『三陸海岸大津波』 吉村昭著
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『関東大震災』より前の1970年に吉村昭氏が発表した『海の壁』を改題したこの本は、特定の津波ではなく、歴史上、三陸地方で何度となく発生した津波被害について書いている。
読んだのは1ヶ月以上前なんだけど、レビューを書く時間がまったくなかった。
主に取り上げられているのは、明治29年・昭和8年・昭和35年(チリ地震)の津波だが、他にも記録に残った主だった津波も紹介されている。その記述によれば、三陸地方には西暦869年(いわゆる貞観津波)、1585年、1611年(慶長三陸地震)、1616年、1651年、1676年、1677年、1687年、1689年、1696年、1716〜36年(享保年間)、1751年、1781〜89年(天明年間)、1835年、1856年、1868年、1894年、1896年(明治29年)、1933年(昭和8年)、1960年(昭和35年)に津波が起きているという。
これは歴史的な記録に残った津波だけなので16世紀以降の500年に集中しているけど、もちろんそれ以前にも貞観津波以外の津波は発生していたと考えられる。
これらの津波では必ずしも毎回人的被害が出たわけではないけど、それでもいまよりはるかに人口が少なかった時代に1,000人単位での死者を出した津波被害が、少なくとも直近500年間で何度も繰り返されている。
そのたびに、当時の人々は石碑を建てたり証言を集めて書物にまとめたり、後世にその教訓を残そうとつとめている。
津波が来る場所に家を建ててはいけない。地震がきたらとにかくすぐに高台に避難しなくてはならない。
にも関わらず、7年前のあの日、それらの教訓が生かされないまま、亡くなった人が多くいた。
人はどうして、学ぶことができないのだろう。
この7年間、震災の被害にあった地域を何度も訪問し、被害にあった人・あわなかった人を含めさまざまな方々と接する機会があった。
行政や民間に限らずあらゆる組織の復旧・復興へのとりくみを目にしてもきたけれど、果たしてつぎに同じことが起こったとき、この未曾有の大災害をしらない世代の人が命を落とさずに済むように、少しでも被害をくいとめるために、ほんとうにやるべきことがすべてできているとは、まだ思えないでいる。
昨日3月9日、石巻専修大学で催されたシンポジウムにゲストスピーカーとして招聘された原田浩氏(広島平和記念資料館元館長)が、元ドイツ大統領リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー氏の1985年の演説から引用した言葉がある。
「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」(原典)
またカンヌ国際映画祭でアイルランド独立戦争を描いた『麦の穂をゆらす風』でパルムドールを獲得したイギリスの名匠ケン・ローチ監督も、受賞スピーチで似たことをいっている。
「過去について真実を語れたならば、私たちは現在についても真実を語ることができる」(出典)
彼らは戦争について語ったけれど、同じことが、災害にもいえると個人的に思っている。
7年前のあの大災害は、確かに悲惨だった。
もう思い出したくない、忘れたい、という人がいて当たり前だと思う。そういう気持ちは否定されるべきじゃない。
でも一方で、なぜか語ることすら許されず闇に葬られようとしている事実もある。それを見過ごしにしていいとは、絶対に思えない。
とりつくろい、耳に心地いい、見た目にうまくまとまった「悲劇のストーリー」にパッケージされた“事実”の背後で起こりがちな、見落とされ繰り返されがちな過ちにこそ、ほんとうにたいせつにされなくてはならないことが数えきれないほどある。
問題は、人の注目が集まらないことをいいことに、そうした“不都合な真実”をなかったことにしようとする勢力は常に権力側にあることだ。
だからこれは、民主主義の問題でもある。
なぜだかこの国ではあまり歓迎されない、民主主義を貫くための葛藤だが、人が人の命をまもろうと真実を明らかにする戦いを、誰にも、嗤ったり嘲ったりしないでほしいと思う。
その行為がどんな風に見えるかなんて、正直にいえばどうだっていいと個人的には思っている。
だけどそこに吹く風のあまりの冷たさには、どうしても理不尽さを感じてしまう。
なんでだろう。どうしてだろう。
『三陸海岸大津波』自体はボリュームは少なめだが津波を生き延びた人々の生々しい証言が多く掲載され、また取材で何度も三陸を訪問した吉村氏のこの地への深い愛情も感じられ、資料としても読み物としても驚くほど読みやすい本だと思います。
三陸って、東北ってホントにいいところなんだよね。単純に、もっとたくさんの人にきてほしいなあと思います。
石巻専修大学の武道場。
震災直後、ここに全国からの支援物資が集められ、管理されていた。
私はこの武道場の向かって左側の壁沿いにたてられたテントで炊き出しの糧食を調理していた。水道も電気もなかった。寝起きしていたのは後ろに見える鉄塔の下に設置したテント。朝から晩まで立ち通しの肉体労働にも関わらず、寒くて毎日ほとんど眠れなかったことをよく覚えている。
復興支援レポート
