権の失策が国民に「安定」を求めさせたのだが、此の嫌気が倦んだ民主政治活性化への
無関心・消極性を悪用した与党の傲慢さを有権者自身がいつまで看過するのか? 外見的に自公政権の国政は安定してると映るが、日本の行く先を示す国家ヴィジョン不在なまま
国会は機能せず、民主政治とは無縁な近視眼的国家運営のまま、あなた任せの迷走で世界の海を彷徨うだけだ。・・これも赤字国債同様の”未来世代へのツケ回し”ではないのか?
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≪ ノーベル賞・真鍋さん 米国籍で漢字表記、なぜ? 「日本人」線引きの違和感 ≫ 毎日・東京夕刊【金志尚】 ・・・・ ”出生登録地としての国籍名札と故郷帰属感”

2021-12-13 20:18:33 | 時評
 この疑問について、テーマや人物は違うが私も取り上げてきた。真鍋さん同様、典型的な例のひとつが、女子プロテニスの大坂なおみさんが21歳を前に悩んだすえ日本国籍を選択した時だった。
其の苦悩は、青色LEDを開発した徳島の某企業技術者が会社と特許権利を争い敗れた結果、日本社会に絶望して米国ヴァ―クレイで研究に没頭する道を選んだ時もそうだった。何故そうなるのか?

こういう人たちが問いかける「複数国籍と生まれ育ったアイデンティティーは並立デキルのに、何故否定するのか?」この根源的な問いに日本人のどこまでが気付いてるのだろうか?
<国籍を変える=IDを捨てる?> 日本以外の大多数の国民はそう観ていない。 取り敢えず、外国籍の金志尚さんの目から視た『国籍観を巡る彼我の違い』に耳を傾けよう。。
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地球温暖化予測の礎を築き、今年のノーベル物理学賞に選ばれた真鍋淑郎・米プリンストン大上席気象研究員(90)。その真鍋さんに対し「日本人として誇らしい」という称賛の声が上がっている。
でも、ちょっと待ってほしい。真鍋さんは米国籍を持つ、正真正銘の米国人である。こういう時だけ「日本人扱い」するのはどうなのか。なんだか違和感を覚えた。

「ドクター、シュクロウ・マナベ」。6日(日本時間7日)、米ワシントンの科学アカデミーで、自身の名がアナウンスされた真鍋さんがノーベル物理学賞のメダルと賞状を受け取ると、会場からは大きな拍手が起きた。
 愛媛県出身の真鍋さんは東京大で博士号を取得後の1958年に渡米。以来、ほぼ一貫して米国で研究生活を送ってきた。「日本では人々は常に他人に気を使い、調和を保つ。
アメリカでは他の人がどう思っているか気にせず、やりたいことができる。私は調和を保つのが苦手なので日本に戻りたくなかったのです」。受賞決定直後の記者会見では、日本に戻らず国籍も変えた理由についてこう語った。米国での暮らしがよほどしっくりくるのだろう。

 一方、日本では岸田文雄首相が「日本人として大変誇らしい」と述べるなど、真鍋さんを「日本人」として称賛する言動が目につく。メディアもまたしかりだ。米国籍取得者を含むという注釈をつけてはいたが「日本人のノーベル賞受賞者は28人目」と報じたところもある。自国出身者の快挙だから、当然と言えば当然なのかもしれない。でも、どうにもモヤモヤする。そもそも米国籍の日本人って何だ?

* 「国際的にアピールできる時は『日本人』という枠をがっと広げ、そうじゃない時はぐっと狭める。そんな日本社会の性質がよく表れています」。こう話すのは、昭和女子大特命講師で社会学者の
 ケイン樹里安(じゅりあん)さん(32)である。「ハーフ」を巡る問題などに詳しく、自身も米国人の父と日本人の母を持つ。

 日本は、国籍法第11条で「日本国民は、自己の志望によって外国の国籍を取得したときは、日本の国籍を失う」と定めている。これに基づき、真鍋さんも米国籍を取った時点で法律的には日本人で
 なくなったことになる。ちなみにオランダのマーストリヒト大の調べによると、世界で複数国籍を容認するのは2020年時点で76%に上る。
 つまり、複数の国籍があることは国際的にはごく自然なもので、日本のように元の国籍を放棄させるのは極めて少数派なのだ。
 「海外では、ルーツやアイデンティティーを奪うことには慎重であるべきだという考えが根底にあります。それに対して日本は国家がそれらを簡単に奪ってしまう状況にありながら、功績を残した時だけ『日本人』の領域を恣意(しい)的に広げている。今回がまさにそうなのですが、表層的には拡張しても実質的には拡張しない。このギャップに本質的な問題があります」。ケインさんはそう指摘する。

