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落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

赤い靴

2008年08月12日 | book
『ボッシュの子』 ジョジアーヌ・クリュゲール著 小沢君江訳
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第二次世界大戦中の1940年ナチス・ドイツはフランスに侵攻、1ヶ月あまりの戦闘後フランスは降伏して休戦協定を結んだ。
1942年にはドイツはフランス全土を占領、以後1944年までナチスの傀儡といわれるヴィシー政権がフランスを統治した。
著者ジョジアーヌ・クリュゲールは1942年にドイツ人兵士とフランス人女性の間に生まれた。現在、この時代に彼女のような両親の元に出生したフランス人は20万人を数えるという。
数字はただの数字でしかないかもしれない。だが終戦直後、ドイツ人と交際したというだけで髪を刈られて晒し者にされた女性たちに象徴されるように、レジスタンス=絶対的な善/ナチス=絶対的な悪という二次元構造的歴史概念の中で、人知れず自らの出生に苦悩したフランス人が20万人もいたという事実には否が応にも慄くばかりである。逆に、ドイツにもフランス兵を父に持つ人が数十万人いるといわれる。彼らもまた心ない差別と偏見に苦しめられていた。

著者は60代になった今でも、「自分がノーマルな人間とみなされていないことに苦しんでいる」という。
彼女の心情を単なる被害妄想だと片づけてしまうことはたやすい。どうやっても彼女たちの孤独を理解できない人もいるかもしれない。
でも、すべての差別と偏見の元凶が、ここに集約されていると仮定すればどうだろう。
生まれてくる子に親や国を選べはしない。ドイツ兵が全員ナチスを支持していたわけでもない。ひとりの男とひとりの女が出会って恋に堕ちて、子どもが生まれた。単にふたりの国籍が違っていて、時代が戦争中だっただけのことだ。それなのに彼らは生涯引き裂かれ、売国奴、売女と罵られ虐げられ、こそこそと出生を偽って暮らさなくてはならなかった。
そんな人が、フランスだけで20万人もいたのだ。

全体にあっさりと淡々とした文体で書かれた短い自伝である。
幼いころ可愛がってくれた祖母以外に無防備に心を開くことのできる家族もなく、若くして家を出て自活していた彼女。彼女の孤独の大部分は、母親の無関心に起因しているようにも読める。本来なら最も心強い味方でいてくれるはずの母との距離が、ドイツ人の父との許されざる恋のせいなのか差別的な社会のせいなのかはわからない。ただ、自分を守るために閉ざした心の扉は、著者自身の遺伝子にもしっかりと受け継がれているらしい。ある意味では彼女も自ら孤独を選んだのかもしれない。選ばざるを得なかったのかもしれない。
そんな心の扉は、差別と偏見を生まれながらに知った者なら誰もが自然に備えている。硬くて重くてあるだけ邪魔だということはわかっていても、そう簡単に開け放つことのできない厄介な扉。
いつかそんなものが人の世から永久になくなればいい、そう夢みることだけは自由だと思うのだけれど。

千言萬語

2008年08月11日 | movie
『1000の言葉よりも 報道写真家ジブ・コーレン』

いつ終わるとも知れない民族問題を抱えたイスラエルで活動するフォトジャーナリスト、ジブ・コーレンに密着したドキュメンタリー。
こないだ『闇の子供たち』を観たときも思ったけど、ヴィジュアルのインパクトってほんとうに「百聞は一見に如かず」なんだよね。児童買春や臓器売買について多少なりとも聞いたことがあっても、フィクションであれ実際に映像で犠牲者を見せられる衝撃はそんなものと比較にならない。
イスラエルでは毎週のように自爆テロで市民が犠牲になり、日々パレスチナ人が虐げられていることなんか周知の事実で、そんな現状に誰もが慣れきってしまっている。イスラエル人だけじゃない、世界中の誰もがイスラエル/パレスチナの悲劇的なニュースに「またかよ」とため息をつくだけ。ぐりも含め。
だがジャーナリストとしてコーレンはいつも新鮮な視線で最前線をとらえ続ける。被写体は兵士、テロの犠牲者、パレスチナ人、デモ隊などさまざまだ。そしてそれらとコーレンの距離は常に一定である。なぜなら彼はプロだからだ。

