まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

建築の価値とは(2) 用を終えた後の建築の価値

2022-03-25 23:15:53 | 建築・都市・あれこれ  Essay

前回は、同じ時期の同じ建築家によってつくられた2つの建築が、一方は価値ある建築なので残してうまく活用していこうと判断され、もう一つは積極的に残すだけの価値がないと判断されていることに、不思議な感慨、あるいは理不尽さを覚えたことを記した(前川圀男の神奈川音楽堂と世田谷区民会館)。また私自身がリノベーションに取り組んだ建物(酒田市日和山小幡楼)が、当初は「建築的に価値がない」といわれていたこと、そして全く同様な評価が、現在再利用を試みている松本市電気館についてもなされていることを紹介した。

以上の経験から、「建築的に一定の役割を終えた後の建築の価値」とは何なのか、あるいはある程度のお金がかかっても破壊せずに残して使おうとされるのは、建築がどのような価値を持っていると認識される場合なのか、この辺りを考えてみたいと思った。

ただ、私が考える対象としたいのは、重要文化財などの文化財に指定されるようなみんなが価値を認めている建築ではない。どちらかというと役割を終えた普通の(普通に見える)建築である。

この点からすると、前川圀男設計の神奈川音楽堂など学術上の重要性が認められている建物と、日和山小幡楼などを同一平面上で扱うことには無理があるかもしれない。ちなみに、先日の神奈川音楽堂・図書館の見学会では、この2つの前川建築が神奈川県の指定文化財(神奈川県の指定文化財は国と同じように重要文化財と呼ばれる)になったばかりであることを、知った。実は壊されようとしている世田谷区民会館も、日本建築学会や日本イコモス、地元の建築家の皆さんなどの活動により、歴史的あるいは学術的に貴重であることは、区の幹部たちも認めざるを得ない状況であった。それにもかかわらず、巨額の税金を投じて巨大な区役所に建てかえたいという大きな流れが変えられず、同時に区民の関心はそれほどに盛り上がらなかったということである。

ちなみに国が指定する重要文化財(建築)は歴史上、芸術上、学術上価値が高いものとされ、次の5つの基準が示されている。

①意匠の優秀さ

②技術の優秀さ

➂歴史的価値

④学術的価値

⑤流派的または地方的特色において顕著なもの

取り壊しをすべきか、リノベーションすべきかが問われる普通の建築の価値についても、上記の条件で判定できるはずであるが、ここでは、実践者の目で、自分の言葉で整理をしてみたい。壊されるかもしれないところから幸運にも再生工事を経てよみがえった二つの建築(日和山小幡楼と鶴岡まちなかキネマ)を例にして具体的なイメージとともに、考えていきたい。

 

1.社会の求める機能を果たせる器であるのかどうか:利用価値 潜在的な可能性を含めた効用

今使われていない建築は、機能を満足させる「道具」としての役割は一旦終えたといえる。以前建築家の槇文彦先生が「道具」としての建築と「器」としての建築について考察しておられたことを想いだす。道具性が強いものというのは、用や機能と形態、形状との関係が1対1に近いもの。家電製品などはその代表であろう。それに対して建築はいろいろな活動を許容する「器性」が強いという。

例えば小幡楼は料亭建築であったが、その骨格の特性を生かしたまま、ベーカリ―カフェになることができた。これは小幡楼の原点となる町家建築の「器性」の高さを証明するものである。また、絹織物工場であった工場建築が、映画館になることができたのも、大スパンの小屋組みを桁行方向に1間ごとに連ねるという構造あるいは構法システムの「器性」が高いということである。

しかし、忘れてならないのは、改修が可能という場合でも、後段で述べる建築の価値を損なわないことを前提にならなければいけないということである。例えば、まちなかキネマの大スパン建築の映画館も、(閉館後まさに行われようとしているように)床と天井を設けたうえで、小さく間仕切ることは物理的にできないことではない。しかしこれは、後段で述べる建築の価値を著しく損壊させる行為である。

あくまでも、「建築的な価値」を尊重しながら活用できる場合に「器としてやくにたつ」価値を持つと考えなければならない。

 

2.歴史の証言者であること:まちの物語、個人の記憶

今使われなくなってしまった建物は、少なくとも何十年かの歴史を持っている。歴史的建築と総称してもよいだろう。歴史的建築は様々な意味で歴史の証言者となる。

わかりやすいのは、歴史上の事跡に関係する場合である。小幡楼のように明治の文人墨客の逗留があるというのはわかりやすい例である。またアカデミー賞映画の撮影に使われたというのも、歴史的な事績にかかわる。小幡楼の大きな座敷は、酒田市の電灯事業の完成祝賀会の会場として増築されたものである。大正期に増築された洋館は、大正期に流行ったデザインを色濃く感じさせる。本格的なフレンチレストランとして出発したという時代の雰囲気を使える証人であろう。

また、まちなかキネマの中央部に越屋根があり、6件の大スパンを持つ小屋組みは、大正から昭和にかけての絹織物工場の姿をそのまま伝えている。時代に応じた増築の跡がきちんと残っているというのも、絹織物やその後の繊維産業の歴史を物語ってくれるものである。

以上は少しフォーマルな歴史であるが、より個人的な物語や歴史もあるだろう。まちキネで昔女工をしていたので懐かしいとか、小幡楼の2階で結婚披露宴に参加したという話も聞いた。個人の思い出、記憶のよりどころになるというのも、建築が歴史の証言者であるということであろう。

私たちが暮らすまちには、歴史文化の厚みが必要である。歴史を失った「記憶喪失のまち」(後藤治先生)ではつまらない。

 

