まち・ひと・くらし-けんちくの風景-

建築設計を通してまち・ひと・くらしを考えます。また目に映るまち・人・くらしの風景から建築のあるべき姿を考えています。

5.まちとの関係をつくる:みちに展開する風景

2024-05-06 00:06:03 | 地域風景の構想 design our place

日常体験する風景はみちからのものです。私たち設計者はみちに面した敷地に建物を建てます。その時、みちからのどのような風景を意識して建築を作っていけばよいのか、いつも考えることになります。順を追って考えていきたいと思います。

1.都市を構成する基本要素=みち 建築と社会の接点=みち

(1)みちにおける風景体験

 まちの風景は、多くの場合みちから体験されるものです。私たちは、みちに立ちそこからまちを見るのですが同時に、みち空間そのものを体験しています。みちにおける風景は、見えるもの、みち空間、そして私自身の体験が総合されたものになっています。

(2)みちは共用空間であること

 人はみちに面して家を建てます。みちを通りみちから自分の敷地や建物に入ります。それは他の人も同じです。みちはみんなで一緒に住むという環境を保証するものです。共同で住むための不可欠の共用空間といえます。

 言い換えると、みんなで住むということは、みちを共用してみちをみんなで使うということでもあります。同じまちに属しているという市民意識も、みちでお互いを見るという行為がもとになっていると思います。国立のように美しい並木道学園通りを共有するコミュニティの存在を見るとみちの役割が良く分かります。

 みち空間が楽しい出会い、交歓の場所であれば、共同に住むという意識もより強まることとなると思います。みちの中での共同体の行事であるお祭りでなどにより、市民意識はさらに確かなものになると思われます。

 まちに住んでいるという共通の感覚が生まれるとすると、みちという空間を共有しているということが大きく影響しています。こういった役割は、西欧都市ではまちの中心部の広場が担っていますが、日本においては、みち空間がその役割を果たしています。

 

(3)みちは集合の形式を導く基本要素

 都市やまちという広がりの中でみちを見る場合、みちはまちの骨格であり、「敷地」の在り方を規定しています。建築と建築の関係、集合の仕方にも大きく影響しているといえます。

 建築の敷地はみちに面して並びます。そこでみちに対してどういう関係をつくるのかは、その個人がそのコミュニティあるいは周辺とどういう関係をつくりたいのかということを示しています。先ほど例示した国立ではマンション問題がありましたが、並木道を共有するコミュニティの人たちは、共同の規範を守ろうとしましたが、コミュニティに参加したくない人は規範には無関係に高層マンションをつくってしまうということでしょう。

(国立学園通りのマンション:周辺の街並みとの隔絶は大きな論争と、訴訟を生んだ)

 

2.みちと建築の関係

(1)まちに建つ建築は沿道性を持つべき

 私は、まちに建つ建築は、みちとの関係性を十分に配慮した建築、言い換えると沿道性を意識した建築であるべきだと思います。沿道性を意識した建築とは何かというと、逆に沿道性を意識していない建築を考えると分かり易いと思います。

 第一に浮かぶのは、団地です。いわゆる公団住宅、かつての住宅公団(現在のUR機構)が大規模に作った集合住宅です。この形式の団地には、県や市でつくる公営住宅も含まれます。広い広がりの中に住宅棟が均等になるように置かれています。このような配置は、「太陽。緑、空気」の確保を第一に考えるモダニズム建築や、それに密接に結びついた近代都市計画の考え方に基づくものであることは、すでに述べました。

 ここには、前節までに述べたような、みちあるいはみち空間はありません。したがって、まちらしさもなかなか生まれることはありません。

(多摩ニュータウン内の「団地」:Google mapより引用)

 また、幹線道路の沿道にある店は車で入れるという意味や、またいろいろなお店が「道路に沿って並んでいる」という点では沿道性があると言えます。しかし、個々の建物が意識しているのは駐車場との関係であることが分かります。また道を意識しているのは看板であることが分かります。建築も看板としてはみちを意識していると言えます。

(幹線道路沿いの風景)

 極端な例をあげました。この状況の中で、みちに並ぶ建築の在り方を統一的に論じることは難しいでしょうし、私にその力はありません。ただ、私には、みちに対して一定の作法のようなものが共有できれば、もう少し、みちに沿った風景が、人間の暮らしの環境にふさわしいものになっていくという思いがあります。その作法は決して一つではないはずですが、そこに至る途を一緒に考えていきたいと思います。まずは歴史を振り返ってみます。

 

(2)建築がみちに対応して一定の型を持っていた時代とその後の変化

 戦前あるいは高度成長の始まる1960年頃までは、大都市を除けば、多くの建築の建て方は伝統的な方法に拠っていました。江戸時代から、特別の公共施設や芝居小屋などを除けば、一般的な建築は次の4つの種類が大半でした。それらは、みちとの関係やニワと建築の関係などにも一定の型を持ち、みちから見た場合にも安定した風景をつくっていたのだと思います。

 前節で述べたように、戦前あるいは高度成長の始まる1960年頃までは、大都市を除けば、多くの建築の建て方は伝統的な方法に概ね拠っていました。ところが高度成長以降その型は崩れています。

①町家

 お店と住居が一体となった建築です。短冊状の敷地割に対応した奥行方向に長い建築であり、立面がみちに接していること、みち(通り)の側から奥に至る、一定の空間形式を持つことが特徴です。まちとの接し方、庭(坪庭、前庭)の作り方、店と住居のゾーニングなどにおいて、完成された形式を持っています。また、店でない場合にも、仕舞屋として、まちに対する表情は変わりませんでした。

(町家の形式を持つお店:必ずしも伝統的なものでないが、私が良く利用していたお店)

 町家は敷地を目いっぱい使い、中庭(坪庭)を持つことから、ヨーロッパの市街地に多く見られるコートハウス型の建築であると言えます。町家が都市建築として優れた形式であることは、多くの論者の認めるところです。

 町家が建っていたのは、商業地なので、その後の都市計画でも商業系の用途地域が指定されます。その時、木造で密集していることは防災上の問題があるので、防火地域や準防火地域の指定がされます。また高度成長期以降、土地の高度利用(建物を大きく、高くする)が進められます。以上のことから、町家が並んでいた地域では、3階以上の不燃性の高い建物に建て替えられることが常でした。かつては上の写真のような町家が並んでいたはずですが、今は下の写真のようになっています(この2つの写真は近所です。いずれも私の東京の設計拠点のすぐそばの事例です。この後の事例写真も同様です)。

(現代の町家?:火事に強い素材を纏ったボックス形状の建築が並ぶ)

 この風景をどう評価するのかは、意見が分かれるところです。こういう昭和的な風景を積極的に評価しようという意見もわからなくはないですが、私は町家のような完成された型を持つ建築がなくなり、次の都市建築が生まれるまでの過渡期の建物のように見えます。現代的な町家の型を見つけていく必要がると考えます。

 

②屋敷

 町家が町人の住まいであるのに対し、屋敷は武家の住まいです。道に対しては塀や垣根が面しています。塀の中には庭があり、その中に建築が位置しています。みちに対しては塀で囲っていますが、建築は庭に対して大変開放的に作られています。屋敷は、支配階級である武士の仕事場でもあり、行政機関のオフィスでもありました。私の職場の近所にも下のような屋敷があります。

(屋敷:昔のような塀ではないが、屋敷構えを踏襲している)

 屋敷型の建築については、まちに対して閉鎖的であるため、都市建築としてふさわしくないという批判が、あります。建築学会の「都市建築」についての議論でも、屋敷型建築は、都市にふさわしい建築都市としては位置づけられていません。また、著名な都市計画家である石川栄耀がつくった啓発映画においても、戦後の新しいまちづくりにおいて、屋敷型の建築は閉鎖的でふさわしくないということを訴えています。

 確かに町家のように、みちとの関係性を積極的に作り出す建築形式でないことは明らかです。しかし、屋敷型建築が、集住を前提とした都市の中で生まれた建築形式であることは間違いありません。また、今日に至るまで、多くの住宅がこの形式を持っています。

 私は、屋敷も立派な都市建築だと思います。屋敷とコートハウスはネガとポジを反転させた関係にあることは多くの方が指摘しています。今も残るお屋敷街を歩くと、この形式が、都市の中で生まれ、今も豊かな風景を提供していることがよく理解できます。屋敷を都市建築としてきちんと位置付けることが必要だと思います。

(少し小さなお屋敷:塀と門構え、庭に開いた儒居を持っています)

下の写真はどうでしょうか。写真を見ると、明らかですが、この写真は塀で建物をかこっている屋敷タイプの建築です。薄く細長い庭もあります。残念ながら敷地が小さすぎるので、庭に面した開放的な住居とすることはできません。地価の高いまちでは、狭小敷地で矮小化された屋敷が増えてしまうのです。

(屋敷の形式を持つ住宅:塀と門があります)

 こういった屋敷の街並みはちょっと寂しいものを感じます。屋敷建築を成立させるためのより大きな敷地を確保できない限り、別のタイプの建築を選択するべきだと思います。

 また今まちの中に増えているマンションの中にも、屋敷タイプをとっているものがあります。集合住宅ですが、全体で一軒の屋敷の構えをめざしています。

(塀で囲われたマンション:1階住戸は塀・生垣で囲うことで開放性を確保しています)。

 十分な敷地があれば、屋敷型を目指すのはありだと思います。しかし、そうでない場合には、もう少し、まちとの直接的な接触のあり方をも即してもいいのではないでしょうか。

 武家の住まいを期限とする屋敷型は今でも強い人気がある住居タイプです。小さな敷地の住居も大きなマンションも屋敷型を目指すのは面白い傾向ですが、やはり十分な敷地がない場合には、中途半端な風景をつくり出していることは否めません。

長屋

 長屋は表通りから一歩入った路地に面して建つ集合住宅です。通りに面して建つ町家に住んでいる大家さんが、裏の地所に貸家をつくっているというケースが多いと思われます。建築的には平屋で、桁行方向に長く(棟が長い)、棟を共有しながら各住戸が区分されているので棟割り長屋とも呼ばれます。平入の住戸が連続している状態になります。下の写真も私の職場の近くの長屋です。