フォトジャーナリストの仕事に要求されるタフネスにはまったく舌を巻く。
コーレンの仕事場─事件現場─には程度の差こそあれ毎度のごとく危険がつきまとう。コーレンも警戒はする。命の保証もない場所での仕事上のノウハウも駆使するが、覚悟もしている。ファッションモデルの妻も同様である。
それは彼らが長いキャリアの間に積み重ねてきた不文律でもあるのだろう。死ぬことになるかもしれないけど、決定的瞬間は逃したくない。でも死ぬのはただの間抜けだと。死ぬのが怖くないわけじゃない。死の恐怖をコーレンはおそらく誰よりもよく知っている。だからこそ自らと死の距離を無意識に測りながらシャッターをきっている。あまりに凄惨な現場ではファインダーを覗かない。覗いたら自分がどうなるかわからないから。
そんな彼の仕事が映画の中ではまるでダンスを踊っているかのように華麗に描かれている。まるでミュージッククリップのようにファッショナブルに編集された映像と音楽のせいかもしれない。

コーレンも奥さんもかっこよすぎるのがどーなん?と初めは思ったけど、こんな題材だからこそ彼らを“ナビゲーター”としてとりあげたことに意味があるのかもと思う。
ひとくちにイスラエル問題、パレスチナ問題といってもそこに住む人々の生活も思いもそれぞれに違う。ユダヤ人が全員ユダヤ教徒というわけではないし、イスラエルにはユダヤ人・パレスチナ人以外の住民もいる。紛争ひとつとってもそれに対する感じ方はみんな同じじゃない。
モザイクのように複雑なイスラエルを多角的にとらえつつ決して目を逸らさない、コーレンの“ダンス”はこれからどこへ行くのか。あるいはどこへも行けないのか。
まったくイスラエルはどこへ行くんだろう。ただひとついえることは、コーレン含めジャーナリストたちが発信する悲劇に、われわれが「慣れ」てはいけないということだろう。それは無関心という名の敵意と同じだ。殺される人、尊厳を踏みにじられる人、家を奪われる人、彼らも自分と同じ「人」なのだということを、絶対に忘れるべきではないのだろう。
それってけっこー難しいんだけどね・・・。

関連レビュー:
『パレスチナが見たい』 森沢典子著
『パレスチナ1948 NAKBA』 
『ビリン・闘いの村』 
『パラダイス・ナウ』 

空にダイヤモンド

2008年08月11日 | movie
『アクロス・ザ・ユニバース』

1960年代、リバプールの造船所労働者ジュード(ジム・スタージェス)はアメリカにいるという父を訪ねて大西洋を渡り、偶然知りあったマックス(ジョー・アンダーソン)の実家で妹ルーシー(エヴァン・レイチェル・ウッド)と恋に堕ちる。やがてベトナム戦争が始まり、ニューヨークでジュードと共同生活を始めたマックスにも召集令状が。ルーシーは反戦運動に参加しデモ活動にのめりこんでいくのだが・・・。

ぐりが生まれたころビートルズはもう解散していて周りにもビートルズを聴く大人はいなかったから、初めて音楽として彼らの作品に触れたのはピアノのレッスンだったと思う。最初に弾いたのが「レット・イット・ビー」だったか「ヘイ・ジュード」だったかはもう覚えていない。他には「イエスタデイ」や「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」なんかも弾いた記憶がある。高校生になってバンド活動をしたころはベースの練習でやはりビートルズを弾いた。
残念ながらぐりには音楽センスというものがさっぱりなくて、ビートルズの音楽の素晴らしさを自分のものとして消化することはまったくできなかったけど、それでも彼らの音楽には子どものころから親しんだ友だちのような感覚は持っている。聴くときどきによって歌詞やメロディから伝わるエモーションは少しずつ違う。でもすごくわかる、知ってる、って感じ。懐かしいというのとは違う、いつもふつうにそこにいる、って感じ。

