『桐島、部活やめるってよ』
高校2年生の秋、男子バレー部キャプテンの「桐島」が突然退部したことから校内に広がる波紋を描いた青春エンターテインメント。
「桐島」は県選抜選手にも選ばれるほどの名選手でかつ周囲に「何でもできる」といわしめるほどの人物で、梨紗(山本美月)という美人のガールフレンドまでいる。だが誰にも何の理由も告げずに黙って突然部活を辞め、梨紗や親友を含めた同級生たちの前から姿を消してしまう。
一方で、文化部である映画部の前田(神木隆之介)や吹奏楽部の沢島(大後寿々花)には、独自に好きなものを追いかけなくてはならない日々があり・・・。
桐島くんがまったく画面に出てこないまま、時制を前後しながら繰返し視点を変えながら描かれる、金曜日から火曜日までのお話。
やっと観れました。
ぐりの記憶では、部活やら成績やら恋人の有無/モテるモテないで校内でのステイタスが決定されてたのは中学時代だったと思う。女の子同士の無意味にべとべとした人間関係やら、無駄な噂話やら、行き場のない自己顕示欲やら、ワケのわからない感情がカオスのように渦巻いた、それはそれは狭苦しく窮屈な牢獄、それがぐりの中学時代だった。
高校はもっと個人主義的でドライで明るい校風だったので、この映画に描かれるような高校時代ではまったくなかった。なので、この映画で刺激されるのは高校時代の記憶というよりは中学時代の記憶だ。
だがしかしぐりの中学時代はそれこそ思い出したくもない記憶だらけなので、もうひとつするっと素直に共感するというわけにもいかない。
その感情の壁が、観ていてなんだかしんどかった。
けど、思春期ってそもそもそんなものだよね。なんでそこにあるんだかわかんない壁に自分からぶつかって、あるはずの出口が見つからなくて、自分で自分の首を絞めて苦しんでる。
印象的なのは、野球部なのに部活にも出ず、バスケ部でもないのにスリーオンスリーで時間をつぶす宏樹(東出昌大)のキャラクター。
桐島の親友という彼のステイタスも、桐島とほぼ同程度という設定になっているのだろう。チャラチャラと妙にめだつガールフレンド(松岡茉優)がいて、練習にも出ていないのにキャプテンには戦力として有力視されている。背が高く、物腰は鷹揚でどこかいつも余裕を感じさせる。
こういう子いたなあ、と懐かしくなるような男の子。やたら身体が大きくて、そのせいなのかどことなく大人っぽく見えて、物静かであまり感情を表に出さなくてなんとなく距離を感じさせるんだけど、友だちも彼女もいてそこそこ人気はあってという、ちょっと不思議な立ち位置の男の子。特定の誰かを思い出すというのではないんだけど、宏樹みたいな感じの同級生は確かに何人かいた気がする。
その宏樹が、クライマックスシーンで前田にカメラを向けられて一瞬見せる表情に、はっと胸を突かれた。ぐりは中高生時代に宏樹みたいなクールな同級生たちにうっすら関心はあったけど、彼らの個人的な感情になんて触れるよしもなかったから。
あの表情にどんな思いが表れていたのか。悔しさなのか、寂しさなのか、悲しさなのか、迷いなのか。でも考えてみたら、思春期なんてそういう思いに全身塗れてもがきのたうちまわってこそナンボだったような気もする。
人生のステイタスなんてほんとうは誰にも決められるものではない。
青春の勝利は、ほんとうに愛せるものに出会えること、たとえいっときでも、一瞬一瞬をかけて全身全霊で臨めるなにかに出会い、すべてを犠牲にしても夢中になれる時間をわがものにできることではないだろうか。
そんな魂の愛の炎は年齢とともに去っていってしまう。それは予想もできないくらい突然、呆気なく消えてしまう。その光と熱が失われる前に、どれだけ思う存分燃やしつくせるかどうかが肝心なのだ。そしてたったそれだけの真理に辿り着くのは、大概何もかも過ぎ去ってしまった後なのだ。
誰にリスペクトされなくても前田はその火をはっきりと燃やしていたし、宏樹はうまく点火できなかった。あるいは既に消えてしまっていた。そのことに気づいたのが、あの刹那にゆらめいた表情だったのだろう。
なぜか意味もなく泣けて泣けて仕方がなかったあのころを、思い出させてくれるワンシーンだった。
どこに出口があって答えがあってというような話では全然ないけど、思春期のリアリティがとてもよく描けてる映画だとは思う。
しかし高橋優の主題歌はよかったな。