(長屋:緑であふれている。よそ者は入りにくい)

 一つ一つの長屋住戸は小さいため、洗濯場や作業場も共用となります。路地には各戸の植栽が並べられ、共同の庭のようです。路地に面した住戸が、路地という共有スペースを持ち、そこでつながった生活をしていると言えます。まちの表の風景には参加していませんが、通りから一歩入ったところに、路地という外部空間を共有するともに暮らすいわゆる下町的な風景が展開していたと思われます。

 長屋の現代的な姿は、いわゆる木賃(木造賃貸)アパートです。路地に面して棟割りの住戸が並びます。しかし、現代においては住戸が一定の広さを持っているので、長屋のように、生活感があふれ、また共同のスペースとして路地が機能することはありません。各戸のプライシー確保のために頑丈な鉄扉が並ぶ路地の風景は、都会的ではありますが、寂しいものになっています。

(鉄賃アパート:現代の長屋)

農家

 農家は農業を営む家族の住居なのでまちの中にはありません。広い敷地の中に母屋だけでなく、納屋や蔵、作業小屋などの付属屋があります。生け垣や防風林などで敷地を囲うこともありますが、みちに対して閉鎖的になることは少なく、みちから作業スペースでもあるにわに連続しているような形式が多かったと思われます。数戸から数十戸が群をなしていることが多いのですが、まちのように密集しているわけではないので、みちに沿ってきちんとした区画割が形成されているわけではありません。

 

(農家:母屋、付属屋、蔵そして作業場でもある庭で構成される) 

 

 数軒から数十軒の農家が集まって、農村型の安定した風景をつくっていたわけです。その風景は周辺の田畑や周辺の川、海などの自然的風景の中に調和的に収まっていたと言えます。

 農家がつくるのはこの論が主題としているまちの風景ではありません。しかし20世紀後半からの都市の拡張によって、既存の安定した府警が壊れていったということは、記憶にとどめておく必要があります。また、農家も集合的な風景を通り出していたことから、今後の風景づくりにおいても参考となる部分が多いことも事実です。

 

3.現代において参照すべき事例を通して考える

 以上のように、歴史的な建築の型と安定した風景があった時代はすでに失われています。さてそれをどうするかということです。

 ヨーロッパの都市のように、歴史的都市型建築である「街区型建築」に替えるというのは不可能でしょう。また、何か強力な規制をすべきだという意見もありますが、ではどういた規制が可能なのでしょうか。そういったことを考えるにあたってまずは、現代の日本の中で風景づくりに成功している事例を見ていきたいと思います。 

(1)参考にすべき事例

 歴史的なまち並を保存したり、歴史的なものに依拠しながら美しく地域の誇りになる環境を作っている事例は多いと思います。そこに学ぶことは不可欠です。ただ、ここでは、新しくまちを作ったり、新しく建築を行う中で、持続的な風景づくりを模索した事例を取り上げます。

幕張ベイタウン:みちに沿って建築壁面を並べまち並みをつくる

ゼロロットのペリメーター型集合住宅で沿道風景をつくる

 幕張ベイタウンは、街路に沿って街区型住棟を並べています。街区型住棟とは、街区とみちの境界部に壁面を持ち、その背後に中庭を持つ建築形式です。基本的には、ヨーロッパのまちを構成するのはこの街区型建築です。

 幕張のまちを歩くとまるでパリやバルセロナを歩いているように、建築に囲われて道はある、建築のないところがみちであり、みちは建築により作られるものであるということが実感できます。みちと建築は芦原先生が言うようにネガ/ポジの関係になっているのです。

 幕張をつくった人たちは、広い敷地に日照条件や緑地、アクセス路に配慮しながら複数の住棟を配置するというのが従来の団地の在り方を批判します。そこには、みちに沿った風景がなくしたがってみちににぎわいが表出することはありません。かつて同潤会が街区型住棟をつくったのですが、それらはことごとく高度成長期に壊されてしまいました。

町家の系譜を継ぐ都市建築

 みちに沿って建築が軒を連ねるということから、街区型建築は町家の系譜にあると言えます。木造の平屋あるいは2階建てのコートハウスである町家を、現代的に大きくしたのが幕張ベイタウンの街区型建築です。この建築形式は、今後とも、継承していくべきだと思います。幕張ベイタウンでつくられたデザインコードなどは大いに参考にすべきものです。

みちに沿って、建築を並べるだけではダメ

 幕張ベイタウンのように、みちに沿って整然と建築を並べるのが、みちに対するあり方の一つの解であると言えます。しかし当然ですが、ただ並んでいるだけでは、魅力的で深みのある風景ができるわけではありません。写真は、同じような建築がみちに接して並んでいますが、決して魅力的ではありません。ひおっつ一つの建築の質の問題なのです。町家という洗練され形式の建築や、幕張のように考え抜かれた建築が並ぶ必要があります。高さ規制や軒高の規制、ボリュームをそろえることの必要性が、まち並整備では推奨されますが、個々の建築の質を高めない限り、いくらボリュームがそろっていても決して魅力的なみち空間にはならないでしょう。

(みちに面して統一された景観:同じ形を並べただけではまち並にならないということが分かります)

 

宮脇さんの住宅地:新しい屋敷型の建築

塀のない屋敷

 明治以降あらゆる人が、お屋敷型の住宅を志向しました。しかしその結果は、矮小化されたお屋敷になってしまっていることを見てきました。宮脇さんがデザインコーディネートした住宅地では塀がありません。しかし、各戸は庭に開放された部分を持ち、自分のテリトリーははっきり区分できます。塀で周りから囲い込むことで、プライベートなにわをつくり、そこに面して開放的な住まい方をするのがお屋敷ですが、その機能は満足されています。そういう意味で、写真のような住宅地は現代的なお屋敷であるといってよいのではないでしょうか。

(フォレステージ高幡鹿島台:宮脇檀さんが手がけられた住宅地、1997)

みちと直接接していなくても沿道性のある風景

 みちと敷地の境界部には建築の壁も塀もありません。しかし、みち空間は確かにあります。それは建築と道の間にある前庭的なスペースが、実在感のある媒介空間、決して残余スペースでないものになっていることに拠るのではないでしょうか。建築と道がネガポジの関係にあるわけではありませんが、建築と通行スペースの間にある前庭ともよぶべき空間が、みちと建築の関係をきちんと媒介しているといえます。こういう風景の作り方には大いに学ぶ点があります。

 

代官山ヒルサイドテラス:空地と建築の関係をうまく作り出すそれがみち空間になる

パブリックスペースがつくるまちなみ

代官山ヒルサイドプラザは、「まち並み」が語られるときには必ず参照されます。建築家槇文彦氏の名作です。

旧山手通り沿いに展開するお店や住宅からなる複合建築群は、現代建築でも、人々が長く守り育てたくなる、まちの資産としての街並みをつくり得ることを示してくれます。ただ一つ忘れてはならないことは、ヒルサイドテラスは、決して建物の壁面を道路に沿って並べたタイプの集合形式をとっていないことです。たくさんの空地が織り込まれていることに注目すべきだと思います。

 

旧山手通りの側にも、また敷地の中央部部においても建物と外部空間の程よいバランスが、心地よい居場所あるいは移動空間をつくり出しています。

 

私は、代官山ヒルサイドテラスのつくり出すまち並みとは「パブリックスペースのつくるまち並み」だと理解するのが良いと考え『都市建築のかたち』(日本建築学会叢書 2007)に、書かせていただきました。

長屋や農家の系譜

ヒルサイドテラスは、伝統的な建築の型から見るとどの系譜に連なるのでしょうか。町家や屋敷とは遠いところにあります。あえて言うならば長屋に近いと思います。路地というみち空間を共有して集合するのが長屋です。ヒルサイトテラスの場合は、巧みに織り込まれたパブリックスペースを共有して、建築群が集まっているのです。また、一つの敷地に多くの建築があつまり、にわを介して相対しているという点では、農家とも似ています。ただ、無理やり日本の伝統的建築に範を求めるよりも、ギリシャの小さな集落の建築群が織りなすみちと建築の関係を想起したほうが良いのかもしれません。

(2)場合に応じてどうすればいいのかは整理できる

上の3つの事例だけで、これからの建築がつくる途に沿った風景のことを論じるのはあまりにも乱暴です。しかし、少なくとも次のことは言えそうです。

 幕張ベイタウンから学ぶことの一つは、建物が立ち並ぶようなまちの中心地では、建築の並び方をコントロールしていけば、幕張のようなみちに沿った確かな風景をつくることができるということです。ただ幕張の場合は、大規模な敷地と大規模な投資を、現代のすぐれた都市デザイナーたちが精魂込めてコントロールした結果であり、ただ、出来上がる建築の外形を決めれば、豊かな風景が出来上がるというものではありません。コントロールをしていくにせよ、私たちが日々の設計の中で取り組むにせよ、これまでの完成された型である町家を現代化した新しい町家をつくり出していく努力が必要となります。

 宮脇檀さんがつくり出したような集合形式からは、完全なお屋敷の形式は持たなくても、一戸建ての集合が、みち空間を共有しながら、安定した風景をつくり出すことは可能であることが教えられます。ただしここでも、そのコントロールには、卓越したデザイン力と継続的な努力の集約が必要となります。宮脇さんの努力を継承することが望まれているのです。

 町家に対して屋敷は都市型住宅として忌避されてきた歴史があります。戦後の都市計画の映画(石川栄耀:20年後の東京)ではお屋敷はまち並みにつまらなさを与えると喧伝される場面があります。塀で閉じた姿はお金持ち、ブルジョアジーの住まいの象徴でもあり、戦後の平等を求める社会の空気からしても、推奨されるものでなかったのでしょう。しかし、建築の形式、ニワの在り方をもつ屋敷はきちんとした都市建築であると思います。屋敷は一種のコートハウスです。中庭型建築の反転形です。塀をめぐらすことで自律的な環境を庭という形で確保している。都市にありながら開放的な建築が実現できる。まちとの接点の形式も門という形で持っている。門を設けながらまち並みも作る。個性の表現もできるのです。

 しかし、土地が高く広い敷地が確保できないという現代的条件の中では、屋敷は変わっていかなくてはなりません。宮脇檀氏の試みなどに学び、いろいろな試みが続けられることを願うしかありません。

