落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

仁義なき工房

2008年01月20日 | movie
『ヒトラーの贋札』

第二次世界大戦末期のドイツで起きた、ベルンハルト作戦と呼ばれる史上最大規模の贋札事件を描いた歴史サスペンス映画。
すっごくおもしろかったです。
舞台が強制収容所で登場人物の大半はユダヤ人だけど、既存のホロコースト映画とはまったく雰囲気が違ってます。もちろんナチ親衛隊もでてくるし、中にはどーみても軍人っちゅーより快楽殺人犯みたいな狂ったアホもいることはいる。
けどこの映画の成功は、主人公を原作者アドルフ・ブルガー(アウグスト・ディール)ではなく贋作師サリー(カール・マルコヴィックス)に設定しているところによるだろう。ブルガーはもともと共産主義運動にも参加していた活動家でもあり、妻も両親も収容所で失うという悲惨な経験をしているし、既存のホロコースト映画なら間違いなく彼が主人公になっていたはずだと思う。理想主義的な正義漢でおまけに見事な「ドラマ・クイーン」だ。
しかしこの映画はそうはしていない。政治も戦争も民族主義も何もどうでもいい、カネと女と明日の命がすべてでそれ以外のことはまるで興味のない天涯孤独なユダヤ系ロシア人のサリーは、現代人の視点からあの戦争の狂気をとらえるのにまさにうってつけな語り手といえる。いや、あるいは『戦場のピアニスト』で仲間を見殺しにしてまでひたすら逃げ隠れていたシュピルマン(エイドリアン・ブロディ)に腹をたてた人なら、サリーの行動に歯がゆいものを感じるかもしれない。サリーは戦前から人に乞われるままにビジネスとして偽造書類をつくりつづけて世の中を渡って来た。収容所でもそうするだけなのだ。それが彼のやり方だし、彼にとっていちばん大事なのは、何がどうあろうと明日まで生きのびることでしかなかった。
けど、戦争中だっていつだってほんとうにいちばん大事なのは、サリーと同じに、明日まで生きのびることに間違いはない。

サリー本人は斜に構えたちんぴらでもあり劇中では自らあまり語らない。そのぶん、将校や他の収容者たちのキャラクターにその場の心理をうまく代弁させることで、事件に関わった当事者の複雑な心情を表現している。ブルガーのように民族主義を貫こうとする正義漢もいれば、我が身可愛さのあまり仲間を裏切ろうとする短気者もいる。天真爛漫に故郷を懐かしがる若者もいれば、死んだ家族を思って絶望してばかりいる者もいる。さまざまな価値観と世界観の激しいせめぎあい。この割りふり方が実にうまい。コレもしかして舞台演劇にするとかなりイケるんじゃないかなあ。それくらい見事にキレイに人物構成が完成している。
そんななかでも寡黙なサリーもただ冷血漢を装っているだけじゃない。彼の優しさや誠意は静かなのだ。黙ってこっそり、ってところがシブイ。クールである。
解放後の収容所のなんともいえない情景描写がまた生々しい。何も知らずに平和を安穏と生きている現代人と、戦時の異様さとの距離感を如実に感じさせる上手い演出だと思う。

