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落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

みんなに愛されてるサイコーにイケてる私

2023年08月15日 | movie

『バービー』

バービーランドで完璧なガールズライフを謳歌するバービー(マーゴット・ロビー)。ある日、自分が“劣化”していることに気づき、変わり者のバービー(ケイト・マッキノン)の助言で、自分を使って遊んでいた持ち主に会うために人間の世界への旅に出かける。そこはバービーが知っていたバービーランドとは何もかもがまるであべこべで…。

子どものころ、いつだったかバービーが大ブームで、周りの女の子は誰もが1体や2体は持っているのが当たり前だった気がする。私は大して気に入ってはいなかったのだが(もともと人形が好きではない)、その後、子どもたちが遊ばなくなったバービーたちを、人形が好きな母が大事に保管していて、いまは甥っ子と姪っ子がそれを使っておままごとをしている。
そう、いまどきの男児には、女児と人形遊びをするというスキルがすごく大事なのだ。

映画は、乳幼児を模した抱き人形で遊んでいた幼女たちが、バービーの出現に触発されて、手に手に抱き人形を振り上げ、地面に叩きつけて破壊するという、『2001年宇宙の旅』のオマージュで始まる。
個人的にはこのシーンの再現度というか完成度だけでお腹いっぱい爆笑してしまったのだが、観客の中には『2001年〜』を知らなくてこのシーンの暴力性にドン引きしてしまった人もいるという。それは気の毒だなと思うと同時に、若い世代の中にはバービー人形で遊んだ経験のない人もいる昨今、この映画のターゲットは意外に限られるのでは?という気もする。

バービーランドに住むバービーたちは皆、大統領やら裁判官やらノーベル賞受賞者やらジャーナリストやら、いわゆる「夢のある社会的地位」を設定された女の子ばかりである。主人公は「Typical」版らしくとくに肩書きはないものの、何もかもが女性優位で社会を動かすのはすべて女性(バービー)で、ボーイフレンドのケン(ライアン・ゴズリング)はあくまでも「ボーイフレンドという名のアクセサリー」扱いという世界観に満足し、幸せを感じている。
だから、人間の世界では家父長制と男尊女卑が横行していて、どこに行っても男性ばかりが威張っていることに混乱してしまう。

という風に説明するとまるでフェミニズムの話みたいだけど、実はこの映画のいちばん重要なところはそこではない。
そもそもバービーは「女の子は子どもを産んでお母さんになるだけでなく、何にでも好きなものになれる」という夢を少女たちに与える革新的なおもちゃとして登場したが、結果的には過剰なルッキズムや拝金主義を助長してしまったことを、主人公バービーの持ち主の少女(アリアナ・グリーンブラット)に批判されるシーンがある。
要は、バービーはアメリカの「みんなに愛されてるサイコーにイケてる私」至上主義の象徴というわけです。

それを、ポップな音楽と衣装とファンタジー・コメディというパッケージで裏返しにして見せている。
性別や容貌や社会的ステータスや人種や言語や宗教や文化や性自認や性的指向や、そういうものの枠に自分をはめこんで生きていくのは楽しいですか。ラクですか。むしろちょっとしんどくないですか。うんざりしてませんか。めんどくさくありませんか。じゃあやめちゃいませんか。あなたはありのままのあなたで、そのままのあなたでよくないですか。

言葉にしてしまえばなんだか大したことじゃないんだけど、それを説教くさく言葉で語るのではなく、あくまで純粋な笑い話として表現してるところが、さすがハリウッドだよなと思いました。
この映画、バービーの発売元であるマテル社も製作に入っている。バービーのメーカーが、製品のブランドを否定するような映画を堂々とつくっちゃうのも、やっぱアメリカは違うぜ?なことない?

