落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

闇の男たち

2008年09月10日 | book
『児童性愛者―ペドファイル』 ヤコブ・ビリング著 中田和子訳
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かつてデンマークに実在した児童性愛者協会に1年間潜入取材をし、2000年に『デンマークの児童性愛者たち』という番組を放送、セーブ・ザ・チルドレンから子ども人権賞を贈られたジャーナリストの体験手記。
著者はまず協会に取材を正式に依頼し、拒否された後に児童性愛者になりすまして会合に出席、会員の数人に接近して彼らが犯している違法行為の物的証拠と情報を引き出し、それを元に被害者を捜しあててインタビューをとり、インドで仲介人の証言と子どもを監禁している売春宿の撮影にも成功した。番組の放送日が決まってから協会に改めて取材を申込んだうえで警察に通報、放送当日に会員2名が逮捕されるという事件に発展している。
著者は取材にあたってとくに変わったことは何もしていない。ジャーナリストとして出来る限りのことをし、取材に応じた被害者に報いられるだけのことをした。彼に出来たことがなぜ政府に出来なかったのかという義憤は当然のように感じられるものの、本文中ではさほど強調はされていない。
それよりも本全体にいやというほど満ちているのは、自分以外の他人を演じていることを周囲の人間に隠して生活する“潜入”の苦しみと、児童性愛者という到底受け入れがたい性的指向を持つ人々との精神的ギャップによるすさまじいストレスだった。

先日、某NGOのトークイベントに参加したとき、ぐりが「児童性愛者にも性的な妄想で興奮するだけの自由はあるし、大体、彼ら全員が犯罪者とは限らない」と発言したところ、顔色を変えて「だからといって誰かを傷つけてもいいというものではない」と反論した女性ボランティアがいた。
大変申し訳ないが、ぐりには彼女のような正義感にはあまり共感できない。それをいうなら、決して誰も傷つけないで生きている人間なんかこの世に存在しないではないか。それに、ポルノ以外のあらゆる頒布物も含めて、どこからが児童性愛者の欲望の対象になり得るのかというはっきりした境界も存在しない。その可能性があるものすべてをこの世から抹消するなどまったく現実的ではないし、それが可能な社会は既に民主国家ではない。警察国家である。
それ以前に、どんな問題であっても、相手と自分が完全に関わりがないと決めつけることが偏見であり、偏見があるところに必要なだけの議論は生まれないはずだ。
たとえば、子どもの澄んだ瞳やすべすべした肌や綺麗な髪の毛、やわらかくてあたたかな身体を美しいと思う感覚は誰にでも容易に理解できるだろう。数十年の人生で、それらに性的な欲求を感じるようになる可能性は絶対ゼロとはいえない。人生何が起こるかなんて誰にもわからないのだから。それが自分自身に起こらなくても、ごく身近な人、友人や親族にも決して起こらないなど、誰に断言できるだろうか。
そしてそれが起きたときの絶望的な孤独を、いったい誰が理解してくれるというのか。そんなもの理解しなくてもいい、などとはぐりは思わない。異端を排除したところで解決する問題などないのだ。

誤解のないようにはっきりさせておくが、ぐりにはとくに児童性愛者を擁護する意図はいっさいない。
この本に登場する彼らは、写真やフィルムに映っている子どもが自ら進んでその行為を受け入れているとかたく信じている。トルコやインドやタイやフィリピンやメキシコやハイチやブラジルや、とにかくそういった貧しい地域に旅行して子どもを買って虐待することが、彼らの生活を改善し教育を与える一助になっていると完全に思いこんでいる。そしてそれこそが、彼らが社会から受けている偏見と差別そのもののそっくり裏返しになっているとは露ほども気づいていない。
そんな人間に、偏見や差別について語る権利など認められようはずもない。道義がどうこう倫理がどうこう以前の問題である。ごく基本的な理屈が通ってない。
16歳で家を出るまで実の両親に性的虐待を受けていたスウェーデン女性の証言を引用する。

「(前略)私の人生は、いつも私の気持ちなどおかまいなしに通り過ぎて行ってしまったのよ。私の人生は、私の意志に反して奪われたのよ。(中略)私の父は、私の中から誠実さも自尊心も、人を信じることも奪ったのよ。私は、何も誰も信じない。どうでもいいの。何もかも、どうでもいい。私の人生なんてもう、どうだっていいの(後略)」(p157)

父親が彼女を虐待する模様を撮影した膨大な写真とフィルムは、オランダのポルノ雑誌を通じてデンマークの児童性愛者に提供されていた。児童性愛者に偽名で彼女本人を騙って手紙を書いていたのは母親である。
所有していた児童性愛者は、被写体である彼女がその行為を喜んでやっていると完全に思いこんでいたが、第三者である著者にはそうはみえなかった。そしてその20年後の証言がこれである。まあ当り前の証言である。当り前の想像力があれば、わざわざ証言など聞き出す必要もない。
結局彼らは自分の都合の良いように現実をねじ曲げ、自分でつくりあげた勝手な屁理屈の中に閉じこもっているだけだ。彼らはしばしば児童性愛を同性愛やSM趣味などと同列に論じようとするが、対象が子どもである以上、実際の行為を正当化することなど土台不可能である。彼らがどんなにそれをほんとうの愛だなどと主張したところで、子どもはいずれ子どもではなくなる。子どもではなくなった後の人生がどうなるかまで考えられない人々に、愛を語ることなど出来はしない。

この問題は単にポルノや売買春を規制するだけでは意味がない。
児童性愛者を精神障害として医学的に治療する試みも欧米では始まっているが、ぐり個人はこうした矯正医療をもっと本格的に発展させるべきだと思う。
子どもが犠牲になる性犯罪が頻発する日本では、まだこの種の医療は法制度化されていない。ほんとうに子どもを守るためには絶対に必要だとは思うのだけれど。


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