 「海外では、ルーツやアイデンティティーを奪うことには慎重であるべきだという考えが根底にあります。それに対して日本は国家がそれらを簡単に奪ってしまう状況にありながら、功績を残した時だけ『日本人』の領域を恣意(しい)的に広げて
 いる。今回がまさにそうなのですが、表層的には拡張しても実質的には拡張しない。このギャップに本質的な問題があります」・・ケインさんはそう指摘する。

★ 振り返れば、4年前にも似たようなことが起きている。日系英国人作家のカズオ・イシグロさんがノーベル文学賞を受賞した時だ。イシグロさんは長崎出身だが、住んでいたのは5歳まで。それでも「日本人性」を見いだそうとする言説が多く見られた。やはり世界に誇るべき快挙があった時は、日本人の側に引き入れようとする意識が強く働くということか。「ハーフと呼ばれる人たちも含めて、境界線の上に置かれている人たちは時に内側、時に外側と揺さぶられる状況があります。
経済的な利潤や政治的な思惑と結びついて、あっという間に立場が変わってしまうのです」

◆ 真鍋さんのノーベル賞受賞に沸き立つ日本。そんな母国の状況を、遠く離れた地で複雑な思いで受け止めた人もいる。「一旗揚げれば祖国の英雄。でも無名で終わればただの棄民なのでしょうか」。
 今年でスイス在住20年になる岩村匡斗(まさと)さん(44)はオンラインでの取材に、こんな胸の内を明かした。
 岩村さんはもともと留学生としてスイスに渡り、現地の大学を経て葉巻販売会社に就職。異国の地で苦労を重ねながらも必死に働き、5年前には永住に近い在留資格も得た。今のところ日本に戻る
 具体的な予定はなく、今後の生活や仕事のことを考えてスイス国籍の取得を検討している。申請すれば認められる公算は大きいそうだが、日本国籍を失うことから二の足を踏まざるを得ないという。

「言葉を完璧に覚え、文化も身につきました。友人や家族もジュネーブにいます。そうした中でスイス国籍を取得したいという思いになるのはごく自然なことです。国籍がないと、仕事上で制約を受けることもあります。でも、なぜそのことによって、日本国籍を剥奪されないといけないのでしょうか。私のアイデンティティーが何かと言われれば、それは日本です」
 岩村さんら欧州在住の男女8人は18年3月、外国籍取得後も日本国籍を持つことなどの確認を求め、東京地裁に提訴した。だが今年1月の1審判決は訴えを棄却。現在、東京高裁で控訴審が行われているが、そんな中で飛び込んだのが真鍋さん受賞のニュースだった。

〇 「もちろん、素晴らしい快挙だと思います」。そう前置きした上で岩村さんは、その時に覚えたある違和感について教えてくれた。「最初に『あれ』と思ったのが、アメリカ人なのに漢字で紹介
 されるんだなということでした。文部科学省や首相官邸のサイトでも漢字で紹介されていましたから。というのも、私たち原告の中には既に日本国籍を失い、日本に戻っても公的文書などで、
 もう漢字では表記されなくなった人がいます。漢字には親の思いが込められているので、国籍喪失に伴う非常にセンシティブな問題です。そういう人たちからすれば、『何であの方は漢字なの?』
 という気持ちになってしまうのです」

★☆ 国籍がなくても国を挙げて祝福される人がいる一方で、祖国とのつながりを絶たれたように感じる人がいる。ではその線引きはどこにあるのか。岩村さんの目には、日本の対応がご都合主義と映る。
 「海外に行って結果が出たら偉い。でも結果が出なかったら日本を捨てた人たちだと。そういう考え方は人間の尊厳を深く傷つけます。公平に私たちのことを見てほしい」

◎▲ グローバル化が進展し、日本を飛び出して活躍する人たちが増えている中、そもそも国籍法の規定自体が「時代遅れ」だという指摘もある。岩村さんは「これから世界で活躍する可能性がある
 子供たちに、自分たちと同じ苦しみや問題を抱えてもらいたくない」と力を込める。前出のケインさんも「少なくとも民間人で言えば、複数国籍を持つことで国に不利益を生じさせることは考えづらい。
 現地の国籍を取れない、あるいは、 現地国籍を取得することで日本国籍を剥奪されるデメリットの方がはるかに大きい」と訴える。日本出身者の受賞に一喜一憂する時代なのだろうか。
  その前にもっと向き合うべきことがある。

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皆さん。此処までお読みになり、もう気付かれたのではないか? それは【原籍に拘る出自宿命意識 vs 個人と国家集団への在籍感覚】の違いである。前者は<ある個人が地上の何処で生きようが、
生まれた土地の名札に縛られるのは当然>との考え方。後者は<何処で生まれようが、其の個人が偶々席を置いたクニの名札を使うだけ>との意識だ。 両者の決定的違いは何か??

要は『生み落とされた場所だからではなく、モノご心ついてからのアイデンティティーとは、人生の中で当人が選ぶもので二つあっても良い』と認めるかどうかである。これも<個人vs集団>の問いだ。
 
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