この映画、SNSをみてると刺さる人と刺さんない人の両極端に分かれるみたいですね。まあむべなるかなというところです。
実はあんまり興味なかったんだけど、映画評論家の町山智浩さんのXの投稿をみて、興味を持ちました(観て意味がわからなかった方は彼のアカウントを参照してみてください)。観たいといって誘ってくれた友だちにも感謝です。
面白かったです。

しかし上映中、劇場で誰も笑ってなかったのがちょっと不気味でした。なんでみんな笑わないんだろう…。


掌とチャイナドレス

2023年08月02日 | movie

いまはもうそれほど映画館に行かなくなったけど、一時期は年間に100本以上の映画を劇場で観ていた。
土日祝日に2本3本ハシゴするのはもちろん、映画祭の期間にあわせて有休をとって朝から晩まで会場に入り浸って、世界中の映画を片っ端から観ていた。
まあだからこのブログに映画のレビューが800本以上あるわけだけど、これは実際に観た映画の一部に過ぎない。さほどまめにレビューを書く性分ではないから、観ても書かないことの方が多かった。

わけても最も多くの映画を観ていた時期は、アジア映画、それも中国語圏の映画にどっぷりハマっていた。
中華圏映画はだいたい中国、香港、台湾を中心に製作された作品で、ちょうどその当時は日本でも香港映画がブームだった。香港映画以外にもたくさんの中華圏映画が公開されてたけど、一度ハマると一般公開作だけじゃ物足りなくて、最終的には中国人向け書店で日本未公開作のビデオを借り、中国の通販サイトで現地盤のソフトを買い漁るようになっていた。

香港映画ブームの火付け役といわれたのが、ウォン・カーウァイ(王家衛)監督の作品にポップな邦題をつけて大ヒットさせたプレノン・アッシュという配給会社。
私もごたぶんに漏れずプレノン・アッシュの配給作品を全部観てたけど、やがてブームは去り、リーマン・ショックや日中関係の悪化といった社会情勢の影響をうけて、日本で公開される中華圏映画は激減してしまった。プレノン・アッシュは10年ほど前に倒産した。
そしてそのころには、私自身のライフスタイルも大きく変わり、以前のように熱心に映画を観なくなっていった。

今日観た2本は王家衛の旧作5本のBlu-rayが発売されたのにあわせて4Kリマスター版が再映されている。
どちらも2004年の公開時に劇場で観たはずなのに、あまり記憶に残ってない。なんでかはわからん。

『花様年華』

1960年代の香港。
同じアパートの隣同士に同じ日に越してきたチャウ(トニー・レオン/梁朝偉)とスー(マギー・チャン/張曼玉)。やがてふたりはチャウの妻とスーの夫が不倫関係にあることに気づき、傷ついた者同士、静かに心を通わせるようになっていく。
『欲望の翼』から『2046』までの三部作のうちの1本。世界各国の映画祭でなんかいっぱい賞獲ってました。

最近あんまり恋愛映画を観なくなってるけど、久しぶりに観るといいもんですね。恋愛。ドキドキ。ときめき。
といっても、この作品はどちらかといえば、人に恋をする、誰かを愛することの苦しみや葛藤に重きを置いて描かれている。チャウもスーも既婚者だけど、ふとした瞬間に通じあう何かを感じとり、自然に引き寄せられていく。その力には争いがたく、どうしようもなく相手を必要としているのに、己のプライドを前に感情に流されることができない。夫に浮気された人妻の悲しみと恋心の狭間で煩悶するスーと、自身も既婚者であることを棚に上げて隣の奥さんにぐいぐい迫ろうとするチャウの対比が、男女間の埋めがたい距離を如実に再現している。

なので、ふたりとも初めから終わりまでめちゃくちゃくよくよしている。ひたすらくよくよ。いろんなくよくよが、ありとあらゆる角度で微に入り細にわたって緻密に繊細に描写される。それを象徴しているのが、この作品独特の映像美と音楽です。
王家衛作品といえば、鏡やカーテンや窓など複合的なレイヤーと反射を使った画面構成が毎度の特色だけど、この作品ではそこに狭い廊下や階段や坂道という、視界を縦に遮るロケーションが多用されている。
チャウとスーはこの狭い空間で何度も何度も繰り返しすれ違う。身体が触れあうほどの近距離にいるのに、自ら手を伸ばして触れることは叶わない。
観ててもだもだすることこの上ない。そこが味なんだよね。恋ってもどかしければもどかしいほど味わい深いもんだよなあなんて、大した経験もないのに妙に共感してしまう。