 代官山ヒルサイドテラスについては、普通の建築設計者が真似できるようなレベルの建築作品ではありませんが、少なくとも公共的なスペースを道沿いや敷地内部に展開する素晴らしい環境を作り上げることが可能であることは理解できます。しかしここでも、優れた建築家の能力や、敷地を長年に亘って緩やかに開発していくというオーナーさんの存在という、奇跡のような条件が必要なのかもしれないということも思い知らされます。

 一方、景観計画や町並計画のようなものでルールを明確にして、建築やにわを含む敷地の在り方をコントロールするという考え方もあります。それらのルールには大いに期待するものですが、いかに景観法などのルールが整えられても、「建物の高さや壁面の位置、外壁の色調などの単純かつ概形的な要件のみにならざるを得ない」ので、「良好な景観の創出に到達する作業は、個別のデザインが受け持つほかはない」(『日本の街を美しくする』土田旭ほか2006)という基本構造は変わらないと思います。さらに土田旭先生が看破するように景観法などがいくら整えられても結局は「その都市・地域の総和としての文化水準が景観を決定する」(『日本の街を美しくする』土田旭ほか2006)という事実は否めないでしょう。

 私たちができることは地域や、上記の良好な事例になどに謙虚に学びつつ、それぞれに与えられた敷地の中で、みちとのありうべき関係性を模索していくことになるのだと思います。

 

4.沿道すき間型建築の試み

 次に、みちに沿った建築の在り方の一つとして、私は沿道すき間型建築というものを実践したいと考えています。どのような考え方に基づくものなのか、どのようにしてみちに沿った豊かな風景を獲得できていけるのか、少しづつ整理していきたいと思います。

(1)3つの視点

まちの中の隙間、敷地の中の隙間:文化的な視点

 先述した幕張ベイタウンは都市デザインの大きな成果であることは間違いありません。私の大学時代からの先生方がそれまでの「団地開発」に異議を唱え、大きな功績を残されました。私自身もその中のコミュニティ施設を設計させてもらっています。

 一方で、自分の感情レベルでの感想を述べますと、少しすき間がなさすぎるまちだというのが気になる点です。

 ヨーロッパのまちでは、ベイタウンのようにみちに沿って建築の壁面が続くのは当たり前の風景です。パリやバルセロナなどの大都市でもまたヴェローナような小都市ではそれは同じです。イタリアの集落を見ても建築を創ることはみち空間や広場空間をつくることというネガポジの関係が意識されているのは間違いないようです。建築の残りスペースはみちということになります。住む人から見て外部と認識されるみちや広場に対して、はっきりと自分の領域を囲い込むのが、まちの建築なのです。それは中国も同様で、大陸諸国では、当たり前の風景です。 日本でも例外は京都です。まち中のほとんに町家が並んでいた京都は、ある意味では中国の文化に倣って通られたまちです。

 そのような境界の作り方、あるいは領域の切れ目の作り方は文化的なものです。 芦原先生はそのことを建築家の視点から西洋と日本の領域感の違いとしてうまく説明してくれています。日本は、A/非Aのような、きちんとした境界の作り方ではないのです。大陸的ともいえる京都にしても、町家の壁面は組積造文化圏の石やレンガ積みの密実な面ではなく、細かったり薄かったりする木材の集合体です。確かに広い意味での壁面はみちに沿って連続するのですが、大陸で見られるようにまたく密実な面で、道の両側が固められていたのではありません。

 また文化人類学的に説明してくれるのが中尾佐助氏です。日本の場合はニグロ・ニッポン型、建物の周りに空地を置く文化です。それに対してヨーロッパや中国の大陸は、カスバ-ホートン型として記述されています。このことは幕張ベイタウンをつくるときにも十分意識されていたことをその中心におられた曽根幸一先生が記しておられます。

 重複になりますが、先ほどの風景づくりで参考にすべき事例を見ますと、宮脇さんの場合は、建築とみちとの関係を整理して自分の敷地内での空き空間でも、みちとの連続性をきちんと考えて作り出す(決して残余空間であってはならない)ていること、またその敷地内空き空間を建築の統合の手がかりとしていることが確認できます。また槇さんの場合は、みちから連続した敷地内パブリックスペースを集合の手がかりにしていることは先ほど述べた通りです。両者とも、敷地内あるいはみちと建築の間にある空地を積極的に集合の形式に取り入れていることが分かります。

 ベイタウンのようにみちに対して建築が並ぶ町家の系譜上で、様々な試みを進めることは重要だと思います。その一方で伝統的な建築形式から言うと、うまく空地を手掛かりに集合している長屋や農家の系譜も参考になるのではないかと思います。

空地からの発想:現状認識からの視点

  空地、すき間をうまく集合形式の中に取り入れたいというのは、日本的な酒豪の在り方につながるものです。一方で私たちの廻りにある現状認識からもすき間の存在を無視できないという認識がもたらされます。地方都市の歴史的中心部を歩くと、多くの空き地に気付きます。都市計画としては、まちのかなりの部分が空いている敷地、すなわちオープンスペースであるということを考慮に入れないといけなくなっています。

 こういった状況の中で、ランドスケープアーバニズムという考え方に、着目したいと思います。まちの中にあふれる空地を見ていると、主役は建築にあるのではなく、建築の問題は、この空地をどのように私たちの暮らしに意味あるものにしていくのかを考える一部に組み込まなければいけないという思いになります。私が、多様な意見の集成の様相を見せるランドスケープアーバニズムを正しく理解しているという自信はないのですが、建築にかえてランドスケープを主役として都市デザインを捉えていかないといけない時期に来ているのかなという思いはあります(『ランドスケープ・アーバニズム』C.ウォルドハイム編著2024 鹿島出版会)。

自然を取り入れた集合の在り方

 だいぶ以前のことですが、槇文彦氏が(大意として)次のようなのことのおっしゃっていたことがあります。

 ・・・ヨーロッパの都市は、みちと建築がネガとポジの関係にある(構築物である建築を除いたところがみち空間ということです)。アメリカの都市は、みち、ストリートというものに建築の形態、形状が大きく規定されている。すなわち、道路幅員や道路の性格付け(商業地なのか受託地なのかなど)によって規定される斜線が都市のスカイラインを決定している(このことは Power in buildings, Hugh Ferriss, Hennessey+Ingalls,1998などを見ると実感できます)。それに対し日本の都市では、建築とみち、あるいは建築と外部を考えるときに、自然というものの媒介がある・・・

 槙さんは、上の状況をある意味ではデザインの自由度が高い、自然という形態的にはあいまいなものをうまく操作することで、ヨーロッパにもアメリカにもない日本の文化を反映した建築の集合ができるとお考えになっていたのではないでしょうか。

 

(2)沿道すき間型建築

 前項の3つの視点からは、日本人の感性に合い、かつ空地をうまく取り込んだ建築で、沿道をつくっていくことが課題として浮かび上がります。私は、その解に近づく一歩が、沿道すき間型建築だと思っています。事例を見ていきたいと思います。

すきっぷ

「すきっぷ」は世田谷区立職能開発センターの愛称です。

 みちに対して、沿道性が感じられるように、建築の外形ラインを道側に持っていています。しかし、みちとの境界に置かれるのは硬くソリッドな壁ではありません。すき間だらけのいわゆるポーラスな形です。

 また、みちとの境界部に置かれるボリュームにはすき間があり、自然に中庭に視線が誘導されます。また動線としても中庭方向に進んだところに玄関があります。中庭はこの建築を成立させる環境空間、不可欠なすき間です。中庭に面して、各部屋は大きな開口部を持ち開放されています。

このような、みちとの関係性を持つ建物が都市建築の一つのあり方かなと自分では思っています。

(沿道すき間型建築としてのすきっぷ)

 

(表通りとの関係)

(廊下から中庭と表通りを望む)

(表通りから、中庭を望む)

幕張ベイタウン・コア

 みちに対して壁面が並ぶというのが、幕張ベイタウンのルールですが、このベイタウンコアの前には小さな前庭をとらせてもらっています。連続する壁面の中のささやかなすき間です。このすき間は、残余地ではありません。建物は建っていませんが、きちんとデザインされてつくられた街路とエントランスホールの間に位置するポジティブスペースとしての前庭です。

 

(幕張ベイタウン・コア:通りからの表情)

(配置図:周辺の街区型建築を踏襲しながらもすき間が多い)

(コンセプト図:緑という自然や前庭というオープンスペースも含めて、一つの街区型建築を作っている)

 この前は、透過性の高い空間であるエントランスホールを介して、中庭へつながっています。

 このベイタウンコアは、まち並の中にホッとするすき間を提供するとともにそのすき間・エントランスホール・中庭というパブリックスペースを中心に組み立てられた建築なのです。こういった建築を沿道すき間型建築と呼びたいと思っています。

(中庭でのイベント)

 ただ、幕張ベイタウンのルールは、みちに沿って建築の壁面を並べることでしたので、この街区のコントロールを担当されていた土田旭先生には感謝の言葉しかありません。設計案を見せた時には、学生時代に戻ったかのように怒られてしまいましたが、最終的にはやってみろということでお許しいただきました。

(中庭はエントランスホールを介して表通りにつながる)

 実は、この対面に建つ、住宅棟も、沿道すき間型建築です。これも、あとで聞いた話ですが、ベイタウンのルールを逸脱しているという議論があったそうです。私は、これくらいのすき間がある方を好みます。スティーブンホールという建築家の慧眼には敬意を表したくなります。

 

 

 

(建築と外部の自然はあいまいな境界を持つ)

(エントランスホールは表通りと繋がっている)

 

(夜景:表通り/エントランスホール/中庭は一連の繋がりである)

 

5.おわりに

 歩く人との関係性が確かな風景。まちを歩く人が眺めたり、立ち止まったり、してみたくなるようなみち空間。そういったみちに展開する豊かな風景をつくるために、建築はどうあればよいのか・・・すぐに解決はないものの、少なくともみち空間との関係性の中で建築を考えていく姿勢を持ち続けたい・・・そういう思いから出発するのが今回のLectureでした。