3.典型性、あるいは代表性をもっていること:これを見たければここへ来なさいといえること

今回リノベーションを行う中で理解できたのが、小幡楼が町家を出発点に、複雑な料亭建築に成長してきたという事実である。町家から料亭へと変化を遂げた建築の総体がここにある。今回のリノベーションで学術的にじっくりと調査することはできなかったが、ひとつの典型例が発見できたように思う。希少性や唯一性に関しは、不明であるが、今後研究していくことも可能であろう。

また、まちなかキネマの構造体でも面白いことに気付かされた。まちなかキネマの原型は松文産業鶴岡工場であり、松文産業本社の勝山にも、全く同形状の工場が多く残っている。同じ雪国なので小屋組みもがっしりしたものであるが、柱と梁の関係を見ると、勝山本社では京呂組であるのに対し鶴岡では折置き組が採用されている。おそらく、昭和初期まで鶴岡では折置きの組み方がなされていたのであろう。ちなみにこの地域には今でも棟を受ける鏡差しという短い梁で受ける特徴的な小屋の組み方が行われている。そのように地方の特色を示す代表的な建築であるというのも一つの価値であろう。

「こういう事例が見たければここに来なさい」という価値である。

 

4.良い作品であること:創作物としての出来映え、作品としてすぐれていること

建築は彫刻のような芸術作品のように、一人の芸術家の作品という見方はなじまない。しかし、建て主や、設計者、施工者(そこには親方から職人まで)など多くの関係者によって創作される一つの作品であることも確かな事実である。創作された作品である以上傑作もあれば駄作もある。良し悪しには、建て主の思いや意志、設計者の思想や時代のとらえ方、デザイン力、施工者の技術力や、素材、また職人の技、職人を育てる仕組みなど様々な要素がかかわってくるだろう。

作品は以下のような観点から評価できる。

 

A:美しく人に喜びを感じさせること

建築は人間の活動の舞台となるものである。美しく、喜びを感じさせることが必要である。芸術作品的な美しさもあるであろうしそこにいること、あるいはその建物を眺めることが、そこはかとない心地よさを与える場合もあるであろう。様々な要素が総合された作品としての完成度が建築の価値を左右する。この価値は顕在化されていることもあるが、増築や改変により見えなくなっていることもある。その美しさを顕在化させることも、リノベーションの役割の一つである

小幡楼は、朽ち果てた状態ではその良さが分からなかったが、再生工事を経て作られたみせ土間に入ると、その歴史的な雰囲気と現代的なベーカリーの共存する、空間的な面白さが、人々に小さな感動を与えている。小幡楼は、潜在的な美しさを持っており、再生工事によりそれが顕在化したのである。

まちなかキネマもエントランスホールでトップライトに照らされた小屋組みを見上げて、多くの人が、その雰囲気を味わおうとする。天井が張られた状態では気付かなかった本来の美しさが、新たに加えられたトップライトにより、浮かび上がったといえよう。

 

B:構築物として優れていること

建築は自然環境の中で、人が暮らしていくためのシェルターである。シェルターは重力に逆らって地上に立ち上がり、また風や地震に耐える完結したシステムをもつ一つの構築物でもある。構築物をつくるためには、技術や技法、素材、構法、生産のシステム、それを支える職人のシステムなど様々な要素が絡んでいる。これらを一つの構築物としてまとめ上げるのは、設計者や施工者の力量である。素材の特性を生かし、地域の技術で丁寧に作られた作品は、地域のアイデンティティにも、影響を与え、地域の宝とも呼べる。反対に、インターナショナルな思想に基づき、プレファブリケーションされた工業製品をうまく活用して、普遍的な価値を獲得して居る場合もある。

作品としての形態はさまざまであるが、構築物として優れているものはその価値を尊重しながら、保存継承していかなければならない。

小幡楼2階座敷では、平行弦トラスを木造で組み、その上に迫もちトラスを載せるという、酒田地震にも耐えうる大変完成度の高い技術が用いられている。構築物としての傑作である。

 

C:思想や考え方がいきていること

小幡楼の洋館外観には、大正の名物女将の意志が込められている。設計者はわからないが、女将の意向を受け、古典的様式と新しいモダンな感覚の装飾を取り入れたデザインを試みたことは間違いない。その時代の建築思潮の申し子である。

神奈川県音楽堂や世田谷区民会館なども、近代建築運動のエポックであるCIAMの思想を展開した建物である。

建築を多くの人が関係する創作物としてみると、建築を一つのすぐれた作品にまとめ上げるには、何らかの思想や考え方が貫かれていることが多いように思う。もちろんそれは伝統や地域性であることもあるが、モダニズム以降は、ムーブメントとしての建築思潮であったり、一人の建築家の個人的思想である場合もあるだろう。そういうことも含めて、建築の価値は考えられなければならない。

私は、前川作品には遠く及ばないにせよ、鶴岡まちなかキネマの構築空間も多くの方々の手になる見事な作品だと認識している。ここに映画館を復活させたいという建て主の思い、困難な工事に丁寧に取り組んでくれた施工者や職人さんの技術力と職人魂の結実した佳作である。私たちも微力ながら絹をテーマとしたデザインで配置計画から、椅子、スピーカーボックスの細部に至るまでオリジナルにこだわってまとめ上げた。その集成がまちなかキネマの劇場空間やエントランスホールとして現前する。この作品としての価値を完全に無視するような改修は、私たちが取り組むべきリノベーションとは呼べない。

 

概ね以上のような整理となった。現時点ではひとまずこれを前提としよう。

 

(続く)

高谷時彦  建築・都市デザイン

Tokihiko  Takatani        architecture/urban design

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