本書は今年の12月11日:トークネット<私と読書>の中で、”積ん読”状態のまま机に放置されている6冊の中の一つに挙げた文庫本だ。 放置した理由を次の様に書いたが、其の
”内容に打ち負かされた衝撃・所感・感動の整理ができないまま日常の些事にかまけたまま放置した”状態と振り返ってから10日経ち、漸く『塩漬け状態』からこの本が立ち上がって来た。
だからこそ、書評にしてみようという決心がついたのであろう。
米原さんの様々な著作、或は友人であった田丸公美子さんの著作は共に知的刺激と異文化考察、ひいては我が身を振り返る糧にもなり、学ぶ事が多い。ロシア語通訳で人生を閉じた米原さんだが、
本書はロシアという接点から晩年深い交流のあった佐藤優氏がまとめた<米原万理・外伝>と呼んで差し支えないと感じた。単なるアンソロジーではない。佐藤氏は自分が知り得た米原万理の全貌を
読者に示すべく、慎重に彼女の著作の中から選んで構成した。再読し終え、佐藤氏の配慮と選択眼は見事に効を奏したと改めて唸った次第である。
内容は大まかに分けて、エッセイ、東京外語大学の卒論、東京外語会会報でのインタヴュー、池澤夏樹氏との対談から成る。言うまでもなく、それを概説しても著者の世界を伝える事にはならないので、
興味を抱かれた方は是非とも御自分でお読みになられるようお薦めする。
★ 私の心に残った事を並べてゆくと、まずエッセイの中では、チェコ在住時の体験やソ連の建てた小学校での教育や生活ぶりに驚いた。これは貴重な記録でもあるが、ロシア語が身に付くスタート地点に
なった5年間の異国暮らしは60年代前半の社会主義体制下であり、現代のようなグローバル経済下での駐在員暮らしとはわけが違う。チェコスロヴァキアでの生活は決して貧しいとは思えないし、
人々が今よりも遥かに快活に暮らしていたように著者は描いている。米原氏は嘘をつく義理も美化する必要も無いので、たぶん我々がぼやっと抱いていた社会主義国家の姿とは異なっていたのだろう。
小学3年生から中学2年までをチェコで暮らした米原氏は日本の中学3年に編入したが、学校の規律・校則・教師と生徒の関係・授業や試験様式の差(丸暗記 vs 討議発表)などにおける甚大な
カルチャーショックを綴っている。これはチェコならずとも外国の学校で学んだ子供達なら等しく受ける洗礼で、私の息子たちも同様の体験を過ごし、それは職業選択に加え人格形成にも勿論多大な
影響を遺しているので、余計に私は身につまされるのだろう。
言葉を身につける大事な年齢期を非日本語社会で過ごした米原氏は帰国後懸命に読書を重ね、日常会話でもキャッチアップしたが、いかんせん読み書き能力、特に漢語習得は手こずったらしい。
佐藤氏が掲載した東京外大の卒論『ニコライ・アレクセ-エヴィッチ・ネクラ-ソフの生涯:作品と其の時代背景』この全文は文庫97頁分の長さに及ぶものだが、読み進むと担当教授が誤字・脱字を
こまめに訂正している箇所の多さに唖然とした。冒頭の指導教官による【審査概評】では、研究態度や視線の正しさを評価しつつも誤字・脱字の多さにあきれ果てた言葉が率直に記されている。
米原氏が読み書きが左右する大学での研究生活ではなく、話し言葉が全ての通訳業に職を得たのは、正解であったろう。
ネクラ-ソフを私はこの卒論で初めて知った。1821-1877年というから僅か56年の生涯だが、プーシキン(1799-1837)の跡を襲う人気詩人となり、編集者としてドストエフスキー(1821-81)
を見出したり、プレハーノフ(1856-1918)に影響を与えたり、仏革命後の西欧精神の影響を受け始めた19世紀中ごろの帝政ロシアで、弾圧を受けつつも詩人・編集者/評論家として活躍したらしい。
トルストイ(1928-1910)とも仲が良かったというし、生きた時代は少しずれるが、あのレーニン(1870-1924)もネクラ-ソフから多大な影響を受けたと述懐するほど帝政下の農奴制を批判した。
まさにロシア革命の下地を築いた人物であろう。
ソ連全盛時代に幼少期をソ連圏内で過ごし、ソ連崩壊期の政治家たちの通訳を務めた米原氏にとり、ロシア人・ロシア語は単なる生計を立てるツールではなく、彼女の人生そのものでもあったと思う。
ゴルバチョフやエリツィンから国際首脳会議の同時通訳として直接指名されるほど信頼を得たというが、其の重み・重要さは我々門外漢には想像しようもない。
そんな米原氏を生涯に亘り惹きつけた詩人・ネクラ-ソフが常に彼女の中にあり、それが社会主義革命観・マルクス主義、レーニン主義、ひいては日本共産党についての見解を定めたと佐藤氏。
外務省に居た佐藤氏は例の事件で収監され、出所後は作家に転じるが、佐藤氏が本書の「あとがき」に著す言葉がもうひとつの本書の値打ちなので、次はそれに触れたい。 < つづく >
