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落穂日記

映画や本などの感想を主に書いてます。人権問題、ボランティア活動などについてもたまに。

当事者って誰だ

2009年01月31日 | lecture
ピープルズプラン研究所主催「一度に読み解くセックスワークと人身取引」の第4回<人身取引禁止動向とアメリカの影>に行って来た。

今回の話題は前回と次回のつなぎみたいなもので、議題としては地味とゆーかゆるい話が多かった。
でもつなぎはつなぎでも結構重要な話だったりもする。

*冷戦終結とともに拡大した経済のグローバル化。
90年代以降に顕在化した移動労働問題の背景にはこれに伴う情報(ライフスタイル)の拡散がある。
そこにはやはり冷戦終結とともに普及したインターネットの存在がある。
インターネットがもともと軍事用に開発された情報技術だったことは知られているが、冷戦が終わって情報統制が解除され一般に開放されたのがこの新しいメディアの発達のそもそもの出発点である。

*人身取引の国際問題化。
国連で国際組織犯罪防止条約・人身取引議定書が採択されたのは2000年。
人の自由な行き来をも制限する非民主的なこの条約の効力が飛躍的に拡大したきっかけは、翌年に起きたアメリカ同時多発テロだった。
日本では2004年に人身取引対策行動計画が策定され、2005年に刑法に人身取引罪が追加された。
ちなみに日本には「日本人を国外へ売っちゃあいかん」とする法律はもともとあったのだが、「海外から人を買って/連れて来て売ってはいかん」とゆー法律はなかったそうだ。

*その人身取引対策行動計画のきっかけになったのは、かの有名なアメリカ国務省発行のTrafficking in Persons Report
2004年度版で日本は名指しで「要注意国」と批判され、慌てて法整備にとりかかった。
ところがこの報告書、完全にアメリカ国内の基準で書かれており、ワールドスタンダードと判断することはとてもできない。
たとえばブッシュ政権は「人身取引は人権問題ではなく安全保障問題である」と名言していて、この報告書で人身取引問題に取りくんでいないと判断された国には経済制裁も辞さないとしていた。つまり問題をごくおおっぴらに軍事的・政治的に利用しているというわけである。
しかしこの報告書は国務省の担当官がたとえば日本なら日本の人身取引に関わる専門家をアメリカ大使館に呼びつけて聞き取り調査をして書いたというだけのもので、ここまで政治力を持たせられるほどの信憑性はまったくない。被害者や人身取引事件の逮捕者など当事者への聞き取りや、綿密な現地調査などが行われている形跡はないらしい。
逆にいえば、国務省が書きたいように書くために、専門家の聞き取りを言い訳にすることもしようと思えばできてしまう。

あとこれは本筋とはまったくべつの興味深い話。
講師の青山薫氏が上梓した『「セックスワーカー」とは誰か』がある賞(失念)の候補となったのだが結果的に選には漏れた。
その理由が、選考団体がセックスワークそのものを認めておらず、セックスワーカーの労働環境整備を訴えたこの本を認めるわけにいかない、ということらしい。
アメリカでも日本でもどこでも、フェミニズムや人権問題を訴える人々の中にはセックスワークそのものを悪と決めつけ、全否定する向きはかなり多い。だがその考え方がセックスワーカーへの心ない差別をうみ、差別がセックスワーカーの抱える諸問題を助長しているということがなぜ理解されないのか、ぐりにはよくわからない。
セックスワークをこの世の中から完全に排除することなんか土台不可能なのに、どうしてそれができると思える人がいるのか、不思議でしょうがない。そんなのただの傲慢じゃないの?


JR奈良駅旧駅舎。いったん取壊しが決まって隣に仮設駅舎が建てられたんだけど、地元住民の反対でまだそのままになってるらしい。
立派な建物なのに、なんで大事にとっとかないのかな?ここにあったサモトラケのニケはどこ行ったんやろー?

日本語のルール

2008年12月27日 | lecture
哲学者・野矢茂樹教授の無料講演会「日本語は非論理的か」に行ってきた。

97年に刊行された『論理トレーニング』の著者でTVにも出演されておられるという野矢教授だが、不勉強なものでぐりは名前くらいしか聞いたことがなかったんだけど。
ちょーおもしろかったっすー。いやー。いいですねー。キャラが(笑)。男前だし(爆)。あ、お話も素晴しいんですけども。
今回のテーマは「日本語は非論理的か」。何も考えずに「日本語は非論理的」と肯定してしまいたくなるようなシンプルなテーマを、論理的見地から分析したお話。

どういう講演だったかはちょっとぐりの文章力ではうまくまとめきれないんだけど、結論をいっちゃうと
・日本語で「論理」を説くことは可能=非論理的ではない
・言語そのものを指して論理的か否かを問うのはおかしい=非論理的とはいえない
・確かに日本語の使い方には非論理的な部分もある=使う側の問題
ということになる。
つまり、「日本語は非論理的」という言い方が非論理的、ってことっすね。

ぐりは哲学や論理学を学んだ経験はまったくないんですっごいテキトーに書いちゃってますけど、論理学って言葉のルールを体系的に追究する学問で、そこに入る題材は重要じゃないんだよね。
そういう学問が何のためにあるかっていうと、言葉の持つ力を最大限に効果的に発揮させるためだったりする。
どんな受け手にも極力負担をかけずに、こちらの主張をできるだけ正しく理解してもらうためのルールが「論理」。論理的になることで言葉の力を目覚めさせる、と教授はいってました。論理的でなくても意味が通る言葉はもちろんあるけど、どんな受け手にも誤解させない言葉なら、より多くの受け手に正確に主張が伝わる。
論理的な言葉は、初心者のために登山ガイドが山に設置する道標のようなもの。道標が効果的であればあるほど、登山者は安全に楽に頂上を目指すことができる。

