枕草子を読んできて 読む前に (4)(5) 2017.12.19
「作品の背景について」その2 (4)
作者が定子のもとに出仕してから一年半ほどたった長徳元年(995)四月十日、定子の父の関白道隆は病没した。この後継者の座をだれが占めるかということが、中宮の運命を決するのであった。大まかに言えば、道隆の息子と、道隆の弟との間でこの座は争われ、息子たちの側が敗退するに及んで、定子の悲運は決定的なものとなったのである。
定子の兄伊周は内大臣であったが、帝の生母東三条院詮子の力によって、兼家の次男道兼が伊周を押しのけて関白となった。ところがわずか十日ほどのちの五月八日に、疫病のために道兼も病没し、この折にも伊周は敗れて、五月十一日に道長に内覧の宣旨が下ったのである。
以後、道長の伊周らに対する攻撃ははげしいものとなり、長徳二年(996)花山院に対して従者が矢を射かけ奉った、という罪状をもって、伊周は太宰の権の帥に、その弟のう隆家は出雲の権の守として宮中から追われることとなる。
中宮定子も宮中から、里邸である二条の宮に移られた。このころ清少納言は、道長方の人であるということで中宮の女房たちから敵視され、しばらく里に籠っていたらしい。
更に六月八日には里邸二条の宮が焼失し、中宮は二条の高階明順の邸に移られるなどの不幸があった。
十月には定子の母貴子が心痛の中に世を去ってしまう、といった悲しみにたえて、中宮は十二月に第一皇女脩子を出産された。
「作品の背景について」その3 (5)
長徳三年(997)大赦によって伊周、隆家は罪を赦されて入京したが、すでに昔日の面影はなくなっていた。しかし中宮も宮中に帰り、職の御曹司にはいられ、清少納言もお供をした。一条天皇のもとには数人の女御が次々入内するのであるが、てんのうとしては中宮定子を最も寵愛しておられたようである。
長保元年(999)十一月七日、中宮は大進生昌(だいじんなりまさ)の家で第一皇子敦康親王を出産された。これより先十一月一日に入内した道長のむすめ彰子は、この敦康親王生誕の同日に女御となった。
長保二年(1000)二月には、定子は皇后に、彰子は中宮となって、彰子の力はついに定子の存在をおびやかすものとなる。同年十二月十五日、皇后となった定子は第二皇女を御産になったが、翌十六日、二十四歳(または二十五歳)の短い生涯を閉じた。
以上のように、ほぼ八年ほどの作者の宮仕えの中で、光輝にあふれた後宮であった時期はわずか一、二年にすぎない。この明暗の時期を宮仕え前期、宮仕え後期と呼び分けることもあるが、確かにこの面から作品を細かく読み分けることは必要な手続きであろう。ただし描かれた記事の年時と、それを回想して執筆した年時とは当然へだたりがあることが多く、また、ほとんどこうした年時の手がかりのない段が大部分でもある。したがってわれわれとしては、なぜこうした暗さが見られないのかという疑問にまたも立ち帰らざるを得ないのである。
「作品の背景について」その2 (4)
作者が定子のもとに出仕してから一年半ほどたった長徳元年(995)四月十日、定子の父の関白道隆は病没した。この後継者の座をだれが占めるかということが、中宮の運命を決するのであった。大まかに言えば、道隆の息子と、道隆の弟との間でこの座は争われ、息子たちの側が敗退するに及んで、定子の悲運は決定的なものとなったのである。
定子の兄伊周は内大臣であったが、帝の生母東三条院詮子の力によって、兼家の次男道兼が伊周を押しのけて関白となった。ところがわずか十日ほどのちの五月八日に、疫病のために道兼も病没し、この折にも伊周は敗れて、五月十一日に道長に内覧の宣旨が下ったのである。
以後、道長の伊周らに対する攻撃ははげしいものとなり、長徳二年(996)花山院に対して従者が矢を射かけ奉った、という罪状をもって、伊周は太宰の権の帥に、その弟のう隆家は出雲の権の守として宮中から追われることとなる。
中宮定子も宮中から、里邸である二条の宮に移られた。このころ清少納言は、道長方の人であるということで中宮の女房たちから敵視され、しばらく里に籠っていたらしい。
更に六月八日には里邸二条の宮が焼失し、中宮は二条の高階明順の邸に移られるなどの不幸があった。
十月には定子の母貴子が心痛の中に世を去ってしまう、といった悲しみにたえて、中宮は十二月に第一皇女脩子を出産された。
「作品の背景について」その3 (5)
長徳三年(997)大赦によって伊周、隆家は罪を赦されて入京したが、すでに昔日の面影はなくなっていた。しかし中宮も宮中に帰り、職の御曹司にはいられ、清少納言もお供をした。一条天皇のもとには数人の女御が次々入内するのであるが、てんのうとしては中宮定子を最も寵愛しておられたようである。
長保元年(999)十一月七日、中宮は大進生昌(だいじんなりまさ)の家で第一皇子敦康親王を出産された。これより先十一月一日に入内した道長のむすめ彰子は、この敦康親王生誕の同日に女御となった。
長保二年(1000)二月には、定子は皇后に、彰子は中宮となって、彰子の力はついに定子の存在をおびやかすものとなる。同年十二月十五日、皇后となった定子は第二皇女を御産になったが、翌十六日、二十四歳(または二十五歳)の短い生涯を閉じた。
以上のように、ほぼ八年ほどの作者の宮仕えの中で、光輝にあふれた後宮であった時期はわずか一、二年にすぎない。この明暗の時期を宮仕え前期、宮仕え後期と呼び分けることもあるが、確かにこの面から作品を細かく読み分けることは必要な手続きであろう。ただし描かれた記事の年時と、それを回想して執筆した年時とは当然へだたりがあることが多く、また、ほとんどこうした年時の手がかりのない段が大部分でもある。したがってわれわれとしては、なぜこうした暗さが見られないのかという疑問にまたも立ち帰らざるを得ないのである。