 最後に、大変古い資料からとなりますが、出雲市長岩国哲人さんのエッセイを引用させていただきます。

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 これから作られる市の中心部の道は、一本ずっおもむきをかえたいと、思う。道は昔のようにモノを運んだり・用事のある人が走るように点から点を移動するためのものではなくて・立ち並ぶ家にとっては共有の前庭であり、行き交う人にとっては、人と人が笑顔を交し、会話を楽しむふれあいの場である。

 そればかりではない。歩くという軽運動をするために街の中へ出かけてくる人がある。どの道にも一っずっ違った工夫をしたベンチで体をやすめ、背中を伸ばし、体をひねり、そしてまた歩きだす・・・・運動と会話を楽しむ人たちのための細長い歩く・・・公園がこれからの道になる。道を楽しむ「道楽都市」の時代だ。

 環境の時代に入ったといわれる今日、町づくりのキーワードは、煙突の数やコンクリートの高い建物を誇ることではなくて・・・

岩国哲人1992「田園と道楽」、『都市と交通No24』 社団法人 日本交通計画協会

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地域風景を構想するー建築で風景の深みをー

1.はじめに

2.暮らしの環境を風景から考える

3.ときの中で考えるー奥行きのある風景ー

事例研究:日和山小幡楼

4.場所の文脈を知るー土地に根差した風景ー

事例研究:鶴岡市立藤沢修平記念館

事例研究:庄内町ギャラリー温泉町湯

事例研究:風間家旧別邸無量光苑釈迦堂ティーハウス

5.まちとの関係を作るーみちに展開する風景ー

事例研究:幕張ベイタウン・コア

事例研究:世田谷区就労支援施設すきっぷ

事例研究:府中崖線 はけの道の再生

6.営みの表象を守るー風景としてのまち並みー

事例研究:羽黒修験の里 門前町手向

7.まちかどの物語を聞くー風景との対話ー

事例研究:旧小池薬局恵比寿屋本店 登録文化財

事例研究:イチローヂ商店

8.まちを川に開くー川と暮らしの風景ー

事例研究:連続講座内川学

事例研究:鶴岡商工会議所

.中心部にコモンズをつくるーもう一つの風景ー

事例研究:鶴岡まちなかキネマ

 

高谷時彦

建築・都市デザイン

Tokihiko TAKATANI

architecture/urban design

 

 

 

 

 


4.場所の文脈を知る:土地に根差した風景

2023-06-08 17:48:14 | 地域風景の構想 design our place

4.場所の文脈を知る:土地に根差した風景

1.地域らしい風景

 前章では、私たちの廻りにある建築を長く使い続けていくことや新しくつくる場合にも長く地域で愛されるものをつくっていくことの大切さを述べました。長くそこにあり、風土の中で人々の暮らしと関わっていくことが、建築が地域風景の一部となるには必要なことです。

 本章では、長くそこにあり大切にされる建築であるための一つの方法として、地域の文脈に十分配慮しながら、つくっていくということについて考えてみます。

 

土地の自然的条件や、場所の歴史、文化的な特性を考慮すること

幹線道路沿道のチェーン店やコンビニの風景は、日本中どこに行っても同様です。また郊外の住宅地にも、同じような新建材を張り巡らせ、前面に車が駐車する光景が広がっています。どこででも同じように見える常に「新品できれいな」風景には、深みや味わいが感じられません。

しかし注意深く目を凝らしてみると、地域にはそれぞれの歴史がありそれはその自然的条件と深く結びついています。またそれぞれの地域には、産物があり、それを生かしたいとなみや、その容れ物としての建築の連なる町並みがあったのです。そういった、自然風土の特徴や歴的な営みのもたらした痕跡などはどこかに刻み込まれており、そういったものに配慮することを、土地や場所の文脈(コンテクスト)を読むと表現します。私は、文脈を丁寧に読み取り、取り入れるにせよ、対比させるにせよ、きちんと文脈と向き合うことが、地域風景につながる建築に至る一つの方法だと思っています。

 

モダニズムは土地や場所からも自由

20世紀初頭に生まれた建築のモダニズムは、2つの自由を建築家に与えたと思います。一つは、定められた様式からの自由です。幾何学に基づき、建築家は自由に線を引く自由を得ました。さらにモダニズム建築は機械(自動車)と同じように土地の制約から自由であろうとしました。コルビュジェの提唱した「近代建築の5原則」の一つピロティは土地の持つ様々な条件や制約からの自由を象徴しています。土地から自由になり、ユニバーサルにとらえることで、陸屋根の白い箱の幾何学によるインターナショナルスタイルはCIAMの機能的都市イメージとともに世界を席巻することができたのでしょう。

 

新築も地域の一部を改修すること

モダニズムをの洗礼を受けた設計者は、土地の制約や様式の制約から逃れ、自由な造形を展開したい、また独自の造形的オリジナリティを織り込みたいという思いをいだきます。その思いは大切にしたいと思います。しかし同時に、新築ではあっても少し俯瞰してみれば地域環境の一部修復であるという意識も大切だと思います。

部分の修復と考えれば、部分を包摂する全体や、隣接する部分がどのような文脈を持っているのかが気になります。何もない更地、タブララサに線を引くうえでも、全体のことを十分に勉強しておく必要があります。隣との関係も大切にしないといけません。土地に刻まれた歴史や地域の様々な特徴を知り、レスペクトしたうえで、設計者の腕を振るうことが、建築としての豊かさを獲得することにつながると思います。そこには新たな個性や土地らしさ、ひいては地域風景が生まれる可能性も生まれるのではないでしょうか。

 

2.どうやって土地や場所の声を聴くのか

(1)土地には霊が宿っている

土地には霊が宿る

土地は地形の一部であり、自然とつながるものです。気候、風土が生み出したものとも言えます。その土地の上に積み重ねられた人々の営みが、その場所の風景を形作っています。自然あるいは大地の一部としての土地には、先人の思いや活動が刻まれており、私たちは父系を通して、その歴史や物語を読み取ることができます。

土地には霊が宿るという考えは古今東西の文化に共通です。私たちは建築をつくるときに地鎮祭を行います。土地の神様に挨拶するのです。設計者は地鎮祭の折に、神様に聞こえるように「声を上げて」神事を行います。また棟上げの時も大工は大きな声で天に向けて報告します。

迷信と片付けることも可能ですが、建築やまちづくりにおいて、土地の声に謙虚に耳を傾けることが、様々な意味が多重に満ちた、より深みのある風景づくりにつながるように思えます。

 

(2)まちの中はコンテクストがあふれている

場所の意味を希薄にする車での移動

車の移動を前提にすれば、土地の微妙な高低差や、土地に刻まれた歴史や物語は体験できません。車で移動しているときにその身体感覚でその土地とつながるのは難しいでしょう。ましてやカーナビで移動している場合はなおさらです。 道端の地蔵がどういう意味を持つのかを考える以前に、車の移動ではそういうものは見えません。

車により場所の差異がなくなってきています。本来人間はその場所との関係性の中で、自分を位置付けるものです。「ここはどこ?」というのは「私は誰?」ということとほぼ同じ問いかけです。しかし現実には場所の差異がどんどんなくなっているのです。

また車の生活では郊外に住んでも中心部に住んでも無関係なので、中心部の意味が薄くなっていきます。また中心部には中心部の佇まい、華やかさがあった郊外にはないものそういう違いがどんどんなくなっていっている。中心部ににぎわいが消えることも深刻な課題ですが同時に場所の意味や濃度感も失われているのです。

車で立ち寄り、店に入ってすぐにまた車に乗って移動することを前提に土地らしさ、地域らしさにこだわると、ともすれば観光施設的なキッチュに陥ります。土産ショップ的な建築となります。

 

歩いて土地のことを知る

土地あるいは地域の条件に向き合いためには、まず歩くことが必要です。一旦、町を歩き始めるとまちはタブララサではないことに気づきます。都市の歴史や、文化的なアイデンティティが刻印されている。

テレビでブラタモリという番組が人気を博しています。まちや地域の来歴や今ある姿の成り立ちを、タレントのタモリが解き明かしていくという筋立てですが、まさにブラっと歩くことで、今まで見えていなかったその土地の記憶を再発見していくことが面白いのです。歩きながら微妙な土地の高低差を感じたり、道がわずかに折れ曲がっていることを発見し、そこに土地の歴史を見るのです。人間の身体性を通して、過去の歴史や文化とつながっているのだと思います。

よく言われることですが、鶴岡や酒田において城下町、湊町の基本構造は変わっていません。もともとまちの構造は地形にも対応しています。また表層に見えるものや、物理的条件だけではなく、人々の信仰や言い伝え、作法、お祭りなどを彷彿させる手がかりが土地に根付いていることもあります。私たちが見ている風景のなかには人々の営みと時間の刻印が押されています。

 場所にこだわった建築をつくるということは、歩いて暮らすまちをつくるということにもつながっているように思います。

 

読み取り方を深める必要性

歩く中で気づくコンテクストもありますが、まちや都市の空間をどのように読み解くのかということについては多くの建築家や研究者の言及も役に立ちます。

建築家槇文彦は、『見えがくれする都市』所収の「都市を見る」という論文においてアメリカの都市学者ケビン、リンチが『都市のイメージ』において提唱し、世界中の建築・都市関係者が用いる都市の読み取り方では、アメリカの都市は読み取れるにしても、日本の都市空間を読み解くことは難しいことを指摘します。そのうえで槇文彦は「奥の思想」において「奥」という空間概念で、日本の都市空間をより文化的に深く読み取ることができることを明らかにしています。同じ本の中で、若月幸敏は、日本の都市がわずかな微地形との対応でまちをつくってきたこと、そして大野秀敏はまちの表層に着目することで日本的な空間の仕切り方や領域構造が読み取れることを指摘しています。また私は「道の構図」と題するエッセイを通して、歴史的な道のパターンの中に、日本的な領域感や空間意識が深く投影されていることを指摘しています。

このような様々な見方により、私たちが暮らすまちの空間の意味がより明確になってくるということだと思います。

同様な研究は、伊藤ていじほかの『日本の都市空間』を嚆矢として、芦原義信の『まち並の美学』、陣内秀信氏の『東京の空間人類学』、文化人類学者エドワードホールの『かくれた次元』など多岐にわたるものです。また『東京の原風景』(奥野健男)や『都市空間の中の文学』(前田愛)など文学者の視点からの読み解きも深く、まちを読み取りたいという時には大変有効だろうと思います。

