落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

ロマンスパワー

2006年05月20日 | movie
『ナイロビの蜂』
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この映画も評判よかったり悪かったり、人によって反応がいろいろ違いますよね。なんでかな?と思ってたんだけどみて納得。
メインヴィジュアルやタイトル(原題『THE CONSTANT GARDENER』)から受けるイメージは「ラブストーリー」なんだけど、物語の内容は産業犯罪サスペンス。けどラブストーリーとしてもサスペンスとしてもこの映画はややストレートすぎるし、イマイチ説明不足なのだ。
でもぐりはこれはこれでいいと思う。おそらくこの作品でいちばんつくり手がいいたかったのは、アフリカの貧困を外国企業や政治家が平然と食い物にしている現実を当の西欧社会側では誰も知ろうともしていない、無関心に対する警告だったのだ。
そのあまりにも重い題材を、映画という娯楽メディアで表現し観客の鑑賞に堪えうる作品に仕上げるのに、ラブストーリーとサスペンスという“話術”が必要だった。そういうテクニックにおいてはこの映画はかなり成功しているといえる。社会派ドラマを社会派ドラマとしてとりあげたのでは、社会派ドラマを敬遠する観客(カップルや家族連れで社会派ドラマを観る人はそうはいない)をまるごと逃がしてしまうことになる。ラブストーリーやサスペンスとして描けば、そういう定番ジャンルの映画を観たい観客ならいくらでもいる。

ただしこの映画にも欠点がある。
台本がベタ。ベタすぎます・・・会話があまりにも古くさくて眠い。台詞の印象が薄いために、平易な言葉で喋っているにも関わらず観ていて何度も集中力が途切れそうになる。人間関係が複雑なのでこれは結構イタイ。
それなのに映像に凝りすぎ。ドキュメンタリータッチにしたかったのか、全編ステディカム撮影で画面のコントラストをキツめにしたり彩度を上げたり下げたり、露出をオーバーにしたりアンダーにしたり、やたらに忙しくカットチェンジしまくったり、90年代のミュージックビデオみたいな映像になっているのだが、これがベッタベタの台本のテイストと明らかにミスマッチ。途中まではそれでもよかったんだけど長い映画だからだんだん飽きてくるし、最初から最後までずうっとだとさすがにくどいです。やりすぎだね。
音楽はとってもいいです。ちょっとサントラほしくなりました。それと出演者はどの人もすごくハマってて、いいキャスティングだと思います。まあレイチェル・ワイズの演技はオスカーものか?と訊かれると、それほどでもな・・・とゆー気もしなくもないですが。
アフリカの子どもたちがみんなムチャクチャかわいい。ぱっちりした目がキラキラしてて、笑顔が愛くるしくて、画面に映ってるだけで心洗われます。

実をいうとぐりはこの映画を観たかったのには理由があって、やはりケニアを舞台にしたドイツ映画『名もなきアフリカの地で』でファンになったシデーデ・オンユーロ(IMDb)が出てたから(笑)。
この人はケニア出身で一時期アメリカでも俳優活動をしてたんだけど、今は故郷のヴィクトリア湖の傍に住んでいて、日本で彼の出演作にお目にかかることはまず滅多にない。去年ヴェネツィアに出品された時クレジットに彼の名前をみつけて一瞬トキメキましたが、日本の公式サイトには紹介されてないのでたぶんチョイ役だろーなーと思ってはいたんだけど、出番は少ないなりに結構おいしい役どころでした。相変わらずかっくいかったです。もっと映画に出てほしーなー。

題材はすごくよかったので、原作を今度読んでみようと思います。
しかしその前に調子こいて図書館で借りまくった本の山を崩さねばー。

原作レビュー:『ナイロビの蜂』 ジョン・ル・カレ著

裸の王様

2006年05月19日 | book
『日本兵捕虜は何をしゃべったか』山本武利著
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ウクライナから63年ぶりに帰郷した元日本兵のニュースが先月話題になったが、彼がなぜ今まで帰国できなかったか、またなぜ今さら帰国したのか、そして多くを語らないままウクライナへと再び去ったのはなぜなのか、詳しい事情にはどこのメディアも触れなかった。旧ソ連軍に拘束されながらも半世紀ぶりに帰国し、日本の家族の元へ戻れた蜂谷弥三郎氏と上野石之助氏とでは、一体どんな事情が違っていたのか。
メディア側にしてみればプライバシーの問題でもあり微妙な外交問題に抵触するリスクもあっていわずもがなの部分ではあったのだろうが、一般国民はそれで彼の存在を忘れてしまっていいものだろうか。
ぐりはそうは思わなかったので、この機会に本書を手に取ってみた。