王家衛組の美術監督、ウィリアム・チョン(張叔平)のミッドセンチュリーモダンてんこ盛りの美術と衣装が眩しいほど美しい。とくにマギーをはじめ女性陣が着用している超オシャレなチャイナドレスがピタピタにボディラインくっきりです。マギーがとっかえひっかえいろんなドレスを着て画面を行ったり来たりするだけで、すらりとしなやかな神プロポーションに釘づけになってしまう。この映画のテーマの半分はマギーのボディラインへのフェチズムなんではないかと思う。間違いない。
とにかくマギーが綺麗。そしてトニーがセクシー。ふたりとも大好きな役者さんです。しばらく観てなかったけど、やっぱサイコーですわ。ええわあ。

画面上の視界がとことん遮られまくってるせいもあって、登場人物の一部はなかなか顔が映らない。そんなギミックも、やっぱお洒落です。


『若き仕立屋の恋 Long version』

1960年代の香港(再び)。
高級娼婦とテーラーの見習いという関係で出会ったホア(コン・リー/鞏俐)とシャオチェン(チャン・チェン/張震)。初対面の際に起きたある出来事から、シャオチェンはホアの虜に、ホアはシャオチェンの得意先となり、年を経て、別れと再会を繰り返していく。
もともとは『愛の神、エロス』というオムニバス映画の王家衛パート『エロスの純愛〜若き仕立屋の恋』のロングバージョンだけど、スティーヴン・ソダーバーグとミケランジェロ・アントニオーニのパートは完全に忘れてまーす…。

これは原題が『愛神 手』で英題が『The Hand』なので、ばっちりがっつり手フェチの映画です。といっても手フェチの話ではない。
ホアは高級アパートで暮らしつつ、パトロンに与えられた金銭でファッショナブルなチャイナドレスを次から次へと仕立てさせる。シャオチェンはホアの身体を採寸し、丹精こめて一針一針、華麗な衣裳を縫い上げていく。
ホアの手は男性を悦ばせるための、シャオチェンの手は愛と情熱をドレスに形づくるためのツールで、この映画の中では、二人が向いあう「顔」のような役割を果たしている。

鞏俐の手がまるで白魚のように美しい。シャオチェンは彼女の手と、採寸で触れた彼女の肉体とその香りの記憶に縛られている。でも縛られているシャオチェンは寂しそうなようでなんだか満たされて、幸せそうにも見える。きっと彼にとって、記憶の中に大事にしまった彼女のパーツこそが、誰にも奪えず触れさえもできない、彼だけの宝物だったのではないだろうか。
シャオチェンはどこかで、初めから、自分がホアのそばにいてもいっしょに幸せにはなれないことを知っていたようにも思える。それでも彼は彼女を心底愛した。女神のように崇めた。独りよがりといえばそれまでだが、そんな愛の形もあってもいい。悲しい愛だといって憐むのは何か違う。孤独なようで、切ないようで、そこまで人を愛することができたシャオチェンは、彼女の記憶をよすがにあたたかい人生を過ごせたのかもしれない。

張震もすごい大好きな役者さんですがこの人はホントに全然変わらないね。梁朝偉もそうなんだけど、なんとなく少年っぽくて、大人の色気もあって、雰囲気満点で、ミステリアス。
この映画にも美麗で豪華なチャイナドレスがしこたま登場します。ホアの生業柄、どのドレスもラインストーンやビーズや刺繍やシアー素材がふんだんに使われたセクシーなデザインばかり。そもそもがチャイナドレスのテンプレート自体がボディコンシャスなんだけど。
チャイナドレス=旗袍はもともとは清朝の満州族が用いた騎馬用の装束で、袖幅がゆったりしてシルエットもストンと直線的な長い丈の上衣の下にパンツ的なものをあわせてたのが、西欧化に伴ってだんだんタイトに露出度も高くなっていって、1960年代以降は流行らなくなっていったという。
ということは、『花様年華』や『若き仕立屋の恋』の裏テーマは、チャイナドレスブームの最後のピークをスクリーンに映しとることだったのかもしれない。

ホアとシャオチェンの手と手が触れるシーンがほんの少しだけある。
苦しい哀しいシーンなのに、手のひらと肌のぬくもりや感触がじんわりと伝わってきて、この、人と人とが共有する触覚の間に流れるものこそが、至上の愛だということに気づかされる場面。
そんなシンプルな愛の真髄が、心の深いところにしんしんと伝わる作品でした。