 

(3)建築をつくることは土地と一体になった新たな環境、風景をつくること

土地のコンテクストを丁寧に読んで建築をつくるのが基本です。ただ、別の見方をすると、建築がつくられることでその建築と土地が合わさって新たなコンテクストが生まれるとも考えられます。

フランクロイドライトは「建築は土地の上に建つのではなく、土地そのものになるべきだ」といっていたそうです。初期のプレーリーハウスを見ても建築が、その土地と一体的な存在感を獲得していることを感じます。アメリカの大草原という地域性がプレーリーハウスを生み出しているともいえます。ライトが活躍した20世紀初頭は、白い箱型のインターナショナルスタイルが時代をリードし始めようとしていた時期です。そのときにあって、彼はまさに土地の条件に向き合い地域の特性にふさわしい、その場所らしい建築を作り上げたのです。彼が生涯に作り上げた300を超える住宅作品のほとんどが現存しているというところにも関係しているのではないでしょうか。

庄内にある土門拳美術館(谷口吉生)も、土地になりきるあるいは土地に根差した風景を新たに作り出しているように思える建物です。鉄とガラスとコンクリ―トを幾何学的な造形で組み立てるといういわゆるモダニズムの建築の方法でも、土地と一体の素晴らしい風景をつくり出すことができることを示しています。

この建築を見ると、建築をつくることは場所の特性に従うだけでなく、場所の可能性、潜在的な魅力を顕在化させることでもあることに気づかされます。

同様な思いをいだくのが、瀬戸内民俗資料館(香川県、山本忠治設計)です。この建物が、海を見渡す丘であるというその土地の特性を浮かび上がらせました。また建築内部を上り下りしながら、歴史的展示品と周辺の自然を同時に体験することで、その土地とともに私たちの暮らしがあったのだという歴史についても考えさせられます。建築は私たちに、土地のコンテクストを教えてくれるものでもあるといえるのではないでしょうか。

 

地域風景を構想するー建築で風景の深みをー

1.はじめに

2.暮らしの環境を風景から考える

3.ときの中で考えるー奥行きのある風景ー

   事例研究:日和山小幡楼

4.場所の文脈を知るー土地に根差した風景ー

   事例研究:鶴岡市立藤沢修平記念館

   事例研究:庄内町ギャラリー温泉町湯

   事例研究:風間家旧別邸無量光苑釈迦堂ティーハウス

5.まちとの関係を作るーみちに展開する風景ー

   事例研究:幕張ベイタウン・コア

   事例研究:世田谷区就労支援施設すきっぷ

   事例研究:府中崖線 はけの道の再生

6.営みの表象を守るー風景としてのまち並みー

   事例研究:羽黒修験の里 門前町手向

7.まちかどの物語を聞くー風景との対話ー

   事例研究:旧小池薬局恵比寿屋本店 登録文化財

   事例研究:イチローヂ商店

8.まちを川に開くー川と暮らしの風景ー

   事例研究:連続講座内川学

   事例研究:鶴岡商工会議所

9.中心部にコモンズをつくるーもう一つの風景ー 

   事例研究:鶴岡まちなかキネマ

 

 

 

高谷時彦

建築・都市デザイン

Tokihiko TAKATANI

architecture/urban design


4の事例研究その2 庄内町ギャラリー温泉町湯:地域の建築型に学ぶ

2023-05-22 17:44:39 | 地域風景の構想 design our place

設計計画高谷時彦事務所 Profile  記事一覧へ Lec2へ

庄内町ギャラリー温泉町湯の説明をします。

・町湯の全景です。

町湯は人口約2万、山形県庄内町の町立温浴施設です。

RC造平屋、床面積は850㎡ですから、公立の温浴施設としては小粒のものです。周辺にある公立の温泉施設は広い敷地をもち田園の中にあります。ここは異なる条件を持っています。

 

第一に

①面積は2140㎡。狭い

②敷地間口、23m奥行きが92mといういわゆるウナギの寝床形状です。

③庄内町の中心部のまちの中にあり隣はショッピングセンターと民家です。ショッピングセンターの駐車場を供させてもらっていますので、入り口は南側にあります。

・町湯の内部です。他の温浴施設とは少し違う雰囲気です。

周辺の広々として景色の良い温泉施設は広い広間や休憩のための和室を何室も持っています。この敷地で同じようにやろうとすると、大変貧相なものになってしまいます。

そこで私たちが選んだのが町家(まちや)というキーワードです。

家屋が密集したいわゆるうなぎの寝床の形状をした細長い敷地をうまく生かす町家の空間構成に学ぶこと。そのことで不利な敷地条件を逆にメリットに変えることができ、近隣の他の施設とは全く違うタイプの都市型のまちなか温泉、町湯ができることを提案しました。

 

 

・これがまちやと町湯の平面構成の比較です。

こちらが町家、こちらが町湯です。町家の第一の特徴は玄関から奥まで、細長い敷地を貫くように「通りにわ」と呼ばれる連続的な共用空間があることです。各部屋はこの「通りにわ」に面しており、「通りにわ」は廊下でもあり、細長いホールでもあります。

通り土間に相当するものが土縁ギャラリーと呼んでいるゾーンです。土縁ギャラリーに沿って店や浴室が並びます。

   

・また町家には、細長い敷地の中央部にたてものに囲まれた「坪庭」があります。狭い敷地の中で光を取り入れ風の抜け道となり緑のある憩いの場となっています。町湯の露天風呂のある中庭は「坪庭」からヒントを得たものです。

また、部屋の中でも脱衣室やサウナ、便所などサービス空間は通りにわに平行に細長く並べています。

・断面図で見てみます。

基本は通りにわである土縁ギャラリーと各部屋に分かれますが、中央にサービス空間があります。お湯などのエネルギーや電気の幹線などはこの細長いゾーンの床下や天井を通っています。細長い建物を3つの細長いゾーンで構成していることになります。

以上が全体構成です。次に各部屋を紹介します。

・土縁ギャラリーです。

通りにわのイメージを継承する土縁ギャラリーは湯上りのくつろぎスペースです。この部分までは無料で入ることができます。伝統的な町家において「通りにわ」は土間でした。土縁ギャラリーをすべて土間にすることはできませんでしたが、一部を土縁(つちえん)としています。

・土縁は雪国の住居で、外(そと)と内(うち)の中間領域にある土の縁側のことです。

光を取り入れるスペースでもあります。

・土縁ギャラリーにはもう一つ大きな特徴があります。それは壁面に沿って30mの長さを持つ、ギャラリーボックスです。ギャラリーボックスはアート作品や本の展示など多様な使い方を想定しています。

 

土縁ギャラリーの東壁は白い壁を背景(地)に木のギャラリーボックスが浮かび上がる(図)という構成ですが、ギャラリーボックスの中には白い箱が今度は図となって浮かび上がります。今度はギャラリーボックス全体が地となるわけです。家具も町湯オリジナルでつくりましたが、ギャラリーボックスとテイストを合わせています。

 

・また土縁ギャラリーの全体は木の印象が卓越した空間です。この時正面にある座敷の白い壁が木の空間の中にある白い箱として目に入ります。このように白い壁と木という少ない要素でもその組み合わせで、多様な読み取りができ、デザイン的にも豊饒な世界を生み出すことができるように思います。

・土縁「ギャラリー」と名付けられているように、他の温泉施設にはないアートに触れられる場となることを願っています。もちろん堅苦しくなる必要はありません。ある人が「お湯で体をリラックスさせた後、ギャラリーアートで心をリラックスさせるということですね」と言ってくれましたが、まさにその通りだと思います。

・この空間は落ち着いてリラックスできる雰囲気となることを目指しました。床は楢フローリング。この下には空気層があり冬には暖かい空気が流れます。天井や土縁側のルーバー(格子)は杉です。絨毯(ラグ)は麻とウールを織り込んだ山形産のものです。

 

・浴室の入り口です。暖簾は地元のグラフィックデザイナーのデザインです。

 

 

・浴室・露天風呂・サウナを説明します。

第一の特徴は、町家の坪庭を継承した中庭(露天風呂)に浴室も脱衣室も面しており、露天風呂のある中庭に脱衣室と浴室が大きく開かれ明るく開放的な雰囲気を持っていることです。

・町湯の浴槽はそれほど大きいものではありませんが、浴室の中央部に置かれています。近年浴槽は眺めの良い窓際に置くというのが定番になっています。しかし町湯では浴槽を中央部に置きました。それは古い温泉にみられるように、湯けむりの向こうに人が見える、浴槽を人が囲むという風景をもう一度つくることが狙いです。

・ちなみに泉質は、弱アルカリ性の単純泉です。27度で毎分100ℓ程度自噴しています。このうち70~80ℓを利用し、源泉かけ流し方式を実現しました。ちなみに排水をそのまま捨てるのはもったいないので、玄関周りの融雪に利用しています。

 

・浴室と露天風呂に共通ですが、肌に触れることが多い部分には檜、少し離れて眺める部分にはヒバを用いています。天井はコンクリートに杉の板目を転写したコンクリート打ち放し仕上げです。タイルと白い天井からできた「清潔でプールのような」浴室とは違う雰囲気をめざしました。

・男女の浴室にはフィンランド式の本格的なロウリュサウナを設けています。

 

・町湯には畳の座敷もあります。25畳の広さがあり、3つに仕切って使うこともできます。

 

 

・この座敷は土縁ギャラリーという大空間に入れ子状に挿入されています。天井仕上げ、建具の高さなどは土縁ギャラリーに倣っているので、ギャラリーの雰囲気と和の雰囲気の融合した雰囲気となっていたとすれば、狙いが成功しています。

 

・町家でいうと「みせ」に相当する部分に食堂があります。

室内空間ですが、南に大きく開くことにより、オープンテラスのような明るい食堂となるようにしました。

・次に外観を説明します。 

町湯は地域の伝統的な建築から多くを学んでいますが外観は現代的(モダン)な手法に拠って作っています。西面、南面では高さはできるだけ低く抑え、水平の軒ラインを強調しています。