以前、連合軍の軍事資料として保管されていた旧日本兵の手紙や日記を遺族に返還する過程を番組化・書籍化した『最後の言葉 戦場に遺された二十四万字の届かなかった手紙』(重松清/渡辺考著)を読んだことがあるが、『日本兵捕虜は何をしゃべったか』はおそらくこの企画のきっかけになった本だろう。
タイトルでは日本兵捕虜の証言について書かれた本のようにみえるが、実際の内容では、第二次世界大戦における日本軍の情報管理の甘さと、連合軍(主にアメリカ軍)の情報戦の周到さについて、非常にひろく体系的に書いてある。アメリカ軍は太平洋戦争が始まった直後から通訳将校を大量に養成し、前線に転がっている日本軍兵士の遺体や撤退時に放棄された荷物から、機密文書から地図からメモから手紙から日記から文字の書かれたものをありったけ全部回収して解読しまくり、そこから得た情報によって戦略を組み、プロパガンダを構築していたのだ。捕虜の尋問においても、文書解読から得られた日本人の心理分析が功を奏した。そしてそれらから洩れた情報によって、開戦翌年には既に日本軍の動きは手に取るように連合軍側に把握されていた。こうしたことに日本軍幹部はまったくいっさい気づかなかった。なぜ気づかなかったのかについてもちゃんと書かれてます。
めんどうなことはキライなのでその他細かいことには触れないが、下記に一文を引用する。ここに本書の全てが要約されている。

日本軍の指導者たちは、人間性の本質についての認識が甘かった。その甘さが(日系)二世のナショナリズムに対してだけであればまだよかったのだが‥‥‥。それよりもなによりも、かれらは人間が本性上、いくら教育しても、強制してもなかなか自殺できる存在ではないことを知らない、あるいは知ろうとしないペーパーテストに優秀なだけの参謀だった。だから、自らの足もとから高度な軍事機密が敵側にとうとうと流出していることに、なんら対応策がとれなかったのである。(112p)

そうした歴史的事実よりもなお、60数年前、前線で戦い、敗北した日本人たちのなまなましいほどの人間くささ─今を生きている我々とどこも変わらない─をたっぷりと味わわせてくれる貴重な本です。ここから現代の日本人が学ぶべきものも満載。とりあえず今の日本人が持っているセンチメンタルな「戦争」のイメージが見事に根底から覆ります。もう気持ちいいくらい。我々が知っている「戦争」がどれほど不完全でどれだけインチキか、すごくよくわかります。
引用したとおり文章はいささかマズいし(爆)著者の政治的思想にはどーも賛同しかねますが、それほど量のある本ではないので是非一読の価値アリです。ぐりはとくに『男たちの大和』とか観て泣いてる人、『国家の品格』とか読んで靖国神社に喜んで参拝してる人に読んでほしい。

ひとつ気になるのは、本文に登場する捕虜の個人名・文書資料の著者である兵士の個人名が全部モロ出しである点。仮名とはどこにも断っていないのでおそらく元資料のママと思われ。
大丈夫なの?これ?

幻想について

2006年05月14日 | book
『アイス・ストーム』リック・ムーディ著 南條竹則・坂本あおい訳
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そういう日にまたビミョーな作品のレビューですんません。他意はありません。たまたまです。
李安(アン・リー)の映画『アイス・ストーム』の原作。大変おもしろかったです。しかし残念ながらこの作家はこれ一冊しか邦訳されてないよーです。なーぜーにー。とってもよく描けてるんですけどー。
映画もそうだけど、お話としては感謝祭の前後数日間の短い物語だ。舞台はニューイングランドのややリッチな郊外住宅街(サバービア)の市民コミュニティ。高学歴で高収入、一応それなりに成功した人たちが家庭を築くのに選んだ静かで平和な街。だが80年代にこうした街を背景にしたサイコスリラーやホラーがやたらに流行ったように、アメリカ人の求めた平穏はやがて内側から壊れ、荒廃していく。『アイス〜』は1973年の物語だから、その序章にあたる。

この小説の特徴は膨大な情報量とコロコロと転換していく視点である。
一見社会的にはイケてるはずだけど実はあれこれとトラブルを抱えたサエないおとうさんベンジャミン、おとなしい専業主婦にみえてとんでもないトラウマをもつ欲求不満のおかあさんエレナ、これといった取り柄もなく趣味といえばマンガで女の子にもさっぱりモテない息子ポール、美人でハッキリいってほとんどアバズレだが恋そのものは知らない娘ウェンディ。彼らの思い、関心、意識とその表層・下層に触れるものたち─記憶・思想・本・仕事・流行・ファッション・宗教・商品・・・─についての情報のモザイクのような羅列。その中に登場人物は文字通り溺れている。
そしてすぐ傍らにいるはずの家族の姿は彼らにはみえていない。深い水に浸かった遭難者のように互いの手をかたく握りしめあい、これ以上ないほど相手を強く求めあっているにも関わらず、その真の姿にはまったく目を向けていない。愛が欲しい、愛して欲しいと叫びながら、自ら相手のことを愛そうとはしていないのだ。
だから全体として内省的な小説ではあるのだが、映画ではそこをうまく「無言の間」で表現している。逆に特徴的な情報量にはそれほどこだわっていない。ストーリーも映像としてショッキングな部分は省略しつつ(とくにラストはけっこう大胆な変更アリ)、プロットの行間に流れるえもいわれぬ“やるせなさ”はキチンと再現している。上手い翻案です。確かこの脚本はカンヌで賞を獲ってるんじゃなかったっけな。

