『海峡』
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昭和20年、日本占領下の朝鮮。釜山生まれの朋子(長谷川京子)は両親を亡くし、居候することになった叔母夫婦(津川雅彦・銀胡蝶)のもとで終戦を迎える。そこで元憲兵の木戸俊二(眞島秀和)に再会、ひとりぼっちの彼女をまもりたいと奔走するものの実は朝鮮人だという彼の求婚に逡巡するが、引き揚げ先の故国日本は戦後の混乱の真っ最中。ついには日本まで探しに追いかけて来た彼の熱意に絆され結婚を決意、半島に戻るのだが・・・。
実話を元にジェームス三木がドラマ化、2007年放送。
戦前に日本が台湾や中国東北部や朝鮮半島などアジア〜太平洋諸国を占領し、日本から入植者が移住するのと入れ替わりに大勢のアジア人が(強制であれなんであれ事情はそれぞれとして)日本に渡って来たことはたいていの日本人なら常識として知っている。
だが戦争が終わって日本人が外地から引き揚げて来た後、内地に住んでいた旧植民地の人々がどうなったのか、現在日本に住んでいるその末裔の祖先はなぜ、故国に戻らなかった/戻れなかったのか、知る人は多くはないのではないだろうか。
もしその場で侵略戦争がきれいさっぱり御破算になって全員故郷に帰っていたとしたら、いま、私はここに存在していないが、現実にはそうはいかないのが歴史である。その答えの一部が、この物語の重要な軸としてかなりわかりやすく整理して描かれている。そういう意味で、近代日本の歴史に疑問をもつ者にとってこれは必見の作品ともいえるのではないだろうか。
主人公の朋子は日本占領中の釜山で生まれ育ち、内地の生活もしきたりもわからないうえ、朝鮮のそれもよくしらないし、朝鮮語を話すこともできない。
相手となる俊二は生粋の朝鮮人だが日本占領中に生まれ、日本名を名乗り日本の軍国教育を受けて軍人となり、日韓両国の言語を流暢に操る。
ふたりがふたりとも、侵略戦争のもとにのみ生まれる存在である。
それが旧宗主国の資産家令嬢と、その親族企業の従業員でなにくれと彼らの世話をするエリート現地青年という立場でめぐりあうのだから、お互いにこれほどドラマチックなシチュエーションもなかなかない。
しかしこうしたふたりのあらかじめ引き裂かれたアイデンティティがどんなに残酷なものか、荒れ狂う時代背景の中でとにかく微に入り細を穿って繰り返し彼らをいためつける。
たとえば朋子は敗戦と同時に身ぐるみ剥がれて引き揚げを強要されるが、内地に親戚はいても顔も見たこともない、右も左もわからない天涯孤独の身である。かといってひとり半島に残ることも許されない。
俊二は朋子を妻として娶り幸せにしたい、まもりたいと願うが、日本軍の憲兵だった彼への風当たりの強さを知る家族はそれがどれほど非現実的かを熟知している。日本に密入国しても、滞在資格のない彼には満足な職もない。
つまり彼らにはどこにも居場所はないのだ。
ただいっしょにいたい、そばにいたいと願うだけのふたりが、身寄りがない、日本の敗戦によって国籍を分かたれたという事実の元に、何度もなんども引き離される。そのたびごとにふたりは互いの絆を手繰り寄せようと必死にもがく。まるでそのためだけに生きているかのように。
ミニマムな恋愛物語だが登場するエピソードのひとつひとつが濃厚で、侵略が人の心と社会にいったいなにをもたらすのか、そのディテールが繊細に描写されている。差別する者自らが意識することのない差別感情や、制度の壁の不条理は、当事者にはどうすることもできない。どうすることもできなくても、人は生きていかなくてはならないし、運命を諦めるわけにもいかない。
朋子にとっては、木彫りのかささぎのブローチをポケットの中で握りしめていることが、たった半年間ままごとのような新婚生活をともにした俊二との再会を諦めないことにつながっていたのだろう。俊二は朋子といっしょにいたくて玄界灘を越えるごとに毎回官憲に囚われ犯罪者扱いされながらも、決して愛する人との人生を諦めようとしない。
出演者それぞれの熱演に圧倒的な説得力があるのも脚本・演出力のわざかもしれないけど、わけても俊二役の眞島秀和はすべてを凌駕する演技力だった。物語の前半では、朋子が窮地に立たされるたびにどこからともなく現れて助けてくれる、あたかも白馬の騎士のような上品さが爽やか。爽やかでありつつも朋子に繰り返す「あなたを一生まもります」「どこにいてもあなたを愛している」なんて情熱的なセリフもバッチリ決まる。一方で、日本統治下で天皇を敬うようしつけられ皇軍として戦った朝鮮人が、最低限の矜持として心の底に隠し持っている侵略者への反発心や、不法行為ギリギリの手段まで使ってでも状況を打破しようとする狡猾さまでしっかり体現している。老境に入って余命幾ばくもなくなって再会した時の老けの演技も凄かった。知らない人が見たら本気で病気のおじいさんだよ。それにしてもこのキャラクターはむちゃくちゃ不憫です。終盤、再会して朋子に経緯を告白したときのセリフは涙なしには聞けなかったよ。
それでも、主人公ふたりがどれほど不運でもこの物語が美しいのは、それほどまでに熱く求めあうだけの愛にめぐりあえたその幸せが、彼らの苦難にまみれた一生をどれだけあたたかく明るく照らしてくれたか計り知れないからだ。
彼らはつらいとき、かなしいときいつも「生きていさえすればいつかあの人に会える、生きて会えるだけでいい」と己を鼓舞して生きたのではないだろうか。そういう存在がいることそのものが、得難い幸せなのではないだろうか。