・大きな軒の下に座敷や事務室、エントランスホール、食堂をそれぞれに特徴的な仕上げを施したうえで、挿入しています。

(杉の羽目板、縦の杉ルーバー、杉板本実型枠打ち放し仕上げ、コの字型に縁どられたガラスカーテンウォール)

 

・全体を統合する庇と、その下に展開する小さな自律的なボリュームとの対比的な調和を狙っています。

 

 

・北側から見ると西から東へ<3つの層>があることが、よくわかると思います。屋根の形や壁の仕上げで素直にその違いを表現しました。

・狭くて細長い敷地という不利な条件を逆手にとって特徴ある温泉をつくりたいというところから出発しました。また通りにわから発想した土縁ギャラリーを若い人にも来てもらえる多目的なスペースとしたいというのが私たちの願いでした。

・名称は一般公募でしたが、うれしいことにギャラリー温泉町湯という建築的な特徴が反映されたものとなりました。

・「今日は内湯でなく町湯にしよう」「町湯で“あさかつ”しよう」ということでいろいろな世代の方々に使ってもらえる、新しいタイプの温浴施設となることを願っています。


4の 事例研究その1 藤沢周平記念館:風土の記憶を纏う

2023-05-19 16:52:23 | 地域風景の構想 design our place

 

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4の事例研究その1 藤沢周平記念館:風土の記憶を纏う

スライド1

藤沢周平記念館は市民の熱い思いを受け、小説家藤沢周平氏を顕彰する文学記念館として建設されました。

藤沢周平氏は皆さんもごぞんじだとおもいます。最近では必死剣鳥刺しが豊川悦士主演で映画化されていますがこの原作も藤沢周平氏です。・・・・・

 

スライド2

記念館の敷地は彼が愛してやまなかったふるさと鶴岡のまさに中心部、城跡の本丸に決められました。荘内神社、大正の擬洋風建築、大宝館などに囲まれています。

 

スライド3

施設は、RC、S造の混構造の2階建て、床面積930㎡ほどの小振りなものです。これが1階平面図。2方向を参道、南を文化財である大正建築、東を土塁に囲まれています。1階は展示室を中心に周りを事務室などが囲むというシンプルな構成です。2階は収蔵庫が中心となります。

スライド4

私たちは4つのテーマを持って設計しました。1つめは外部環境との調和ということです。参道などに対して圧迫感を与えないために、中央部が高く、周辺が低い凸状の立面を持っています。これは北側の参道から見ています。

スライド5

シルエットで見ると分りやすいと思います。

スライド6

これは北西の角から見ています。松を避けるように、屋根を斜めに切り取っています。

スライド7

これは西側の脇参道から見ています。外壁には地元の杉材を用いています。

スライド8

参道側で松を避けた凹み部分は小さな庭になっています。このように外に対して、あまりあからさまに主張するのではなく、いわば静かな存在感を獲得しようということは、目立つことが大嫌いであった藤沢氏の意志にもかなうものだと思います。

 

スライド9

次に内部空間を説明します。藤沢周平氏は晩年まで故郷庄内鶴岡の風景や厳しい雪国の風土を愛しつづけました。私は庄内鶴岡の風土をかたちづくる空間の原理や伝統的な工法をぜひ現代的に生かしたいと考えました。そこで次の2つのテーマがでてきます。1つは城下町のつくられ方に学ぶというものです。鶴岡のまち割はまち自体の論理というよりも、周辺にある山の存在に対応して、その山にゆだねるように街路の方向性が決められています。

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この原理を取入れました。内部空間の骨となる廊下やエントランスホールなどは周辺にある歴史的文化的な存在感を獲得しているものに対応して決められています。

スライド11

もう一つのテーマは鞘堂形式を取入れるということです。この地域では大切なものを入れる蔵を杉材のサヤで覆っています。

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白い漆喰で仕上られた蔵は、黒っぽい杉のサヤで風雪から護られています。

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記念館では、藤沢氏の大切な遺品を展示収納する白い蔵をこのようなサヤで覆いました。この方式により年中変わらない温度、湿度の環境が実現できます。

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2つの原理を適用したということを踏まえて内部空間を説明します。エントランスへのアプローチです。外壁を後退させた小さな庭を見ながらアプローチします。

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エントランスホールから見返しています。内部空間の骨となっている廊下は土塁を向いています。

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エントランスホールは、荘内神社を臨むように位置しています。

スライド17

背骨ともいえる廊下ギャラリーです。正面に大正建築大宝館が見えます。

 

 

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左の壁が蔵の外壁にあたります。漆喰で仕上げています。右側の壁と天井は鞘にあたるもので主に杉材で仕上げています。両者を垂木形状の杉のリブがつないでいます。

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エントランス方向を見返します。右手のどっしりとした蔵を囲む鞘はできるだけ軽やかに表現したいと考えました。

 

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光は上方から入ってきます。

 

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最後のテーマは一番重要かも知れません。建物内外で藤沢周平氏と出会う場を自然なかたちで設けるというものです。藤沢周平氏の文学世界と出会うのが展示室です。展示ケースや展示は、トータルメディアさんという展示の専門家によるものです。展示は色々と変わることがありますが、まさに蔵のようにどっしりとした箱をつくりました。吹き出しのグリルはクリ材です。

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天井は杉材による根太天井のようにしました。無柱空間とするため、梁はアンボンドPC鋼による現場打ちプレストレストコンクリートです。

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サロンです。ここで出会うのは少年の日の藤沢周平氏です。

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小学校の頃、この場所にあった小さな図書館の天井まで並ぶ本棚を見たときの興奮を彼はエッセーに記しています。

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まさにこの場所で少年藤沢周平は本に親しむことを覚えたのです。

スライド26・27

土塁を臨む開口からは、普通に暮らす生活人藤沢周平氏を偲ぶことができます。床に敷かれているのは東京の大泉学園にあった屋根の瓦です。右側に見える黒竹の一部は庭にあったものです。

 

スライド28

会議室からは藤沢周平氏の小説に多く登場する桜が見えます。ここに、藤沢周平氏が手を入れていた庭をそっくり東京から移設しました。

 

 

スライド29

また、時代小説家藤沢周平氏を感じてもらうよう連子格子を彷彿させるデザイン表現も随所に試みました。

スライド30

最初に説明した外壁を後退させた庭も、生活人としての藤沢周平氏と出会う場です。カクレミノ、南天はエッセーにも登場します。床には藤沢家の塀につかわれていた大谷石を敷きました。

スライド31

右手がエントランスアプローチですから、記念館を訪れる人は藤沢周平氏が手をかけた「カクレミノ」を見ながら記念館に入っていくというわけです。森の中に静かにたたずむ小さな施設ですが、現在、月に1万人の方々が訪れています。

 

以上で説明を終わります。


3の事例研究 日和山小幡楼 湊町の心象風景

2023-05-11 18:52:20 | 地域風景の構想 design our place

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3.ときの中で考えるー奥行きのある風景―

1.時間の中で成熟する風景

2.使い続けることの困難さについて 

3.まちづくりにおける意義

4.何を残し何を変えるのか、建築の価値とは

5.事例研究その1 まちの歴史を語りかける建築:鶴岡まちなかキネマ

6.事例研究その2 湊町の心象風景:日和山小幡楼




1.概要と経緯

湊町酒田の老舗料亭小幡楼、丘の上のランドマーク 

日和山小幡楼は湊町酒田のシンボル日和山の頂上にある老舗料亭です。酒田は西に向かって日本海にそそぐ最上川の北側(右岸)に沿って町割りをされた湊町です。最上川の河口を南に臨む位置に日和山があり、酒田の町割りの起点の一つともなっています。







 その丘の頂に位置する小幡楼は、1876(明治9)年といわれる創業以来、多くの著名人が逗留しただけでなく、市民の宴会場としても親しまれていました。和館の2階には欄干付きの縁がめぐらされており、最上川河口(酒田湊)を見下ろすことができます。眺望の良さから、瞰海楼とも呼ばれ、市街地に近い東から洋館、和館、土蔵が立ち並ぶ姿は湊町酒田のランドマークとなってきました。

しかし時代の波で、1998(平成10)年に閉店。廃墟となっていました。その後アカデミー賞を受賞した映画「おくりびと」のロケ地として一時的に脚光を浴びましたが、時を置かず閉鎖され、酒田市に寄贈されました。

私たちは、市や出店事業者とともに、日和山公園とともに市民の心象風景ともいえるこの建築のリノベーションに取り組み、2021年秋、ベーカリーカフェや市民利用スペースからなる交流観光施設として生まれ変わりました。湊町酒田らしい風景を再び生きたものにすることが私たちの願いでした。



調査開始と活用案の提示

 映画ロケや映画セットの展示で一部は使われましたが、ほとんどの部分は閉店後長く放置されており、腐朽の程度は著しいものでした。天井は落下し、床は何か所も抜けていました。また全体が倒壊する危険性が大きいので、酒田市では、安全性確保のための保全工事を内、外で施していました。離れもありましたが、危険なため撤去されています。

このため2015年頃には、取り壊しを前提に敷地の再整備が検討されていました。市民との意見交換のワークショップも行われていました。市内に残るほかの料亭建築のように贅を凝らしたところがなく、税金を投入して保存するほどの価値はないというのが大方の見方でした。しかし一方では映画「おくりびと」で多くの人に注目されたこの建物を道路に面する部分だけでも保存してほしいという声がありました。

2015年、たまたま機会を得た私たちは、歴史文化的あるいは建築的価値を見極めるための調査を行うことを市に提言しました。市は調査を行うことを決断し、私たちは「歴史文化的・建築的に大変価値の高い建築物であるだけでなく、一定の投資の下で十分市民に望ましい利用ができ、日和山活性化の拠点となり得る」との調査結果を提示しました。市民説明会で了解を得たのちに、引き続いて設計作業に入り、飲食店と市民利用スペースの複合した交流観光施設としての日和山小幡楼の詳細な姿を第一次設計案として描きました。









 