世の中には絶対的なものなどなにもないけど、家族だってそうだ。他人同士が惹かれあい結びつき、巣をつくって子を生す。時が経てば子は家を離れていく。夫婦も年をとりいずれかが旅立ち、人は元のひとりに戻る。家族は一時の幻でしかない。
幻だからこそ、相手の姿をしっかりとみとめ、手のあたたかさを感じあい、心の声に耳を傾けあわなくては、それはただの“家”という名の殻になってしまう。その殻の危うさ・脆さについて描いているのがこの小説です。
1962年生まれの作者は、登場人物ではウェンディやサンディーよりいくつか年下の世代にあたる。つまり自分の子ども時代をシニカルに振り返った回顧録の一風変わったアレンジのようなものだろう。こういう視点は非常にわかる。すんげえわかる。ぐりも子ども時代に美しい思い出ってほとんどないから(笑)。
他の著作も邦訳されたら是非読んでみたいです。

ダメ人間の休日

2006年05月07日 | movie
『緑茶』
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観てきたよー。
前作の『我愛你』もそーですが、とにかくよく喋る中国人の特性を極端にデフォルメした濃密な会話劇。またしても主要な登場人物は2人だけ、他の人物は背景に毛が生えたような扱いで、ほとんどのシーンとストーリー展開がメインの男と女の二人劇で成り立ってて、ものすごく舞台っぽいです。張元(チャン・ユアン)の名を一気に広めた傑作『東宮西宮』も舞台化されてるし(てゆーか元が戯曲なの?)、この監督は二人劇、会話劇というスタイルにこだわってるのかな?
ただこういう映画が好きか?と聞かれるとどーかなー?とゆー気もする。会話劇って観てる人間にも集中力を要求するからけっこう疲れる。しかもこの『緑茶』で軸になっているのは「女性の神秘性」なので、当の女性の視点から観てしまうとそこの軸がかなりどうでもいい(爆)。つまり『我愛你』での「夫婦の将来」とか、『東宮西宮』での「主人公と警官の関係の変質」といったスリルが、『緑茶』には微妙に足りない。
また映画全体の中で非常に重要な位置を占める「女性の神秘性」の全てが趙薇(ヴィッキー・チャオ)の魅力と演技にかかっているのだが、それもどーなのー?とゆー。呉芳(趙薇)と朗朗(趙薇・二役)が同一人物なのか別人なのか、とゆーギミックも古くさすぎ。いや脚本も演出もよくできてるし、趙薇は確かにすごくかわいいんだけどねえ。声と喋り方が菅野美穂ソックリとゆーことに気づき(爆)。顔もちょっと似てるよーな。でもなー。ミステリアスではないよなあ。アイドルももう30歳、そろそろ演技派として脱皮せんといかんのでは(余計なお世話)。

撮影がクリストファー・ドイルだけあって、映像がオシャレ度満点っす。ロケ地もおそらく北京の最新スポットを使ってるのでしょー。すてきな場所ばっかりです。
だからファッショナブルなアートムービーとしての完成度はまあまあだけど、肩の力を抜いて気楽に楽しむ娯楽映画としてはイマイチ重いし、じゃあ社会的・文学的テーマを考えさせてくれるかっつーとそれほどでもない。
観て損とゆーこともないけど、「そこそこ」って感じでしょーか。とくに出来が悪いとかそういうことではないんだけど、「いい映画」ってほどのこともなく。若い人になら割りとオススメかも。あと趙薇ファンはおいしいね。でずっぱりだもん。どアップのサービスショットも満載で。
おっさん好きぐりとしては、姜文(チアン・ウェン)がなんだか若々しくてカワイかったです(笑)。