それが映画になるって観る前から不安だったよ。そりゃ不安でしょう。あのビートルズの名曲がミュージカルに!って、えー?みたいな。けど音楽は間違いないし。不安半分期待半分。
実際観てみて、やっぱね〜難しかったね〜って感じかな?映画としてはよくまとまってると思うよ。ミュージカル映画としての完成度は非常に高い。音楽に負けないだけのサイケデリックなヴィジュアルワールドはがっちり堪能できる。映像は綺麗ですハイ。
でもねーそれだけなのよねー・・・。ストーリーがね〜中身なさすぎー。登場人物にも誰ひとり感情移入できずー。こざっぱりまとめりゃーいいってもんじゃないわね。結局映画ってストーリー、テーマだからさ。これミシェル・ゴンドリーが監督してればキャラクターに奥行きが出てまだよかったかも。全員見事にペラッペラ!ですからー。
まあ、どこって欠点はない。長いプロモーションビデオって感じでしょーか?っちゅーかこれ、この後いろんなPVにパクられんだろーなー。そーゆーネタはたんまり詰まってます。ぐりもそれに近い職業だから「このシーンはあれをこーしてこれをあーして」とかいちいちしくみ考えながら観てしまったよ。病んでるなー。
しかしわざわざそんなもん初日に観とうないです。自分で自分の貧乏性がイヤになってしまったよ。

侯孝賢の赤い風船

2008年08月11日 | movie
『ホウ・シャオシェンの レッド・バルーン』

7歳のシモン(シモン・イテアニュ)は声優の母スザンヌ(ジュリエット・ビノシュ)と二人暮らし。忙しい母に代って雇われたベビーシッターのソン(ソン・ファン)は中国から来た留学生で、パリで映画の勉強をしている。スザンヌは人形使いだった祖父の8ミリフィルムをソンに頼んでDVDにしてもらう。よみがえった映像には幼い日の娘ルイーズ(ルイーズ・マルゴラン)が映っていた。
アルベール・ラモリス監督の名作『赤い風船』へのオマージュ作品。

つーてもぐりはラモリス版を観てないんですがー。観た方がよかとですかね?単にあのー、侯孝賢が好きでそれだけで観ちゃったんですが。
侯孝賢にとっては『珈琲時光』に続いて2作目の海外作品。『ミレニアム・マンボ』も後半の舞台は日本だけど、出演者は台湾人だからね。スタッフは毎度の侯孝賢組だそーですが。
だから映像もトーンもまんま侯孝賢ワールドなんだけどー。ごめん、ダメでした。全然入りこめなかった。ぐりジュリエット・ビノシュ苦手なんだわ。そーいえば。フランス映画もここんとこちょっと苦手。侯孝賢ならいっかと思ったんだけど。
何がダメなのかはよくわからない・・・なんでしょーね?これそっくり舞台を東京とかソウルとか上海とかシンガポールとか、とにかくアジアに持ってきたらたぶんもっと楽しんで観れると思う。それはするっと想像できる。フランスで、ジュリエット・ビノシュってのがムリなんだけど、それがどーしてなのかは我ながら謎だ。どーしてだー?

ところで劇中に出てくる中国風の人形劇、あれは布袋戯だよね?侯孝賢で布袋戯といえば『戯夢人生』。他の作品にもときどきチラホラ登場してますが。今回はフランス語でナレーション(ジュリエット・ビノシュ)がついていた。フランス語で布袋戯ってなんか新鮮ー。あれって欧米の人が観てもわかるもんなんかな?
布袋戯そのものはちゃんと観たことないけど、『聖石伝説』なんかは正規版がネットで観れるんだよね。今度機会があったら観てみよっと。