高校2年生の秋、男子バレー部キャプテンの「桐島」が突然退部したことから校内に広がる波紋を描いた青春エンターテインメント。
「桐島」は県選抜選手にも選ばれるほどの名選手でかつ周囲に「何でもできる」といわしめるほどの人物で、梨紗(山本美月)という美人のガールフレンドまでいる。だが誰にも何の理由も告げずに黙って突然部活を辞め、梨紗や親友を含めた同級生たちの前から姿を消してしまう。
一方で、文化部である映画部の前田(神木隆之介)や吹奏楽部の沢島(大後寿々花)には、独自に好きなものを追いかけなくてはならない日々があり・・・。
桐島くんがまったく画面に出てこないまま、時制を前後しながら繰返し視点を変えながら描かれる、金曜日から火曜日までのお話。
やっと観れました。
ぐりの記憶では、部活やら成績やら恋人の有無/モテるモテないで校内でのステイタスが決定されてたのは中学時代だったと思う。女の子同士の無意味にべとべとした人間関係やら、無駄な噂話やら、行き場のない自己顕示欲やら、ワケのわからない感情がカオスのように渦巻いた、それはそれは狭苦しく窮屈な牢獄、それがぐりの中学時代だった。
高校はもっと個人主義的でドライで明るい校風だったので、この映画に描かれるような高校時代ではまったくなかった。なので、この映画で刺激されるのは高校時代の記憶というよりは中学時代の記憶だ。
だがしかしぐりの中学時代はそれこそ思い出したくもない記憶だらけなので、もうひとつするっと素直に共感するというわけにもいかない。
その感情の壁が、観ていてなんだかしんどかった。
けど、思春期ってそもそもそんなものだよね。なんでそこにあるんだかわかんない壁に自分からぶつかって、あるはずの出口が見つからなくて、自分で自分の首を絞めて苦しんでる。
印象的なのは、野球部なのに部活にも出ず、バスケ部でもないのにスリーオンスリーで時間をつぶす宏樹(東出昌大)のキャラクター。
桐島の親友という彼のステイタスも、桐島とほぼ同程度という設定になっているのだろう。チャラチャラと妙にめだつガールフレンド(松岡茉優)がいて、練習にも出ていないのにキャプテンには戦力として有力視されている。背が高く、物腰は鷹揚でどこかいつも余裕を感じさせる。
こういう子いたなあ、と懐かしくなるような男の子。やたら身体が大きくて、そのせいなのかどことなく大人っぽく見えて、物静かであまり感情を表に出さなくてなんとなく距離を感じさせるんだけど、友だちも彼女もいてそこそこ人気はあってという、ちょっと不思議な立ち位置の男の子。特定の誰かを思い出すというのではないんだけど、宏樹みたいな感じの同級生は確かに何人かいた気がする。
その宏樹が、クライマックスシーンで前田にカメラを向けられて一瞬見せる表情に、はっと胸を突かれた。ぐりは中高生時代に宏樹みたいなクールな同級生たちにうっすら関心はあったけど、彼らの個人的な感情になんて触れるよしもなかったから。
あの表情にどんな思いが表れていたのか。悔しさなのか、寂しさなのか、悲しさなのか、迷いなのか。でも考えてみたら、思春期なんてそういう思いに全身塗れてもがきのたうちまわってこそナンボだったような気もする。
人生のステイタスなんてほんとうは誰にも決められるものではない。
青春の勝利は、ほんとうに愛せるものに出会えること、たとえいっときでも、一瞬一瞬をかけて全身全霊で臨めるなにかに出会い、すべてを犠牲にしても夢中になれる時間をわがものにできることではないだろうか。
そんな魂の愛の炎は年齢とともに去っていってしまう。それは予想もできないくらい突然、呆気なく消えてしまう。その光と熱が失われる前に、どれだけ思う存分燃やしつくせるかどうかが肝心なのだ。そしてたったそれだけの真理に辿り着くのは、大概何もかも過ぎ去ってしまった後なのだ。
誰にリスペクトされなくても前田はその火をはっきりと燃やしていたし、宏樹はうまく点火できなかった。あるいは既に消えてしまっていた。そのことに気づいたのが、あの刹那にゆらめいた表情だったのだろう。
なぜか意味もなく泣けて泣けて仕方がなかったあのころを、思い出させてくれるワンシーンだった。
どこに出口があって答えがあってというような話では全然ないけど、思春期のリアリティがとてもよく描けてる映画だとは思う。
しかし高橋優の主題歌はよかったな。