イニスフリー

2006年05月06日 | movie
『ミリオンダラー・ベイビー』
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またしても私事で恐縮なのだが、ぐりの父は十代の頃にボクシングをやっていた時期がある。といっても札付きの喧嘩屋だった彼にとってボクシングはおいしいテクニックを盗む“勉強”でしかなく、前後して柔道や空手もかじったそうだ。それでも彼の心に残ったのはボクシングだけだったようで、ぐり自身も幼いころちょくちょく父といっしょにボクシング中継をTV観戦したのをよく覚えている。当時はゴールデンタイムや日曜の夕方など、子どもがみられる時間帯でもボクシングを放送していた。他の格闘技では祖父が好きだった相撲くらいしか観なかった。
正直にいってぐりには格闘技の魅力はまったくわからない。ましてや最近流行りのショーアップされた異種格闘技の世界などはまるっきり理解の外だ。なのになぜか今も、TVでたまたまボクシング中継をやっているのを見かけるとつい目がとまる。何の理屈もなく、美しいスポーツだと思ってしまう。それがただただシンプルでストイックな、孤独な人間同士のぶつかりあいの儀式だからだろうか。自分でもわからない。

クリント・イーストウッドの監督作品ではこれまでに『ミスティック・リバー』『真夜中のサバナ』『パーフェクト・ワールド』しか観ていないが、『〜リバー』と『〜サバナ』は全然ダメだった。世間の評価は別として、ぐりの趣味ではなかった。『パーフェクト〜』はわりと好き。『〜ベイビー』もいい作品だと思う。確かに名作だ。
観ていて何度も何度も涙が出た。序盤、30代を過ぎたマギー(ヒラリー・スワンク)がぐんぐん技術を身につけていくのが却って悲愴に感じられて仕方がなかった。彼女の挑戦が最初から危険過ぎることは誰の目にも明らかだ。夢に目が眩みわずかな可能性に幸運の輝きを見いだす者には、そんな危険など眼中にもないだろう。果たして彼女はどんどん強くなり、無敵のファイターへと成長していく。しかし彼女がしているスポーツがボクシングである以上、常に大事故の危険はつきまとう。彼女が強くなり高みへの階段を一歩のぼるごとに、その悲劇は着実に近づいてくる。おそらくフランキー(イーストウッド)はそのことをどこかで知っていたのだ。無骨で不器用で言葉を知らない男だが、ただ単純に年をとっているだけではない。それまでにも幾人もの選手を育て世に送り出し、そして失ってきた彼にとって、彼女の悲劇もまた過去に繰り返されてきたドラマと似たり寄ったりの挿話だったかもしれない。だからこそ彼は、彼女のトレーナーを固辞していたのだろう。

劇中、フランキーがマギーにイェーツの「イニスフリーの湖島」を読んで聞かせるシーンがある。アイルランドを代表する大詩人ウィリアム・バトラー・イェーツの作品の中でも最もよく知られた詩の一節だ。
世俗を捨て静かな湖の島でひとりマメを育て蜜蜂を飼って暮したいという夢想を詠った素朴なこの詩が、これほどの深い感動を喚びおこすのはなぜだろう。そもそもボクシングジムを経営するフランキーが毎週教会に通い、イェーツを読み、ゲール語のリングネームをヒロインに与えたのはなぜなのか。
彼には理解しあうことのできない娘がひとりいた。彼女は映画の最後まで画面には登場しない。マギーの家族は2度登場するが、彼らも彼女をひとかけらも理解してはいなかった。不幸だが決して珍しい家族像ではない。表面的には彼らほどの決裂はなくても、どうしても理解しあえない家族というのはどこにでもいる。
フランキーとマギーは二度と触れあうことのできない家族を互いの中に求めていたのだろう。悲しいがふたりはふたりなりに理解しあってはいた。それはそれでハッピーなのかもしれない。
とても勝手な解釈だが、ぐりはそう思う。


「The Lake Isle of Innisfree」

I will arise and go now, and go to Innisfree,
And a small cabin build there, of clay and wattles made;
Nine bean rows will I have there, a hive for the honeybee,
And live alone in the bee-loud glade.

And I shall have some peace there, for peace comes dropping slow,
Dropping from the veils of the morning to where the cricket sings;
There midnight's all a-glimmer, and noon a purple glow,
And evening full of the linnet's wings.

I will arise and go now, for always night and day
I hear the water lapping with low sounds by the shore;
While I stand on the roadway, or on the pavements gray,
I hear it in the deep heart's core.


「イニスフリーの湖島」

明日にでも行こう あのイニスフリーへ
そして小さな小屋を建てよう 泥と萱で
マメの畝をここのつ 蜜蜂の巣箱をひとつ
蜂の羽音のなかでひとり暮そう

そこでなら私は安らぐだろう 安らぎはゆっくりとやってくるのだ
蟋蟀のすだく朝靄の滴りのように
夜は更けても朧に明るく 昼はまばゆく
夕暮れは胸赤鶸が舞い飛ぶだろう

明日にでも行こう 夕に日に
私には聞こえる 湖の水の音 岸にくだける波のさざめき
道に佇んでいても 灰色の舗道の上でも
あの水音は 胸の奥底に聞こえている
(ぐり訳)