これはこの作品とは直接関係ないんですが。『赤い風船』『白い馬』の予告編、アレなんでしょーね?『この自由な世界で』とか『長江哀歌』とかもそーなんだけど、最近ミョーにクッサいナレーションでいらん説明ごってごてな予告編がやたら目立つんですがー。ウザいっす。あのナレ聞くと観たかった映画も「やっぱええわ」って気分になる。これから映画観るんだぜーってテンションも思いっきり下がる。
あの暑苦しい能書きはなんなん?中高年層狙いなんかなー?
すいませんね。ココロ狭くてさ。けどあんなにくどくど説明されて「おもしろそう」「観たい」って気分になるもんなの?実際?わからん・・・。

格安の約束

2008年08月10日 | book
『血と暴力の国』 コーマック・マッカーシー著 黒原敏行訳
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80年代のアメリカ南部。
ひとりでハンティングを楽しんでいた溶接工のモスは、砂漠で蜂の巣になった3台のクルマと8人の射殺体、それに大量の麻薬と大金の詰まったブリーフケースをみつけた。
カネを持ち逃げしたモスを追うのは殺し屋シュガーと、地元の保安官ベル。出会った人間をひとり残らず殺しまくるシリアルキラーと、理解不能な凶悪犯罪の増加に苦悩するモラリスト、理由も考えずに大金を抱えて逃げ続けるベトナム帰還兵、それぞれの旅の物語。
昨年度の賞レースを席巻した映画『ノーカントリー』の原作本。

あのー。ビックリするくらい、映画そのままだね。スゴイです。
ふつう小説の映画化ったら、多少の変換はあるじゃないですか。小説でしか表現できないことは映像では形を変えて描写することになるし、だいたい映画は90分から長くて200分程度だから、分量的にも収まりきらない場合が多い。
けど『ノーカントリー』は呆れるくらい小説そのまま。カットされたパートもさすがに2〜3あるけど、ストーリーも世界観もキャラクター描写も、おそろしーくらい原作に忠実です。すごいマニアックな映画だったんだなーと、原作読んで改めて思いましたです。
マッカーシーの作品は今回初めて読んだんだけど、引用符やコンマをほとんど使わない(訳文では“「」”や“、”にあたる)文体が特徴であるらしく、擬態語や修飾詞を使った情景描写もほぼでてこない。要するにむちゃくちゃストイックなスタイルでさくさくさくさくと話が進む。
こういう文体はテンポはいいけど、うっかりすると状況が一度に把握しにくくなってしまうため、テンポ通りにたったか読み進めるというわけにはいかない。必然的に集中的に小説の中に入りこむことになり、これが読者の中に自然と臨場感を醸し出すという仕掛けになっているようだ。

だから原作にはハビエル・バルデムのオカッパ頭なんかはいっさい描かれてません(笑)。人種もわからないし、年齢もラスト近くになって目撃者の証言でだいたいこれくらい、という台詞がでてくるだけ。他の登場人物も同じで、物語の展開上にチラホラと特徴の断片らしきものが出てはきても、具体的にどういう人なのかという客観的描写はない。ぐりは映画を観てしまっているのでつい映画のキャストを想像しながら読んでたけど、観る前に読んでたらずいぶん感じ方は違ったろうと思う。
映画とひとつだけ違うなと感じたのは、アメリカという国の20世紀の背後にべったりと横たわる戦争の影。20世紀は戦争の世紀とよくいうけど、アメリカはこの間しょっちゅう戦争ばっかりやっていた。今もやってるけど。モスはベトナムに行ったし、ベルは第二次世界大戦に行っている。他の登場人物にも戦争経験者が多い。あるいはシュガーもそうかもしれない。そしてそれは単なる経験や記憶などでは終わらない。彼らは戦地で自分がしたこと、見たものによってアイデンティファイされている。いや、そこに否応なしに縛られている。
そんな男たちが背負った戦争はもちろん個人的精神的背景だけでは済まない。

登場する女性キャラクターがそれぞれに非常に魅力的。モスの若き妻カーラ・ジーンやベルの妻ロレッタはほとんど神と見紛うほど毅然として愛情深く、モスが道中で出会う家出少女は妖精のように愛くるしい。
彼女たちの知性溢れるあたたかさと美しさが、暗く渇いた物語をほんのりと照らすのが読んでて心地良かったです。