NHKアーカイブス
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脚本家自身のノベライズ本。
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実話を元にジェームス三木がドラマ化、2007年放送。
戦前に日本が台湾や中国東北部や朝鮮半島などアジア〜太平洋諸国を占領し、日本から入植者が移住するのと入れ替わりに大勢のアジア人が(強制であれなんであれ事情はそれぞれとして)日本に渡って来たことはたいていの日本人なら常識として知っている。
だが戦争が終わって日本人が外地から引き揚げて来た後、内地に住んでいた旧植民地の人々がどうなったのか、現在日本に住んでいるその末裔の祖先はなぜ、故国に戻らなかった/戻れなかったのか、知る人は多くはないのではないだろうか。
もしその場で侵略戦争がきれいさっぱり御破算になって全員故郷に帰っていたとしたら、いま、私はここに存在していないが、現実にはそうはいかないのが歴史である。その答えの一部が、この物語の重要な軸としてかなりわかりやすく整理して描かれている。そういう意味で、近代日本の歴史に疑問をもつ者にとってこれは必見の作品ともいえるのではないだろうか。
主人公の朋子は日本占領中の釜山で生まれ育ち、内地の生活もしきたりもわからないうえ、朝鮮のそれもよくしらないし、朝鮮語を話すこともできない。
相手となる俊二は生粋の朝鮮人だが日本占領中に生まれ、日本名を名乗り日本の軍国教育を受けて軍人となり、日韓両国の言語を流暢に操る。
ふたりがふたりとも、侵略戦争のもとにのみ生まれる存在である。
それが旧宗主国の資産家令嬢と、その親族企業の従業員でなにくれと彼らの世話をするエリート現地青年という立場でめぐりあうのだから、お互いにこれほどドラマチックなシチュエーションもなかなかない。
しかしこうしたふたりのあらかじめ引き裂かれたアイデンティティがどんなに残酷なものか、荒れ狂う時代背景の中でとにかく微に入り細を穿って繰り返し彼らをいためつける。
たとえば朋子は敗戦と同時に身ぐるみ剥がれて引き揚げを強要されるが、内地に親戚はいても顔も見たこともない、右も左もわからない天涯孤独の身である。かといってひとり半島に残ることも許されない。
俊二は朋子を妻として娶り幸せにしたい、まもりたいと願うが、日本軍の憲兵だった彼への風当たりの強さを知る家族はそれがどれほど非現実的かを熟知している。日本に密入国しても、滞在資格のない彼には満足な職もない。
つまり彼らにはどこにも居場所はないのだ。
ただいっしょにいたい、そばにいたいと願うだけのふたりが、身寄りがない、日本の敗戦によって国籍を分かたれたという事実の元に、何度もなんども引き離される。そのたびごとにふたりは互いの絆を手繰り寄せようと必死にもがく。まるでそのためだけに生きているかのように。
ミニマムな恋愛物語だが登場するエピソードのひとつひとつが濃厚で、侵略が人の心と社会にいったいなにをもたらすのか、そのディテールが繊細に描写されている。差別する者自らが意識することのない差別感情や、制度の壁の不条理は、当事者にはどうすることもできない。どうすることもできなくても、人は生きていかなくてはならないし、運命を諦めるわけにもいかない。
朋子にとっては、木彫りのかささぎのブローチをポケットの中で握りしめていることが、たった半年間ままごとのような新婚生活をともにした俊二との再会を諦めないことにつながっていたのだろう。俊二は朋子といっしょにいたくて玄界灘を越えるごとに毎回官憲に囚われ犯罪者扱いされながらも、決して愛する人との人生を諦めようとしない。
出演者それぞれの熱演に圧倒的な説得力があるのも脚本・演出力のわざかもしれないけど、わけても俊二役の眞島秀和はすべてを凌駕する演技力だった。物語の前半では、朋子が窮地に立たされるたびにどこからともなく現れて助けてくれる、あたかも白馬の騎士のような上品さが爽やか。爽やかでありつつも朋子に繰り返す「あなたを一生まもります」「どこにいてもあなたを愛している」なんて情熱的なセリフもバッチリ決まる。一方で、日本統治下で天皇を敬うようしつけられ皇軍として戦った朝鮮人が、最低限の矜持として心の底に隠し持っている侵略者への反発心や、不法行為ギリギリの手段まで使ってでも状況を打破しようとする狡猾さまでしっかり体現している。老境に入って余命幾ばくもなくなって再会した時の老けの演技も凄かった。知らない人が見たら本気で病気のおじいさんだよ。それにしてもこのキャラクターはむちゃくちゃ不憫です。終盤、再会して朋子に経緯を告白したときのセリフは涙なしには聞けなかったよ。
それでも、主人公ふたりがどれほど不運でもこの物語が美しいのは、それほどまでに熱く求めあうだけの愛にめぐりあえたその幸せが、彼らの苦難にまみれた一生をどれだけあたたかく明るく照らしてくれたか計り知れないからだ。
彼らはつらいとき、かなしいときいつも「生きていさえすればいつかあの人に会える、生きて会えるだけでいい」と己を鼓舞して生きたのではないだろうか。そういう存在がいることそのものが、得難い幸せなのではないだろうか。
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脚本家自身のノベライズ本。
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