静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

【書評163-8】再 開       風 穴 を あ け る        谷川 俊太郎 著    草思社    2002年1月 初版

2022-12-01 16:19:16 | 書評
◆ 寺山 修司
  本書には谷川氏(1931~)が寺山修司(1935-1983)について書いたうちから2篇載せてある。後者は寺山氏が亡くなって2年後にフランス・カンヌの消印で届いたと
 いう気味悪くも不思議な手紙、及び、死の前年もらった手紙についてが中心だ。前者は<劇団四季『裸の王様』公演パンフレット>への寄せ書きで、こちらを書きたい。
 
寺山氏といえば一般に脚本・劇作・演出の分野での業績が最も高く評価されている。そうなったのも早稲田大学在学中、一足先に世に出て詩で生計を賄えるようになった谷川氏の人脈でラジオの劇番組の台本書きや戯曲づくりなどで浅利慶太氏・石原慎太郎氏・篠田正浩氏などと知り合った縁が大きい。暫くは活動を共にしており、仲が良かったと谷川氏は回想している。
 1959年、寺山氏は2作目に手掛けたラジオドラマ『中村一郎』で民放祭大賞を取り「谷川さんに勝った!」と自慢気に言うが「これで君も俺を意識せずに済むだろう」と著者はからかった、とある。だが、谷川氏は<ラジオドラマの世界ではその時分から自分は全く寺山氏の敵ではなかった>と、ここで述懐している。 
 寺山氏は高校生までの若い頃、郷里・三沢で詩や短歌を書いていた。だが上京して早稲田の短歌研究会で活動するうち限界を感じたのか、脚本から劇作にシフトしてゆく。
≪天井桟敷≫館が渋谷に落成した1969年、あの頃の眩しいばかりの活躍は寺山氏が作詞した<時には母のない子のように>と共に、大学生であった私は忘れられない。

そのあたりを公私ともに支えた先輩の谷川氏に、恐らく「詩」では及ばないと見極めたのであろうか。劇作にてんじてから、周知のようには谷川氏以上に海外でも活動を広げ名声も得た。「正直言うと、二・三を除き自分は寺山の芝居に馴染めなかった」と谷川氏は告白しているが、言葉を扱う才能の輝きは若い頃から見抜いていた。
<寺山もまた、自分は詩人だと思いたいようだった、私もそう思う>と。 ここには、詩人同士でしかわかりあえない何かがあるようだ。

 寺山修司、享年47歳。実に惜しかった。燃えるのが早すぎる才能だった。    合掌。                       < 了 >
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