 


小学校の羅生門

2023年06月18日 | movie

『怪物』

夫を亡くし、一人で長男・湊(黒川想矢)を育てている早織(安藤サクラ)。
5年生になって身長が伸びてきた湊が、突然自分で髪を切ったり、スニーカーを片方だけ失くしたり、学校で擦り傷を負ったりしたことから、担任の保利(永山瑛太)から体罰やいじめを受けているのではないかと、学校に確認をとろうとする。だが学校で顔をあわせた校長(田中裕子)も保利も他の教諭も、早織の追求にはまともに答えることなく、はぐらかすばかりで…。
人気脚本家・坂元裕二のオリジナルを是枝裕和が演出。第76回カンヌ国際映画祭で脚本賞とクィア・パルム賞を受賞。

ネタバレかどうかはさておいて、これからこの映画を観ようかなと思ってる人は、このレビューは読まないほうがいいと思います。ただ、誰がどこから観ても損はない作品です。そこは保証します。何しろ坂元裕二で是枝裕和だから。間違いない。

物語はシングルマザーの早織の視点から始まる。
仕事に子育てに家事に追われる早織はみるからに忙しそうで、それでも息子のことをとても気にかけている。といって、過保護というのとも違う。息子のよき理解者でありたい、わが子に心身ともに幸せでいてほしい。優しく、素直で、同時に毅然として、気持ちのいいお母さんだと感じる。
ところが、学校側からはそうは見られてはいない。何しろ学校側からすれば保護者は「クライアント=お客様」であって、対等ではないからだ。
じゃあどう見えているのか。

ごく簡単にいえば、この映画は小学校という閉じられた社会を舞台にした「羅生門」の話だ。
児童と保護者と教師と校長という名の官僚は、子どもを安全に健康に育んでいく協力者という意味で同じ立場にいるチームメイトだ。それなのに、彼らの間のパワーバランスはどこかいびつに歪んで、真ん中にいるはずの児童の存在そのものがいつの間にか問題の外に弾き出されてしまう。それぞれに捉えている事実の様相すら完全に食い違っていく。このえもいわれず奇妙な人間関係の構造描写が、もうめちゃくちゃにリアルだった。生々しかった。

本来、人は、どんなときであっても、お互いに対等にきちんと向き合って、相手の言葉に真摯に耳を傾けあえば、どうにかこうにか幾らかは理解しあえるはずだと思う。
そんなの綺麗事だ。無理なものは無理だろう、という人もいると思う。それはそれで構わない。そういう捉え方があっても構わない。
けど、じゃあなぜ人間には耳があって、頭があって、言葉があるというのだろう。
わかりたい、わかりあいたいという意思があって、互いに尊重しあうことができるなら、両者の間の壁をいくらか崩すとか、壁越しに体温を感じるとか、そのくらい近づくための能力ぐらいは手にしていると思ってもいいんじゃないだろうか。

だが、この映画の登場人物は誰ひとり、それができていないのだ。

早織は思春期にさしかかった息子のそばに寄り添っているつもりで、彼のほんとうの心の内には触れることができないでいる。小学校5年生という微妙な年ごろだから仕方がないといえば仕方がない。
保利はクラスの揉め事をあくまで穏便に収めることが、物分かりの良い教師として児童に信頼される姿勢だと思いこみ、教え子たちの間で実際に何が起きているのかは知ろうとしないし、知る必要性すら感じてもいない。
湊はいじめられっ子の依里(柊木陽太)に特別な感情を抱きながらも、学校の中では依里と言葉を交わすことすら躊躇する。仲良くしているのがバレたら、自分もいじめられるかもしれないからだ。

そこには、本質というものがない。まったくない。きれいさっぱり、抜け落ちている。

けど、彼らはどこも何も特別ではない。
だいたいみんなこんなもんじゃないの?そうじゃない?
私も、あなたも、彼らの立場にたったとき、これ以上の何ができる?
ほら、これが普通じゃない?
みんな、本質とやらに触れるのを、無意識に怖がり過ぎてないですか?

