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落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

閉じないで

2007年01月13日 | book
『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』 佐藤幹夫著
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レッサーパンダといえば、去年直立する“風太くん”が人気者になって注目された愛らしい動物だが、それを遡ること5年前、まったく逆の意味で日本中を震撼させたレッサーパンダがいた。
2001年4月30日、連休中の雨の朝、浅草の路地で若い女性が何者かに刺殺された。現場で目撃されていたのは、事件当時周辺地域に出没するようになって間もない「レッサーパンダの帽子をかぶった男」。事件から10日後に難なく犯人は逮捕された。
実は警察は事件から3日めには犯人を特定し、母校の養護学校から資料をとりよせていたにも関わらず、マスコミにはそのことがほとんど報道されなかった。犯人は自閉症だったのだ。
この本は養護学校教諭を経てジャーナリストとなった佐藤氏が、事件の裁判と関係者への取材を通じて、有罪率99.8%という日本の裁判制度の欺瞞と、精神障害者と犯罪の関わりを暴いたノンフィクションである。

著者の佐藤氏は犯人本人には直接接見はしていない。
ここに書かれた文章のニュースソースは裁判記録と傍聴メモ、加害者・被害者双方の関係者への取材と、佐藤氏が養護学校教諭として得た知識と経験がすべてである。だから、事件そのものとこの本との間にはそれなりの距離がある。
ところどころその距離がもどかしく感じる箇所もないではなかったが、逆に、その距離こそが、この事件と裁判を、ごくニュートラルな目線で捉えやすい描写にしているのかもしれないと思った。
この裁判の弁護人は、もともと精神障害を持つ被告たちを弁護してきた専門家であり、自ら志願してこの被告を弁護した。彼は「責任能力を争いたいのではない」とはっきり明言している。被告に罪の意識があろうがなかろうが、人がひとり死んでいることに変わりはない。その罪はどうあっても償わなくてはならない。しかし償うからには罪の重さを知ってもらいたい、そのために、被告の障害が事件とどう関わっているのかを明らかにした上で裁くべきだといっている。
被害者の親族は「あの子は“地雷”を踏んでしまった」といった。だが被告が生まれつき“地雷”だったわけではもちろんない。障害それそのものは“地雷”でもなんでもない、本人以外にとってはまったく無害なものでしかない。それが“地雷”に形成され浅草の路地に埋まるに至るまでに、不幸なプロセスが避けがたく積み重なっていき、それを被告自身を含めた誰にも止める手だてがなかった。
まさに不運というしかないが、当事者にはそんな言葉では片づく事件ではない。

読めば読むほど、この国の福祉制度と裁判制度の狂気が呪われる。
一体なんのための福祉なのか。なんのための裁判なのか。ほんとうに困っている人を助けるのが福祉ではないか。二度と同じような悲劇を繰り返さないために真実を世に明らかにするのが裁判ではないのか。
ぜんぜん違う。まるっきり違う。こんな制度のために我々は働いて税金を払っているのかと思うと情けなくなる。悲しくなる。
福祉制度を悪用する人間ももちろんいる。この事件の直後に起きた池田小事件の宅間守元死刑囚などはその典型だろう。しかし浅草事件の被告一?ニの窮状は「言語に絶する」という表現こそ相応しいといって過言でないほどの惨状だった。被告の障害は生まれついてのものだからしかたが?ネいとしても、誰かがどこかで彼らに手を差し伸べてさえいれば事件は避けられたかもしれないのだ。実際に被告は事件前に福祉事務所を訪ね?トいるが、障害のため言葉が足りず相手にされなかったという。
ここ数年の裁判では、被害者保護意識の高まる世論や被害者感情を過度に意識してか、検察の主張を丸呑みにした厳罰判決が増えているというが、この裁判ももろにそうだ。裁判官はまる3年以上も目の前で被告の障害をみていながら、それを微塵も理解しようとはしなかった。いったい何のために裁判をやっているのか。それならば裁判なんか必要ないではないか。犯人を捕まえてとにかく刑務所にぶち込んで二度と出られなくすれば一丁上がり、話が簡単で済む。

ぐりはこれまでに精神障害や人格障害を持つ犯人による事件の資料をいくつか読んできたけど、どの事件でも、事件が起きるには起きるなりの過程ときっかけがあった。
事件が起きてしまってから犯人の不幸に同情したところで何もならない。
だが福祉の目からすり抜けてしまった障害者たちがやむにやまれず軽犯罪(無銭飲食・万引き・自転車泥棒が大半を占めるという)に手をそめ、転落していく現状をみれば、もっとそうなる前に社会ができることがあるはずだろうという気にもなる。
責任能力以前の話だ。
たとえば最近発覚した新宿死体遺棄事件にして?烽サうだ。容疑者は去年被害者の暴力による怪我で病院に運ばれている。このとき警察に被害届を勧められて彼女は拒否しているが、もしもこ?フあと、地域のDV被害者の支援団体が動いていればどうなっていただろう。あるいは最悪の事態は避けられたかもしれないのだ。
それもこれも、「障害は恥ずかしい」「福祉の援助を受けるのはみっともない」「DVなんて見ず知らずの他人に相談できない」「支援を受け入れるのは本人の意思」などといったあまっちょろい誤解が壁になってはいないだろうか。

裁判は2005年に一審判決が出て本人によって控訴が取り下げられ、無期懲役が確定した。
彼が自分のしたことの重さをほんとうにわかっているのか、それは誰にもわからない。わかっていてほしいと思う。
でもその前に、この国の正義はどこへ行こうとしているのか、我々には知らなければならないことがたくさんある。
それを思うと、とても怖い。
そういう本でした。