市と事業者の官民協働事業

酒田市は、第一次設計案をもとに飲食店の経営や市民利用スペースの管理をしてくれる事業者を募集しました。幸い3棟と庭を含めた敷地全体を一つの事業者が運営する仕組みができたので、市、事業者と相談をしながら、設計案を修正して最終設計にまとめていきました。

工事はコロナの流行と重なりましたが、2021年秋には湊町酒田のシンボルである日和山のランドマーク、小幡楼が再生され、活用がスタートしました。

 以下、調査時点にさかのぼりながら、このプロジェクトの全容を説明します。



2.現況調査

<洋館>

三層構成の大正建築

 洋館の場所には和館がたっていましたが、次項で述べるように大正11年に改築されています。1階がコンクリート造(無筋)、2階と3階が木造で改築されています。以前は小幡楼の前が市街地側からくるとかなりの急勾配で峠を越えるようになっていましたが、その前面の道路を開削して拡幅する工事があり、それに伴って建て替えられたのだと考えられます。道路が開削されたことに伴い、1階部分は道路から直接入れますが、その背後は土(砂)の中に埋まっています。そのためコンクリート造にしたのですが、当時はまだ珍しい構造でした。今回の調査で、コア抜きのサンプリング調査を行いましたが、無筋であることが分かりました。構造的には大きな問題を抱えています。



外見は洋館、中は和洋の混在

 1,2階は一体で利用されていた洋の設えですが、外観に反して3階は和室です。映画のセットで改変はされていましたが、床の間のある和室が基本となっています。このように外観は洋で中は和、あるいは外観が和で中の一部が洋というのは隣の鶴岡市にある3階だけ建築でも見ることができます。見た目あるいは見せたいものと生活スタイルは必ずしも一致していなかったということです。


本格的なフレンチレストラン

 お店であったとかダンスホールがあったとか言われていましたが、詳細は分かりませんでした。岩浪氏(酒田市教育委員会、岩浪さんには数多くの文献資料や写真資料を提供していただくだけでなく、様々なアドバイスもいただきました)により、大正11年の新聞が発見されました。当時の日本フレンチの最先端であった東京の精養軒(築地、上野)出身の2人のコックさんによる、本格的なフレンチレストランです。現在の酒田フレンチの始まりは1970年代といわれていますが、その前にも本格的なフレンチのレストランがあったということになります。



ランドマークとなることを意識して作られた洋館

竣工時に近い古写真と、現状から往時を推測することが可能です。外観は縦長の上げ下げ窓を持つ立面であり基本的には洋館と呼べますが、和風の瓦屋根が少し軒を出しており、和洋が折衷した形式でもあります。1919(大正8)年につくられ、「大正時代の建物では、酒田に残る唯一の木造洋風建築」(酒田市養育委員会)として文化財となっている白崎医院とも共通性がありますが、白崎医院が日本建築と同様に屋根を庇状に大きくもち出しているのに対し、小幡楼はほとんど出していないことから、より洋風に近いという印象です。また白崎医院が下見板張りで壁全体を一様に表現しているのに対し、一層目がコンクリートで、基壇を構成しており、シンプルではあるものの基壇、中間部、トップという様式主義建築の三層構成を意識しています。レリーフ状に柱を表現したりする古典建築の要素はなく、全体としてはすっきりとしたファサードをつくるモダンなデザインであるといえます。窓下に用いられる菱形の幾何学模様が、当時日本でも流行していたセセッション建築との類似性を感じさせます。

色彩については、古写真が白黒で、また現況としては外壁廻りが完全に改変されていたので直接は分かりませんでしたが、同時期に増築された和館の下屋(中2階)に、なぜか洋館の開口部と同一と思われる窓が残っていました。ここから、塗装の色を推測することができました。緑に近い鮮やかな色で窓回りを塗装していたと推測しています。大正時代の洋館に多く見られる色彩です。

三階建てであり、白い壁に緑色の窓回りという外観はかなり市民の関心を引いたと想像されます。この建物を建てた、小幡直は、まちのランドマークになることを計算していたように思います。

小幡直は、精養軒からコックさんを呼んだほどフレンチレストランに力を入れこみました。精養軒の建物には、チェコ人建築家のヤン・レツルが関わっています。広島の原爆ドームを設計したセセッションの名手です。小幡直が精養軒の建物を見て、自分も酒田に洋風の建物をつくろうと考えたのではないか、そんな想像を勝手にしています。




 <和館>

L字型の平面、小上りや2階座敷

和館の2階に上がるとはっきりわかりますが、和館はみちに対して平行に桁がかかる北棟と、道に直交する南棟がL型に組み合わさっていることが分かります。

 北棟の中央部の玄関を入ると映画おくりびと後にできたフィルムコミッションの事務室があります。板の間でここに2階への階段もあります。玄関を入って左手には料亭らしく小上りの小座敷が2室並んでいます。

玄関から道路に直交しておくに向かうと和室が並んでいます。常連のお客さんはここにも招かれたようです。

その奥には広い厨房があります。この奥からも2階に上がれるようになっています。

 一般のお客さんはおそらく2階を利用していたはずです。広い座敷が北と南にわかれ、L型につながっています。それぞれに床の間がついています。座敷からは欄干越しに港の景色を見下ろすことができますが、今はかなり多くの部分が日和山の麓にできた高層マンションの陰になってしまいました。



 酒田地震以前の貴重な建物

これまで小幡楼は1894(明治27)年の酒田地震で一度焼失し再建されたと考えられていました。しかし、岩浪氏がそれを覆す資料を見つけられました。地震の直後に調査した「酒田震災実査図」です。これによると小幡楼が残っているという表記になっています。

古写真もありました。「家坂徳翠軒」という明治8年頃にできた写真屋さんがあります。この写真に小幡楼が映っています。写真の下の方に船場町がみえます。この家並みから古いことが分かるそうです。したがって小幡楼も明治の初期、中期以前からあっただろうということが推測でます。

南棟の2階からは明治12年の棟札が出てきました。明治13年の七言古詩という古い詩の絵画も南棟の床の間の天袋の戸襖の裏にかかれていました。

明治の後半になって日清、日露戦争を経て日本が自国の伝統を見直すようになります。そのころから贅を凝らした造作に満ちた、のちに近代和風建築と呼ばれる建築群が出てきています。この建物はその前の時期の建物だということです。貴重なものです。



町家を原型にした料亭建築

調査で作成した和館1階の平面図です。玄関から通り土間が奥につながることが分かります。そして玄関から通り土間に沿ってみせ、中の間、茶の間が並びます。この一見複雑な料亭建築は、酒田町家を原型としていると思えます。

左図は小幡楼の平面図です。右側は村田家、酒田に昔あった町家です。町の中心部にありました。

村田家の平面図を左右反転して小幡楼1階と比べてみます。酷似していることに驚きます。酒田町家の特徴である鍵の手の土間。続いて、みせ、仏間。庄内独特の仏様と神様が上下にまつられる部屋です。奥に囲炉裏があります。中の間と呼ばれます。いわゆる2列町家で、町家の典型的な形式です。この建物が料亭建築ではなくて町家を基に増築してきたことが良く分かります。



町家の上に2階を増築

1815(文化12)年に地元の名家小幡家が家作をなしたとの記録があります。料亭は1876(明治9)年創業と伝えられています。

 また現地調査からは、2階床組が、平屋の梁構造の上に重ねられていることから、平屋を残したままで2階が増築されたと推定ができます。前節に述べたように2階の棟から棟札が見つかっているので、2階の増築は明治12年だとわかります。町家形式の平屋部分を明治初期に料亭として使い始めたため、2階に座敷を増築したとすれば、矛盾なく説明できます。

 1898(明治31)年の図面を岩浪氏が発見しました。酒田町長に向けて建物の広さと間取りについての届出です。新築時に出すものではなく、税金などに関係しての現況調査です。辺の長さ(間数:けんすう)が書いてあるので正しい平面を復元できます。図中のブルーのラインが外形です。現状の下屋部分はその後の増築であり、本屋の部分は明治12年にはできていたと推測できます。



増築の仕方

増築の様子を断面図で確認します。

南棟では平屋時代の梁組をそのまま利用して、その上に2階床組みを二重に構成しています。北棟は平屋の梁組はそのまま使えなかったので、2回床組みを新たに組んでいます。酒田町家は村田家もそうですが、通り側に対して棟の高さを下げるという特徴があります。家を大きく見えないようにしたのか、理由はわかりませんが、それはほとんどの家でそうしているのです(玉井哲雄1987『東日本町家建築の系統的把握のための基礎的調査研究』)。これが2階の床の組み方が道路に近い北棟と奥に位置する南棟で違うことに関係している理由ではないでしょうか。



 中2階・下屋

中二階もありました。一般的には料亭だから中二階があると考えます。実際中二階に客席がある料亭は多く、酒田でも相馬楼や香梅咲さんの中二階は非常にいい部屋であることが思い出されます。

しかし小幡楼の場合は、様子が違います。町家でも階高の高い大型のものには中2階に納戸を持ったものがあります。そういったタイプの中二階ではないかなと私は思っています。その町家の中二階に、料亭としての機能拡充のための水周り(便所やふろ場)をつけ加えるために下屋を増築していったのだろうと推測します。


和製マジョリカタイル

中二階の水回りには和製マジョリカタイルが使われていました。マジョリカタイルは19から20世紀の前半にヨーロッパや東南アジアのお金持ちの家で流行ったタイルです。日本はイギリス製のマジョリカタイル(ヴィクトリアンタイル)を模倣して、輸出していました。その輸出品の一部が日本の豪邸でも使われていました。和製マジョリカタイルの詳細は、関西から、研究者である深井先生をお呼びして調べていただきました。タイルは佐治タイル製とメーカーまで判明しました。

洋館の水回りにも同じ和製マジョリカタイルが使われていることから、下屋部分は洋館と同時期に増築されたと推測できます。



 2階の珍しい小屋組み

南棟は伝統的な和小屋であるのに対し、北棟はトラス組の洋小屋です。棟がL字型に折れ曲がる部分で継いであります。

棟札のあった明治12年におそらく、2階の全体を増築(町家である1階に重ねた)したのだと思います。明治期の写真でも南棟と北棟の両方が映っています。

 その後何かの出来事があって北棟を直したと思います。明治12年以降に小屋組を見直すような出来事、何があったのか・・・おそらく1894(明治27)年の酒田地震だろうと思います。酒田地震があって、火災などの被災により北棟部分が大規模な改修を行ったのではないかと考えています。