ただ、「普通」でいたいから。

湊も依里も、自分は「普通」ではないと気づいてしまっている。
「普通」じゃない自分が、これからどうなるのか、どこに向かっているのかが、わからない。

ほんとは、「『普通』なんかじゃなくてもいいから、そのままのあなたのままで、幸せになろう。なれるよ」というたった一言があればいいだけなんだけど。
どうしてそれが、出てこないんだろうね。
それが、親とか、教師とか、そういう役回りの“業”なのだろうか。
だとしたら、あんまり悲しくないですか。
寂しくないですか。
しんどくないですか。

 

 


あなたは誰

2022年12月14日 | movie

『ペルシャン・レッスン 戦場の教室』

1942年、フランスでナチに捕まったユダヤ人の青年(ナウエル・ペレーズ・ビスカヤート)は護送車の中で偶然隣に座った青年からねだられて、ポケットのサンドイッチをペルシャ語の本と交換する。直後に同乗していたユダヤ人は森の中で全員引きずり下ろされ次々に銃殺されるが、青年は持っていた本を証拠に「ユダヤ人じゃない。ペルシャ人だ」と嘘をついて、生きて収容所に連れて行かれる。収容所のコッホ大尉(ラース・アイディンガー)がペルシャ語を教えてくれるペルシャ人を探していたからだった。青年は毎日大尉に架空のペルシャ語を教え続けることで生き残ろうと試みるが…。

あなたは、いつ何をもってして自分がどこの誰で何という国の人だ、ということを知りましたか。そのときのことを覚えていますか。
私はめちゃくちゃ強烈に覚えている。
あれは小学校3年生の冬の朝で、母に台所のストーブの前に呼ばれてこういわれたのだ。
「あのな、あんたは日本人やなくて、朝鮮ゆう国の人なんや。そのことで、これからつらいことがいろいろあると思う。でもお父さんもお母さんも、おじいさんやおばあさんに生んで育ててもろうた義理がある。そやからあんたも堪えてちょうだい」

その一言一句、母の強張った表情、わずかに震えていた声音や、着ていたウールの服の肌触り、冷えた朝の空気、ストーブの上のやかんや時計がたてる音や台所の風景を、いまもくっきりと思い出すことができる。

いわれて私は素直に「そうか。それなら仕方がない」と事実をうけとめた。
以来、在日コリアンであることを理由になんやかんやと面倒なことやしんどいことを数限りなく経験してきたが、在日コリアンであること自体を恥じたことも、恨んだことも一度もない。なぜなら私が在日であることも、両親が在日に生まれたことも、誰にもどうしようもないことだからだ。在日だからこそ知ることや感じることもある。それは在日でなければわからないことでもある。ある意味ではちょびっと恵まれていると捉えることもできる。

主人公はユダヤ人でありながら出自を偽り、ペルシャ人になりすますことで生き延びようとするが、言い方を変えれば、彼がどこ出身の誰で何を信仰してるかなんて、実のところほとんど深い意味はないということにもなる。
演じたナウエルさんは黒髪でうっすらユダヤ人っぽい外見ではあるが、実際にはアルゼンチン出身である。逆にユダヤ人でも明るい髪色の人もいるし、一見してフランス人やロシア系に見える人もいる。敬虔なユダヤ教信者でユダヤ人独特の黒い帽子をかぶって黒い長いジャケットを着てもみ上げを伸ばしてる人もいるし、シナゴーグなんか生まれてこの方いっぺんもいったこともなければ見たこともないなんて人もいると思う。
つまりユダヤ人のユダヤ人たる定義なんてそこまで大した根拠なんかないということもできるし、他の人種や民族にも同じようなことがいえるのではないだろうか。例えば、民族学とか遺伝学といった学問上の日本人の定義も、視点によって全然違ったりするんじゃないかと思う。

この映画では「父がベルギー人で母がペルシャ人(逆だったかも)」「ペルシャ語は家で話してただけで読み書きはできない」とかなんとかいう口から出任せの言い訳が主人公をペルシャ人であると定義づける。なんでそんな無茶ができたかってやっぱ本物のペルシャ人に誰も会ったことがないからだよね。答え合わせのしようがない。
といってもじゃあ大尉のペルシャ語の先生として安泰…なんてわけもなく、ちょいちょいピンチは訪れる。でたらめのペルシャ語を教えるわけだから大尉が覚えるのと同じだけ、先回りして架空のペルシャ語の単語をつくって覚えなきゃいけない。いきなり大量の単語を教えろと強要されたり、同音異義語のつもりで口にした一言で大尉が逆上しちゃうこともある。そのたびに観てるこっちは超ハラハラドキドキします。このスリルがなんともいえない。

