私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ 冬はダイヤのように きらめく雪になる 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる 夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています
千の風に 千の風になって あの 大きな空を 吹きわたっています ・・・あの 大きな空を 吹きわたっています
Do not stand at my grave and weep; I am not there, I do not sleep. I am a thousand winds that blow. I am the diamond glints on snow. I am the sunlight on ripened grain. I am the gentle autumn's rain.
When you awaken in the morning's hush, I am the swift uplifting rush of quiet birds in circled flight. I am the soft stars that shine at night.
Do not stand at my grave and cry; I am not there, …I did not die.
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◆ 昨日(2021年12月3日)新井満氏が逝去。此の歌は最初に新井氏自身の歌唱でCDを作り親しい知人に配ったが、公に発売されたのは2003年という。じわじわ人気が高まってゆき、テノール歌手
秋川雅史の声で吹きこまれたCDが売れ、NHK 紅白で歌ったことで歌の知名度が一挙に上がるのが2006年。それ以前の2005年には阪神淡路大震災10周年のチャリテイーコンサートで宝塚歌劇団の
<彩乃かなみ>が歌っていたとも記録にはある。 世に広く知られてから15年。 昨夜、改めて聴きながら私は新しい涙を流した。 合掌。
◆ 新井氏が日本語に置き換えた歌詞は上の英詞のココロを取り込み、日本語の音韻の流れへ巧みに載せていると常々感心してきた。通説では、その原詩<A Thousand Winds>は、アメリカの女性
(メアリー・エリザベス・フライ)が広めたとされているが、私は何かの文章で(其の女性・メアリーが母?の死を嘆くのに対し、ドイツに居た友人から慰めの手紙を貰い、その言葉が原詩の元に
なった)と読んだ記憶が蘇った。手がかかりになるか?と以前手元に在った新井氏自身の吹き込んだCDを探したが、残念にも見当たらず、確かめようがない。何故其の逸話が私の記憶に残ったのか?
それは基督教文化圏で育った人なのに≪God≫の御許へなどとは言わず、 ”亡くなった人の魂はいつでも貴方の傍に居ます”と歌いあげる心を持っていることを意外に感じたからだった。
◆ 仏教史家の松尾剛次は著書「葬式仏教の誕生」(2011年、平凡社新書)において、「この歌詞は石塔(墓)を立てて、盆や彼岸にそれに参る、われわれの葬礼習俗への挑戦ともいえるもの」
「東日本大震災後の遺体捜索を見れば、遺体によって親族の死を確認し火葬骨を墓に納めたいという遺族の強烈な願いと行政がそれを無視できないことが露わにされている。
『千の風となって』吹きわたっているから捜索などしないでなどと思ってはいない」と述べている。・・・日本人の大多数が、死因が何であれ遺体(骨)発見に拘り続ける心情は事実であるだけに、
<日本の葬式仏教>が培ってきた死生観に私は違和感を改めて覚えた。 目に見えぬ「魂」vs 証/形見としての「骨」vs 去った者を偲ぶ「心」。。。。
◎ この歌をカラオケで歌う人は多くあるまい。通夜や告別式式で朗々と歌われることも稀だろう。それは何故?
此の歌詞が、あらゆる宗教信心を吹き飛ばすほど≪死者の魂と遺された自分達≫を問いかけるから? 此の問いかけは誰にとっても重い。
幼児はいざ知らず、長じて人間の死と生を理解し始めた者には、余りにも辛い投げかけだから? ・・・然し、これは誰も逃げられない問いかけである。
秋には光になって 畑にふりそそぐ 冬はダイヤのように きらめく雪になる 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる 夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています
千の風に 千の風になって あの 大きな空を 吹きわたっています ・・・あの 大きな空を 吹きわたっています
Do not stand at my grave and weep; I am not there, I do not sleep. I am a thousand winds that blow. I am the diamond glints on snow. I am the sunlight on ripened grain. I am the gentle autumn's rain.
When you awaken in the morning's hush, I am the swift uplifting rush of quiet birds in circled flight. I am the soft stars that shine at night.
Do not stand at my grave and cry; I am not there, …I did not die.
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◆ 昨日(2021年12月3日)新井満氏が逝去。此の歌は最初に新井氏自身の歌唱でCDを作り親しい知人に配ったが、公に発売されたのは2003年という。じわじわ人気が高まってゆき、テノール歌手
秋川雅史の声で吹きこまれたCDが売れ、NHK 紅白で歌ったことで歌の知名度が一挙に上がるのが2006年。それ以前の2005年には阪神淡路大震災10周年のチャリテイーコンサートで宝塚歌劇団の
<彩乃かなみ>が歌っていたとも記録にはある。 世に広く知られてから15年。 昨夜、改めて聴きながら私は新しい涙を流した。 合掌。
◆ 新井氏が日本語に置き換えた歌詞は上の英詞のココロを取り込み、日本語の音韻の流れへ巧みに載せていると常々感心してきた。通説では、その原詩<A Thousand Winds>は、アメリカの女性
(メアリー・エリザベス・フライ)が広めたとされているが、私は何かの文章で(其の女性・メアリーが母?の死を嘆くのに対し、ドイツに居た友人から慰めの手紙を貰い、その言葉が原詩の元に
なった)と読んだ記憶が蘇った。手がかかりになるか?と以前手元に在った新井氏自身の吹き込んだCDを探したが、残念にも見当たらず、確かめようがない。何故其の逸話が私の記憶に残ったのか?
それは基督教文化圏で育った人なのに≪God≫の御許へなどとは言わず、 ”亡くなった人の魂はいつでも貴方の傍に居ます”と歌いあげる心を持っていることを意外に感じたからだった。
◆ 仏教史家の松尾剛次は著書「葬式仏教の誕生」(2011年、平凡社新書)において、「この歌詞は石塔(墓)を立てて、盆や彼岸にそれに参る、われわれの葬礼習俗への挑戦ともいえるもの」
「東日本大震災後の遺体捜索を見れば、遺体によって親族の死を確認し火葬骨を墓に納めたいという遺族の強烈な願いと行政がそれを無視できないことが露わにされている。
『千の風となって』吹きわたっているから捜索などしないでなどと思ってはいない」と述べている。・・・日本人の大多数が、死因が何であれ遺体(骨)発見に拘り続ける心情は事実であるだけに、
<日本の葬式仏教>が培ってきた死生観に私は違和感を改めて覚えた。 目に見えぬ「魂」vs 証/形見としての「骨」vs 去った者を偲ぶ「心」。。。。
◎ この歌をカラオケで歌う人は多くあるまい。通夜や告別式式で朗々と歌われることも稀だろう。それは何故?
此の歌詞が、あらゆる宗教信心を吹き飛ばすほど≪死者の魂と遺された自分達≫を問いかけるから? 此の問いかけは誰にとっても重い。
幼児はいざ知らず、長じて人間の死と生を理解し始めた者には、余りにも辛い投げかけだから? ・・・然し、これは誰も逃げられない問いかけである。