酒田地震では市内の多くの建物が倒壊し、また大火事によって市内の広いエリアが消失しています。小幡楼も「二十七年の震災以来形勢なく・・・欄干空しく夕陽に鎖す・・・」(『庄内案内記』1905)という記述から、震災により被害を受けて一時期廃業していたことが分かります。ただ完全に倒壊したり、全焼していたりしていたのではないこともわかります。その後明治31(1898)年には営業していたことが分かっています。

この廃業していた間に北棟(少なくとも2階)に手を入れ、小屋組みを洋小屋にしたと考えると、話が合います。すべて状況証拠だけで確たるものはまだ見つかってはいませんが、そういう推測をしています。

  ちなみに、この北棟のトラスを支える梁の構成には大きな特徴があります。小屋を支える桁や中間の梁も平行弦トラスを組んでいるのです。小屋組みを支持する梁に平行弦トラスを用いるのは珍しかったようです。港座という古い映画館が酒田にあります。今の映画館は昭和中期に建て替えられていますが、その前にあった古い港座の建築がこれと全く同じ構造をしています。

酒田地震後、建築学会の人たちが地震被害の調査に来て、「酒田のほとんどの建物は倒壊したけれど、倒れてない建築もある」ということを東京の学会に報告しています。その時のスケッチがあります。大工の名前は「サイトウ某」と書いていますが、これはおそらく聞き間違いで酒田の名工「佐藤泰太郎」のことだろうと思います。報告書は今も学会図書館で見ることができます。

これは私の推測ですが、おそらく地震の後、港座のように堅牢性が確認できた構造形式で、この小幡楼の北棟を修復したのではないでしょうか。



3.再生の方針

フレンチの洋館、伝統の和館、明治の土蔵。それぞれの個性を極め、並置させる再生

フレンチレストラン、伝統的な料亭、土蔵という異色の組み合わせが、料亭小幡楼独自の魅力です。大正時代に、伝統的な和のスタイルの料亭の横に、3階建て洋館のフレンチレストランができた時には、周囲はあっと驚いたはずです。おそらくそれが、女将小幡直の狙いでもあったはずです。高さも様式も違う個性ある3つの建物が対比的なバランスで並ぶ湊町酒田らしい風景として積極的に評価したいと思います。

 改修前の状態は、全体が風化していることで、廃墟的な調和的状態にあったので、そのさびれた佇まいを残すべきとの声もありました。しかし、「洋館、和館、土蔵のそれぞれが輝いていた時代とすがた」を再現することこそが、日和山地域の再生拠点としてもっともふさわしい方法だと考えました。

私たちは調査に基づき、洋館は大正の創建期、和館は2階が増築され瞰海楼となった明治中期、土蔵は明治の創建時を基本イメージとして、それぞれを「らしい」姿に再生することで、小幡楼全体の魅力をつくり出すことを心がけました。一つの様式や時代で統一された調和があるのではありませんが、個性ある3つの建物が並んだ姿が、小幡楼の独特の魅力だと言えます。進取の気風に富む湊町酒田にまさにふさわしい建築のありようではないでしょうか。



飲食を楽しむ場所としての再生

小幡楼は1950年制定の建築基準法以前の建物です。またその後も様々な規定が追加されてきています。したがって現行法には合致していない既存不適格建築になります。現時点で確認申請を出して増改築を行うと、1950以降に定められた様々な規定に適合するように直すことになり、現実的には回収が不可能となります。したがって、確認申請が必要となる用途変更は避け、料亭に類する用途である飲食店舗として活用することを大前提としました。また、建築基準法を所管する県にも相談し、増築は行わず、大規模な改修や模様替えにもならないような改修方法としました。

設計を進める中で、市や事業者の意向により、洋館は甘味喫茶、和館はベーカリーカフェ、土蔵は倉庫利用という方向性がきまり、それ以外の市民に自由に使ってもらう部分も飲食も可能な場所として位置付けられました。結果的に飲食の場であった老舗料亭がモダンな形で飲食を楽しむ場所に生まれ変わったということになります。



それぞれの空間特性と履歴に合った耐震補強、補強をデザインの一部とする

 洋館、和館ともに歴史調査、現地調査を重ね、その特性と価値を生かしながら、新しい機能に対応できる空間づくりを目指しました。耐震補強も空間の特性・価値に対応して発想しています。洋館には耐震用RCボックスの挿入、和館ではRC・S柱列で骨格となるスペースを取り囲むという大規模補強を行いましたが、その姿を洋館、和館ともにそのままデザインにいかしているのが特徴です。





 土蔵は最低限の補修

土蔵も耐震補強を含む大幅に手を入れないといけない状態でしたが、予算上の都合から、外壁などで壁の保護をしている下見板が腐食しているようなところの補修等にとどめ、居室としては使用せず、物置としての活用にとどめることとしました。


 4.再生のデザイン

<全体>

3棟の個性が競い合う外観




<洋館>

コンクリートボックスの挿入、3層から2層へ


 洋館の1階は無筋のコンクリート造です。しかも土(日和山は海岸砂丘なので正確には砂ですが)に埋まっている東と南の2面からの土圧を受けています。このため1階には、耐震補強のために、四角い鉄筋コンクリートの6面体を2階の床を抜いた形で挿入しました。床がないので水平剛性は壁に沿って大梁を鉢巻き状に回して確保しました。そのうえで、2階の床(1階の天井)を抜き、1階と2階で2層分の吹き抜け空間をつくりました。

 1階では耐震補強の壁をそのまま見せました。このがっちりとした壁(RC)の上部に、漆喰のしっとりとした壁と天井のつくる明るい箱(木造)が乗っているという対比をつくりました。歴史の積み重ねをこの2層構成に投影したものです。



和製マジョリカタイルの再生

 洋館や和館の水回りで使われていた和製マジョリカタイルの一部を使って、洋館1階甘味喫茶のブラケット照明をデザインしました。大正時代や昭和初期に流行したセセッションやアールデコの意匠をイメージしたものをつくりました。



和洋折衷の展望プレイス

 小幡楼の外観は和洋折衷です。また洋館単体においても外観はすべて洋であるのに、3階内部は和室という折衷が見られます。さらに洋館3階において部屋は和室であるのに、小屋組みは洋のトラスです。和洋の折衷が幾重にも重なる面白さがあります。

その雰囲気を大切にするため、中心市街地が眼前に広がる3階展望プレイスは、和洋折衷の不思議な雰囲気の場所として作りました。


階段室はメモリアルホールへ

 階段室はほかの部屋のように大きな改装がされておらず、比較的創建時の雰囲気が残っていました。そこで、床のリノリウムなども再現してメモリアルホールとして位置付けました。壁の展示をさらに充実して、この建物の歴史をきちんと伝える部屋にしたいと考えています。



 <和館>

下屋と中2階を撤去して、町家と2階からなる明治の料亭を浮かび上がらせる

町家の中二階(納戸)及び料亭の水回りとして増築した中2階には和製マジョリカタイルが使われていることからもわかるように水回りを大切にした料亭文化の一側面が残されていることは間違いありませんでした。しかし、工事費の面と、日本建築において下屋は本屋(ほんおく)に対するサービス空間であり、本屋をきちんと継承することが大切だということから、下屋や中2階は撤去しました。

この撤去により、町家に2階大広間が増築され、瞰海楼にふさわしい姿となった明治中期の姿となりました。1階においては原型としての町家をはっきりと表現することができました。明治31年の図面と対照できる状態になりました。


 複雑な料亭建築から骨格となる町家空間を抽出して再構成する

 事業者の詳細な業態が決まる前の第一次設計として、和館1階を下記の3ゾーンで再構成しました。

  1. 客席・厨房ゾーン: 2列居室型町家の座敷空間
  2. 通り土間 :モダンで開放的なS造コロネード
  3. みせ土間 :鍵土間を膨らませた新しいみせ空間


 客席・厨房ゾーンは、町家の居室が並んでいるゾーンです。床が張られ基本的には2間おきに間仕切りがあります。この記憶を伝えるために、間仕切りを示す差鴨居を残し、床をフローリングとしました。

 通り土間は、町家における土間の廊下です。この通り土間を鉄骨構造として作り、客席・厨房ゾーンを取り囲むように配置し、地震時の水平力を受けるようにしました。通り土間に耐震要素を集約したので、ほかのゾーンや2階の広間には耐震壁などは全くありません。また耐震要素をそのまま見せるという方針に従い、S柱の並びを見せ、天井もルーバー天井とすることで、明るくモダンな雰囲気として、客席・厨房ゾーンと対比させました。町家的な客席・ゾーンを明るく開放的な通り土間が取り囲んでいる構成となります。

 みせ土間は、酒田町家の鍵土間とみせ(板敷)を一体化して大きな土間空間としたものです。小幡楼ではエントランス空間であり展示空間と位置付けています。この空間も客席・厨房ゾーンと同様に表し天井ですが、現況調査で述べたように、床組みの方式が異なることから、みせ土間のほうが豪壮な農家的雰囲気を感じさせる土間となりました。床は両者とも大判の石風タイルを四半敷きにしています。

 この基本的な3つの空間から成り立つ第一次案は事業者の様々に変化する要望にも十分対応できるものでした。町家空間の持つ、包容力がこのプロジェクトを最後まで進めてくれたと考えています。






瞰海楼の再現

 2階の広間は廻り縁と欄干が取り囲み、そこからの眺望の良さが小幡楼の特徴でした。外壁廻りは大きく改変されていましたが、基本的には、明治時代の雰囲気に近づけることを目指しました。






 

5.おわりに:風景の中に蓄積されていく歴史

 日和山を含む地域を何とか再生したいという市と事業者の熱い思いが功を奏し、2021年のオープン後、多くのお客さんや市民が小幡楼を訪れています。隣接する日和山公園から、小幡楼に向けて歩く人の流れができています。

 風景の中には、その場所の歴史が蓄積されています。瞰海楼としての長い歴史に、新しい時間が蓄積され、風景に奥行きができていくことを願っています。