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『関東大震災』より前の1970年に吉村昭氏が発表した『海の壁』を改題したこの本は、特定の津波ではなく、歴史上、三陸地方で何度となく発生した津波被害について書いている。
読んだのは1ヶ月以上前なんだけど、レビューを書く時間がまったくなかった。
主に取り上げられているのは、明治29年・昭和8年・昭和35年(チリ地震)の津波だが、他にも記録に残った主だった津波も紹介されている。その記述によれば、三陸地方には西暦869年(いわゆる貞観津波)、1585年、1611年(慶長三陸地震)、1616年、1651年、1676年、1677年、1687年、1689年、1696年、1716〜36年(享保年間)、1751年、1781〜89年(天明年間)、1835年、1856年、1868年、1894年、1896年(明治29年)、1933年(昭和8年)、1960年(昭和35年)に津波が起きているという。
これは歴史的な記録に残った津波だけなので16世紀以降の500年に集中しているけど、もちろんそれ以前にも貞観津波以外の津波は発生していたと考えられる。
これらの津波では必ずしも毎回人的被害が出たわけではないけど、それでもいまよりはるかに人口が少なかった時代に1,000人単位での死者を出した津波被害が、少なくとも直近500年間で何度も繰り返されている。
そのたびに、当時の人々は石碑を建てたり証言を集めて書物にまとめたり、後世にその教訓を残そうとつとめている。
津波が来る場所に家を建ててはいけない。地震がきたらとにかくすぐに高台に避難しなくてはならない。
にも関わらず、7年前のあの日、それらの教訓が生かされないまま、亡くなった人が多くいた。
人はどうして、学ぶことができないのだろう。
この7年間、震災の被害にあった地域を何度も訪問し、被害にあった人・あわなかった人を含めさまざまな方々と接する機会があった。
行政や民間に限らずあらゆる組織の復旧・復興へのとりくみを目にしてもきたけれど、果たしてつぎに同じことが起こったとき、この未曾有の大災害をしらない世代の人が命を落とさずに済むように、少しでも被害をくいとめるために、ほんとうにやるべきことがすべてできているとは、まだ思えないでいる。
昨日3月9日、石巻専修大学で催されたシンポジウムにゲストスピーカーとして招聘された原田浩氏(広島平和記念資料館元館長)が、元ドイツ大統領リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー氏の1985年の演説から引用した言葉がある。
「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」(原典)
またカンヌ国際映画祭でアイルランド独立戦争を描いた『麦の穂をゆらす風』でパルムドールを獲得したイギリスの名匠ケン・ローチ監督も、受賞スピーチで似たことをいっている。
「過去について真実を語れたならば、私たちは現在についても真実を語ることができる」(出典)
彼らは戦争について語ったけれど、同じことが、災害にもいえると個人的に思っている。
7年前のあの大災害は、確かに悲惨だった。
もう思い出したくない、忘れたい、という人がいて当たり前だと思う。そういう気持ちは否定されるべきじゃない。
でも一方で、なぜか語ることすら許されず闇に葬られようとしている事実もある。それを見過ごしにしていいとは、絶対に思えない。
とりつくろい、耳に心地いい、見た目にうまくまとまった「悲劇のストーリー」にパッケージされた“事実”の背後で起こりがちな、見落とされ繰り返されがちな過ちにこそ、ほんとうにたいせつにされなくてはならないことが数えきれないほどある。
問題は、人の注目が集まらないことをいいことに、そうした“不都合な真実”をなかったことにしようとする勢力は常に権力側にあることだ。
だからこれは、民主主義の問題でもある。
なぜだかこの国ではあまり歓迎されない、民主主義を貫くための葛藤だが、人が人の命をまもろうと真実を明らかにする戦いを、誰にも、嗤ったり嘲ったりしないでほしいと思う。
その行為がどんな風に見えるかなんて、正直にいえばどうだっていいと個人的には思っている。
だけどそこに吹く風のあまりの冷たさには、どうしても理不尽さを感じてしまう。
なんでだろう。どうしてだろう。
『三陸海岸大津波』自体はボリュームは少なめだが津波を生き延びた人々の生々しい証言が多く掲載され、また取材で何度も三陸を訪問した吉村氏のこの地への深い愛情も感じられ、資料としても読み物としても驚くほど読みやすい本だと思います。
三陸って、東北ってホントにいいところなんだよね。単純に、もっとたくさんの人にきてほしいなあと思います。
石巻専修大学の武道場。
震災直後、ここに全国からの支援物資が集められ、管理されていた。
私はこの武道場の向かって左側の壁沿いにたてられたテントで炊き出しの糧食を調理していた。水道も電気もなかった。寝起きしていたのは後ろに見える鉄塔の下に設置したテント。朝から晩まで立ち通しの肉体労働にも関わらず、寒くて毎日ほとんど眠れなかったことをよく覚えている。
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