”内容に打ち負かされた衝撃・所感・感動の整理ができないまま日常の些事にかまけたまま放置した”状態と振り返ってから10日経ち、漸く『塩漬け状態』からこの本が立ち上がって来た。
だからこそ、書評にしてみようという決心がついたのであろう。
米原さんの様々な著作、或は友人であった田丸公美子さんの著作は共に知的刺激と異文化考察、ひいては我が身を振り返る糧にもなり、学ぶ事が多い。ロシア語通訳で人生を閉じた米原さんだが、
本書はロシアという接点から晩年深い交流のあった佐藤優氏がまとめた<米原万理・外伝>と呼んで差し支えないと感じた。単なるアンソロジーではない。佐藤氏は自分が知り得た米原万理の全貌を
読者に示すべく、慎重に彼女の著作の中から選んで構成した。再読し終え、佐藤氏の配慮と選択眼は見事に効を奏したと改めて唸った次第である。
内容は大まかに分けて、エッセイ、東京外語大学の卒論、東京外語会会報でのインタヴュー、池澤夏樹氏との対談から成る。言うまでもなく、それを概説しても著者の世界を伝える事にはならないので、
興味を抱かれた方は是非とも御自分でお読みになられるようお薦めする。
★ 私の心に残った事を並べてゆくと、まずエッセイの中では、チェコ在住時の体験やソ連の建てた小学校での教育や生活ぶりに驚いた。これは貴重な記録でもあるが、ロシア語が身に付くスタート地点に
なった5年間の異国暮らしは60年代前半の社会主義体制下であり、現代のようなグローバル経済下での駐在員暮らしとはわけが違う。チェコスロヴァキアでの生活は決して貧しいとは思えないし、
人々が今よりも遥かに快活に暮らしていたように著者は描いている。米原氏は嘘をつく義理も美化する必要も無いので、たぶん我々がぼやっと抱いていた社会主義国家の姿とは異なっていたのだろう。
小学3年生から中学2年までをチェコで暮らした米原氏は日本の中学3年に編入したが、学校の規律・校則・教師と生徒の関係・授業や試験様式の差(丸暗記 vs 討議発表)などにおける甚大な
カルチャーショックを綴っている。これはチェコならずとも外国の学校で学んだ子供達なら等しく受ける洗礼で、私の息子たちも同様の体験を過ごし、それは職業選択に加え人格形成にも勿論多大な
影響を遺しているので、余計に私は身につまされるのだろう。
言葉を身につける大事な年齢期を非日本語社会で過ごした米原氏は帰国後懸命に読書を重ね、日常会話でもキャッチアップしたが、いかんせん読み書き能力、特に漢語習得は手こずったらしい。
佐藤氏が掲載した東京外大の卒論『ニコライ・アレクセ-エヴィッチ・ネクラ-ソフの生涯:作品と其の時代背景』この全文は文庫97頁分の長さに及ぶものだが、読み進むと担当教授が誤字・脱字を
こまめに訂正している箇所の多さに唖然とした。冒頭の指導教官による【審査概評】では、研究態度や視線の正しさを評価しつつも誤字・脱字の多さにあきれ果てた言葉が率直に記されている。
米原氏が読み書きが左右する大学での研究生活ではなく、話し言葉が全ての通訳業に職を得たのは、正解であったろう。
ネクラ-ソフを私はこの卒論で初めて知った。1821-1877年というから僅か56年の生涯だが、プーシキン(1799-1837)の跡を襲う人気詩人となり、編集者としてドストエフスキー(1821-81)
を見出したり、プレハーノフ(1856-1918)に影響を与えたり、仏革命後の西欧精神の影響を受け始めた19世紀中ごろの帝政ロシアで、弾圧を受けつつも詩人・編集者/評論家として活躍したらしい。
トルストイ(1928-1910)とも仲が良かったというし、生きた時代は少しずれるが、あのレーニン(1870-1924)もネクラ-ソフから多大な影響を受けたと述懐するほど帝政下の農奴制を批判した。
まさにロシア革命の下地を築いた人物であろう。
ソ連全盛時代に幼少期をソ連圏内で過ごし、ソ連崩壊期の政治家たちの通訳を務めた米原氏にとり、ロシア人・ロシア語は単なる生計を立てるツールではなく、彼女の人生そのものでもあったと思う。
ゴルバチョフやエリツィンから国際首脳会議の同時通訳として直接指名されるほど信頼を得たというが、其の重み・重要さは我々門外漢には想像しようもない。
そんな米原氏を生涯に亘り惹きつけた詩人・ネクラ-ソフが常に彼女の中にあり、それが社会主義革命観・マルクス主義、レーニン主義、ひいては日本共産党についての見解を定めたと佐藤氏。
外務省に居た佐藤氏は例の事件で収監され、出所後は作家に転じるが、佐藤氏が本書の「あとがき」に著す言葉がもうひとつの本書の値打ちなので、次はそれに触れたい。 < つづく >