まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

オスカーニーマイヤー:最後の巨匠

2015-08-23 19:43:43 | 建築・都市・あれこれ  Essay

オスカーニーマイヤー展を駆け足で見学。写真左はサン・フランシス・デ・アシス教会。右写真はイビラプエラ公園の模型。なんと1/30スケールです。故森稔森ビル社長の1/1000模型にも驚きましたが、これにも仰天。

ニーマイヤーが自作の形態のよって来るところを、スケッチを交えて解説するビデオがありました。昨今の建築は、人が集まる場を作ったり、行為を誘発する仕掛けとしての存在であったりと、形そのものの存在を前面に押し出すようなものが少ないように思います。建築は形であることには違いはないのだけれども、形から発想するという態度は慎重に避けられる傾向にあるといえます。しかしニーマイヤーは違う。堂々とかたちから入っていく・・・。美しい形を提示することに躊躇はない、逡巡もない・・・潔いです。

ニーマイヤーの建築の持つ美しい形ははブラジリアでもっとも純粋に存在しています。手元にある”Building Brasilia”のMarcel Gautherotの写真は息を呑むほどの美しい造形美を伝えています。何もない平原に建築が建っていき、都市ができていくプロセスは感動的です。しかもそれが極めて美しいのですからなおさらです。

ブラジリアは衆知のように鳥が羽を広げたような平面プランをしています。何もないあの平原のなかに、新しい暮らしの場を作ろうとすれば、誰かがああいうわかりやすい都市の形(一枚の絵)を提示するしかなかったのでしょう。ルチオコスタの描いた絵の中にニーマイヤーは美しい建築をちりばめました。鳥瞰すると人類史に残るすばらしい造形作品です。しかし地上での人々の生活の利便性や人間的なスケールという意味では、多くの問題を抱えています。

ここまで書いて、槇文彦先生の「ブラジリアという<一枚の絵>」というエッセイを思い出します。都市計画家や建築家の描く一本の線、一枚の絵の中にこめられた私たち(人類)の造形への欲望あるいは渇望。そして同時にその線が人々の生活を規定するという暴力性。「およそこれほどロマンチックな暴力行為はない」と槇文彦先生は言います。

心の奥底に美しい造形への渇望をもっていなければ、私たち設計者はがんばり続けられないように思います。しかし自らが描く絵の持つ意味を社会の中で客観的に見ようとする態度を持っていないとすれば、設計者たるべきではない・・・槇先生はそう私たちに教えてくれているように思います。

設計計画高谷時彦事務所のHPへ

このカテゴリーの他の記事へ

記事一覧

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