なんともいえないのは主人公も同じで、収容所では同朋たちがきつい肉体労働でこき使われた挙句に銃殺されたり、まとめて絶滅収容所に送られたりして死んでいくのに、自分ひとりが生き残らなくてはならない。誰にも心を開くことができないから常に孤独。架空のペルシャ語のレッスンは緊張感MAXで、いくら命がかかっているといっても精神的にそう長く耐えられるものではない。いつどうなってもおかしくないというギリギリの状況が延々続く。
めちゃくちゃおもしろい。

けどそこはやはりホロコースト映画なので、最後の最後、涙なしには到底観られないシーンで終わる。
ほんとに切なくて、苦しくて、ホロコーストがどれだけ非人間的だったか、人をユダヤ人とアイデンティファイすることでその人間性をどれだけ否定したかという罪深さが、しんしんと心に響いてくる。

この物語が悲しければ悲しいほど、レイシズムがいかに滑稽で無意味なことかという真理の深みを感じる。
誰がどこの誰だって別になんだっていいじゃないですか。
お互い譲りあって、ほんのちょっとうまく助けあったり、バランスを取りあったりして暮らしてけばいいだけなのに。
なんでそれがこんなに難しいのかがわからない。わからないことが、また悲しい。

 

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それでいいのか日本映画

2022年12月10日 | movie

『ラーゲリより愛を込めて』

1945年8月9日、満州へのソ連侵攻で家族と離れ離れになった山本幡男(二宮和也)は捕虜となり、シベリアの強制収容所に送られる。ロシア語に堪能な彼はソ連軍の通訳を務めていたが故に捕虜仲間に不審の目を向けられるようになってしまう。
冬は氷点下にもなる寒さの中、ろくな食料もなく重労働を強いられる抑留生活で何人もの仲間が次々と命を落とし、誰もが絶望感に苛まれる収容所で必死に皆を励まし、勇気づけ続けた山本だが…。
第21回大宅壮一ノンフィクション賞、第11回講談社ノンフィクション賞を受賞した辺見じゅんの原作を瀬々敬久が映画化。

このブログで毎度断ってますが、私は在日コリアンです。
そのことを如実に感じたのが小学校1年生のときで、夏休みの宿題で読書感想文ってありますよね。
当時確か1〜2年生の課題図書が「かわいそうなぞう」で、同級生はみんなこの本を買ってもらってたんだけど、うちの両親は頑なに「これはダメ」といって買ってくれず、「あんたはもっといい本が読めるでしょ」と別な本を押しつけられた。何の本だったかは全然覚えてない。たぶん上の学年の課題図書だっんじゃないかと思う。

確かに私は3歳ごろから自分で本を読み始め、小学校に入るころには中〜高学年の子ども向けの児童文学全集を読むようになっていたから、その子に今更絵本はな〜という親の感覚はいまにして思えばよくわかる。
けどそれはそれとして、小学校1年生といえば何でも「みんなといっしょ」がいい年ごろ。その気持ちを全否定されて寂しかったことは強烈に覚えている。うちはどうも他所の家とは違うらしい、ということも感じていた。

このころ、私は自分が日本人ではなく在日コリアンであることを聞かされていなかったが、後年、そのことを親から告げられたとき、反射的に「かわいそうなぞう」のことを思い出した。

両親は、日本社会に蔓延る「悪いのは戦前の政府で、庶民はあくまで戦争の被害者」というセンチメンタルな戦争エンタメを、物心ついたばかりの児童に与える学校教育に強烈な反発心を抱いていたのだろう。
もちろん、当時わずか8歳だった私にはそんなことまでは理解できなかったけど、普段読んでいた新聞や雑誌(字が書いてあれば何でも読み漁りまくっていた)を通して、戦前〜戦中の日本がアジア太平洋諸国にどんな仕打ちをしてきたかはすでに知っていた。
素直に、「だから、お父さんお母さんは『かわいそうなぞう』が嫌いなんだ」と思い当たった。

