四三 七月ばかり、いみじく暑ければ (56)その2 2018.5.8
人のけはひのあれば、衣の中より見るに、うちゑみて、長押に押しかかりてゐぬれば、恥ぢなどする人にはあらねど、うちとくべき心ばへにもあらぬに、ねたうも見えぬるかなと思ふ。「こよなき名残の御あさいかな」とて、簾の内になからばかり入りたれば、「露より先なる人のもどかしさ」といらふ。
◆◆人の気配がするので、女は、かぶっている着物の中から見ると、男がにこにこして、下長押に寄りかかって座り込んでしまっているので、遠慮すべき相手ではないけれど、といって打ち解けてしたしくしてもいいという気持でもないのに、いまいましくも寝姿を見られてしまったことよ、と思う。「格別な、お名残りの御朝寝ですね」と言って、御簾の中に身体半分ほど入って来るので、「置く露より先に起きて帰った人のとがめたさに」とあしらって答える。◆◆
をかしき事取り立てて書くべきにあらねど、かく言ひかはすけしきどもにくからず。枕がみなる扇を、わが持ちたるして、およびてかき寄するが、あまり近く寄り来るにやと、心ときめきせられて、引きぞくだらるる。取りて見などして、「うとくおぼしたること」など、うちかすめうらみなどするに、明かうなりて、人の声々し日もさし出でぬべし。
◆◆こうした風流事は、特に取り立てて書くべき程のことはないけれど、こんなふうに言葉のやりとりをしている男女の様子は悪いものではない。女の枕もとにある扇を、自分の持っている扇で、及び腰になって引き寄せる男が、度がすぎて近くまで寄って来るのかと、自然胸がどきっとして、女は思わず身を奥の方に引っ込めるようになる。男は扇を手に取って眺めたりして、「よそよそしく思っておいでのことよ」などと、軽く思わせぶりに恨み言を言ったりなどするうちに、明るくなって、人々の声がして、きっと日も差し出てしまうだろう。◆◆
「霧の絶え間見えぬほどにといそぎつる文もたゆみぬる」とこそうしろめたけれ。出でぬる人も、いつのほどにかと見えて、萩の露ながらあるにつけてあれど、えさし出でず。香のいみじうしめたる匂ひ、いとをかし。あまりはしたなきほどになれば、立ち出でて、わが来つる所もかくやと、思ひやらるるもをかしかりぬべし。
◆◆「朝霧の晴れ間が見えないうちにと急いでいた後朝の文もつい遅くなってしまったことよ」と男は気がかりである。さきにこの女のもとから立ち出て帰ってしまった男も、いつの間にか書いたとみえて、萩の露がおいたままの枝につけて手紙を使いの者が持って来ているのだけれど、差し出すことができないでいる。手紙にたいそう香り高くたきしめてある香の匂いが、とても風情がある。あまり明るくて具合の悪い時刻になるので、男は女のもとから立ち出て、自分がさっき出て来てしまった女の所もこんなふうであろうかと、自然想像されるのも、男にとってはきっとおもしろいことであろう。◆◆
人のけはひのあれば、衣の中より見るに、うちゑみて、長押に押しかかりてゐぬれば、恥ぢなどする人にはあらねど、うちとくべき心ばへにもあらぬに、ねたうも見えぬるかなと思ふ。「こよなき名残の御あさいかな」とて、簾の内になからばかり入りたれば、「露より先なる人のもどかしさ」といらふ。
◆◆人の気配がするので、女は、かぶっている着物の中から見ると、男がにこにこして、下長押に寄りかかって座り込んでしまっているので、遠慮すべき相手ではないけれど、といって打ち解けてしたしくしてもいいという気持でもないのに、いまいましくも寝姿を見られてしまったことよ、と思う。「格別な、お名残りの御朝寝ですね」と言って、御簾の中に身体半分ほど入って来るので、「置く露より先に起きて帰った人のとがめたさに」とあしらって答える。◆◆
をかしき事取り立てて書くべきにあらねど、かく言ひかはすけしきどもにくからず。枕がみなる扇を、わが持ちたるして、およびてかき寄するが、あまり近く寄り来るにやと、心ときめきせられて、引きぞくだらるる。取りて見などして、「うとくおぼしたること」など、うちかすめうらみなどするに、明かうなりて、人の声々し日もさし出でぬべし。
◆◆こうした風流事は、特に取り立てて書くべき程のことはないけれど、こんなふうに言葉のやりとりをしている男女の様子は悪いものではない。女の枕もとにある扇を、自分の持っている扇で、及び腰になって引き寄せる男が、度がすぎて近くまで寄って来るのかと、自然胸がどきっとして、女は思わず身を奥の方に引っ込めるようになる。男は扇を手に取って眺めたりして、「よそよそしく思っておいでのことよ」などと、軽く思わせぶりに恨み言を言ったりなどするうちに、明るくなって、人々の声がして、きっと日も差し出てしまうだろう。◆◆
「霧の絶え間見えぬほどにといそぎつる文もたゆみぬる」とこそうしろめたけれ。出でぬる人も、いつのほどにかと見えて、萩の露ながらあるにつけてあれど、えさし出でず。香のいみじうしめたる匂ひ、いとをかし。あまりはしたなきほどになれば、立ち出でて、わが来つる所もかくやと、思ひやらるるもをかしかりぬべし。
◆◆「朝霧の晴れ間が見えないうちにと急いでいた後朝の文もつい遅くなってしまったことよ」と男は気がかりである。さきにこの女のもとから立ち出て帰ってしまった男も、いつの間にか書いたとみえて、萩の露がおいたままの枝につけて手紙を使いの者が持って来ているのだけれど、差し出すことができないでいる。手紙にたいそう香り高くたきしめてある香の匂いが、とても風情がある。あまり明るくて具合の悪い時刻になるので、男は女のもとから立ち出て、自分がさっき出て来てしまった女の所もこんなふうであろうかと、自然想像されるのも、男にとってはきっとおもしろいことであろう。◆◆