音楽もオシャレだし、汚くてコワイ戦争映画は苦手、なんて人にも是非おすすめできるいい映画。おもしろいしね。
原作もこれから読んでみたいと思います。

原作:『ヒトラーの贋札 悪魔の工房』 アドルフ・ブルガー著

詩人の恋

2008年01月20日 | movie
『ハーフェズ ペルシャの詩』

ぐりが苦手な(笑)イラン映画。
端的にいうとこれは恋愛映画じゃないですね。なんかそんなよーな宣伝の仕方をされてますが。
じゃあ何かっちゅーと恋愛物語に形を借りた宗教的なお伽話とでもいいますか。ぐりはイスラム教のことはまったくわかってないので、理解にかなり不安があるんだけど。
主人公ハーフェズ(メヒディ・モラディ)は教え子ナバート(麻生久美子)と視線を交わしたというだけで罪人としてすべてを失う身になるのだが、鏡を手に7つの村をまわって処女に拭いてもらうという誓願の旅に出る。ナバートの夫(メヒディ・ネガーバン)はハーフェズを追って各地を訪ね歩くが、ふたりはなかなか巡りあえない。
ストーリー的には夫がハーフェズを探しまわるというところにちょっと強引さを感じる。これがイスラム圏の話でなければヒロインが自分で恋人を探せばいいのだが、舞台がイランでもとりわけ古い慣習の残る地方で題材が宗教的な伝統であるだけにそれができない。
いいたいことはものすごくわかるんだよね。ほんとうの信仰とは何か、人間性とは何か。人間としての誠意を守ることと、ルールとしての教義を守ることと、どちらがほんとうの人間らしい生き方か、おそらくこの物語では宗教的価値観をあえてまげずに、そういうことを穏やかに観客に問いかけようとしているのだろうと思う。
けどやっぱちょっとぐりはイマイチ楽しめなかったです。台詞で説明する場面が多過ぎるんだよね。イラン映画、やっぱちょっとムリっぽかったです。すんません。
麻生久美子はこの役どーなんでしょーね?思いっきり浮いてたけど・・・イヤ、ダメってこともないんだけど・・・。

カエルとオレンジ

2008年01月20日 | movie
『ぜんぶ、フィデルのせい』

70年代生まれのぐりよりも若い人なら誰でも、上の世代の諸先輩から学生運動やヒッピー・ムーブメントやロック・カルチャーの伝説をひけらかされた経験が一度はあると思う。
まあ、ぶっちゃけていえば、しょーじきクソクラエですわ。しらんがな、そんなもん。うちら生まれてなかったもん。生まれててもおむつしてそのへん這いずってただけだもん。どないせっちゅーねん。
みたいな。
けど、当時でもおむつはとれてた子どもにとっても、キョーサン主義なんかどーだってよかったハズ。この映画は、まさにその「キョーサン主義って何?」な小学生の視点から、70年代という激動の時代の意味をやわらかに描いている。

日本にもちょうど同じころ学生運動が激しかった時代があったけど、運動に実際に関わっていた人たちは今でいう団塊の世代。時代が変わって運動が下火になってから、彼らはいったいどこへ行ったのだろう。人数からいえばそれなりな数だったはずだ。あれだけ世界中を騒がせた社会運動の波は、世の中をどんな方向へ動かしたのか。
いや、いつだって時代は動いていて、世の中は変化し続けているのだろう。それが目に見える形であれ、見えない形であれ、永久に変わらないものは何もない。
あのころは、それがたまたま、社会運動という目に見える激しい動きになって表出していたのだろう。

人は基本的に変化を好まないという本質をもっているが、この映画の小さなヒロイン・アンナ(ニナ・ケルヴェル)はその象徴だ。
弁護士の父(ステファノ・アコルシ)と雑誌記者の母(ジュリー・ドパルデュー)はそれぞれ資産家の出身でアンナの家ももともとはブルジョワ階級に属している。両親は社会運動に参加する中で財産や生活を犠牲にし始めるが、幼いアンナにはその意義なんか理解できない。自分たちのものだったはずの生活が、意味もわからないものに奪われていくのは誰だってそうたやすく我慢できない。
だが人間には忘れるという能力があり、慣れるという能力もある。そのために、アンナには初めから知る権利と選ぶ権利も与えられている。
社会運動の意味はわからなくても、アンナは知ることと選ぶことで、忘れ、慣れていくことを勝ち取る。彼女は、人類の前進する可能性の象徴なのだろう。

社会運動を背景にした物語だが、ごくふつうのホームドラマとして、ガールズムービーとしてもめいっぱい楽しめる娯楽映画になっている。さすがフランス映画。
おもしろかったです。