『この世界の片隅に』がめちゃくちゃ大ヒットしたときも思ったんだけど、日本の戦争映画ってホントに世界観が狭い。めっちゃ狭い。
旧政府に軍国教育を強要され、洗脳され、振り回された庶民の皆さんのご苦労は大変なものだっただろうと思うし、無差別に爆撃された町で多くの方々が無残な死を遂げたことは悲しいし、出征したご家族や原爆でお身内を亡くされた方々や、戦争の影響で長い間苦しみ続けた方々のお気持ちは想像するに余りある。
それを文学や映像作品として世に問いたい、観たいというニーズは理解できる。

でも、それだけじゃないんだけどな、と思ってしまうのだ。

日本社会が、旧日本政府が何をやらかしたのか、どうしてそうなったのかをちゃんと総括してこなかったんだからしょうがないじゃないか、という人もいるだろう。
そういうご意見もわかる。
けど、ずっとそのままでいいわけないよね、とも思う。

日本はいま、格差と貧困に喘ぐ国民から搾り取ったカネで軍備を増強しようとしている。
基本的人権と平和を保障する憲法もいつまでもつかわからない。与党の改憲案では基本的人権は丸ごと削除され、政府が国民の自由を好き勝手に制限できるようになっている。このまま放っておけば、憲法はあっさり改憲されてしまうだろう。それが既定路線だということに多くの人が気づいている。
にもかかわらず、この異常事態を本気で打破しなくてはならないという気運はどこからも盛り上がってはこない。

この映画では、一介の満鉄職員だった男が辿った過酷な運命と、それでも生きようと、帰国の日を信じてたたかった人々の凄惨なシベリア抑留生活が緻密に再現されている。
実際に大変な環境で撮影されたんだろうなとは思うし、出演者はほんとによく頑張ってると思う。そこは素晴らしいと思う。とりわけ、主演の二宮くんの潤んで透き通った瞳がどんなに苦しいシーンでも宝石のようにキラキラと輝いていて、山本幡男という人の純粋さを美しく表現しているように見えたのには流石の表現力を感じました。
でも同時に、物凄い違和感も感じる。瀬々さんってこんな監督だっけな?という疑問符が、観ている間中、頭の中でぐるぐる回っていた。

だってなんかすっごい段取り調なのよ。全体的に。
画面上では、ホラ可哀想でしょ、気の毒でしょ、寒そうでしょ、お腹すくよね、大変だよね。ね。ね。という一方的で一面的な場面がひたすら続いていく。
それで感動できる人ももちろんいるだろうと思う。すごい規模の作品だし豪華キャストだし。まあある程度のヒットは間違いないでしょう。場内の観客はみんなめっちゃ泣いてたし(劇場売店でいろんなグッズがてんこ盛りで売られてたのにはドン引きしたけど)。
けど、この一本調子な表現では、山本さんご一家の運命がなぜこんなにも苛酷なのか、いまなぜこの物語を大作映画として世に送り出さなくてはならないかという意義は、どこからも響いてこない。

山本さんは満州で暮らしていた。日本が侵略し傀儡政権としてつくられた国で、この物語は始まったのだ。
にも関わらず、映画には中国人がまったく出てこない。
ご家族が引き揚げに苦労したらしいことはチラッとセリフには出てくるけど、その道程は決して日本が犯した罪とは無関係ではなかったはずだ。
そういう背景情報が、この映画からはきれいさっぱり削除されている。
気の毒で惨めで、それでも人間の尊厳をまもろうと命をかけた人の残酷な宿命だけが、お涙頂戴メロドラマとして淡々と展開していくだけだ。

日本の侵略がなければこのドラマはなかった。
それを排除して観客を感動させようという魂胆が白々しい。
残念だけど、その一言に尽きます。
申し訳ないけど。


関連レビュー
『この世界の片隅に』
『クラウディア 最後の手紙』蜂谷弥三郎著
『近衞家の太平洋戦争』近衞忠大・NHK「真珠湾への道」取材班著
『プリンス近衞殺人事件』V.A.アルハンゲリスキー著 瀧澤一郎訳

原作(これから読みます)