なるほどと思うお話がこってり満載でとっても楽しい講義だったんだけど、「非論理的な日本語」も好きなぐりとしては、「(どんな文章も)読んでわかったような気になってはいけない」とか「こちらの言葉をわかってくれない相手にたくさん出会って、わかってほしいと切実に願い、努力するべき」という、論理の精神論の方にもすごく共感しましたです。
今まで著作は一冊も読んだことがないけど、これから読んでみたいと思いまーす。


マカオ、媽閣廟にて。

貧困ってなんだ

2008年12月14日 | lecture
昨日、ピープルズプラン研究所で行われた一度に読み解くセックスワークと人身取引という講義の3回め(第1回第2回)に行ってきた。
今回のお題は「人身取引の舞台裏 貧困の女性化・労働力の女性化・移住の女性化」。

・国際的な人身取引ビジネスの背景には、90年代以降急速に進んだ貧困層の拡大がある。
東西冷戦が終結し、グローバリゼーションという経済の一極集中現象が移動労働を盛んにし、同時にそれを地下経済化する要因となった。

・貧困層のジェンダーバランスはここ数年偏りが進行しつづけ、経済政策の恩恵を受けない女性が急激に増えている。
たとえばタイは1997年のアジア金融危機の際IMF(国際金融基金)からの援助を受けたが、このときIMF側から「金融の自由化」と同時に「公的支出の抑制」という条件が出された。結果、女性の教育や経済保護が犠牲とされてしまった。

・こうした経済学的側面からとらえたジェンダー論は90年代まで語られてこず、最近になって研究が始まったばかりの分野である。

・「貧困」の基準でよくいわれるのは「1日1$以下で生活している状態」。
これに対し絶対的貧困とは「安全な水と医療の提供を受けられない状態」。
相対的貧困とは「その地域内での下位10%の層」を差す。

・日本の女性の政治経済への参加率は非常に低水準で、たとえば賃労働に就いている女性は50%未満。
タイは70%。女性が外へ出てお金を稼ぐことに対する抵抗感がないという国柄にもよる。

・国際的にどの地域でも女性が就く仕事は限定されるため、女性は非正規ルートで国外労働=出稼ぎに出ることになり、法の保護も受けられず、人身取引の被害にも遭いやすい。

・日本に多い外国人女性労働者は80年代フィリピン人→90年代タイ人→90年代後半コロンビア人→2000年代中国人→現在ロシア人と、入国者数の多い国籍が年代ごとに移っていく傾向がある。
これは人身取引を行う地下組織が「仕入れ先」である相手国の取締りが厳しくなるごとに仕入れ国を換えるからである。

今回は人身取引そのものというより、その背景にある経済問題とジェンダーについての話。
比較的地味なネタだったせいか、出席者がすごく少なくて淋しかった。
講師の青山女史は近々パートナーのイギリス人女性と現地で市民婚をするそうで、そのために次回と次々回の日程が変更になった。おめでとうございます。


関帝廟。

濃日

2008年11月16日 | lecture
Asagaya/Loft Aで行われた「阪本順治監督『闇の子供たち』タイ上映禁止をめぐって。」というトークイベントに行って来た。
登壇者は阪本順治監督、原作者・梁石日氏、タイの撮影プロデューサー・唐崎正臣氏に加えて元一水会代表・鈴木邦男氏、企画は元赤軍派議長・塩見孝也氏。加えてなぜか「9条改憲阻止の会」の活動を記録したドキュメンタリー映画『We 命尽きるまで』の藤山顕一郎監督までいる。濃ゆい。濃ゆいにもほどがあろーとゆー濃さでございます。
午後1時にスタートして3時半までがパネルディスカッション、10分休憩を挟んで4時半までが質議応答でした。

*作品製作の経緯
・阪本監督にこの企画をオファーした中沢敏明プロデューサーは、以前プーケットで白人が少女を愛でている光景を目撃しいつかこのことを映画にしたいと考えているところに原作に出会った。
・ジャーナリストだった唐崎氏は30年間タイに関わっており、当初からこの問題をドキュメンタリーで扱いたいという意志はあった。
・タイでは海外映画の撮影には許可申請が義務づけられており、一旦申請して却下となった。理由は「あまりにも事実に近すぎるから」(爆)。合作映画であれば許可は必要ないので、タイ日合作映画という形式をとって撮影に入ったが、現在は法制度が変わり合作映画にも許可が必要になっている。
・監督は現地入りしてからも「本当に撮影できるのか」とても心配していた。唐崎氏は「100%撮らせます」と保証して安心させようとした。
・1998年に故勝新太郎氏が東南アジアでの幼児買春と臓器売買をテーマにした映画の企画を立ち上げようとしたことがあるが、実現しないまま亡くなっている。

*ペドファイルについて
・ペドファイル=加害者ではない。NGOでペドファイルとして人権保護活動をしている当事者もいる。罪悪感なく加害者になってしまうペドファイルはそういう意味では別人種。
・かつては東南アジアで児童買春をして検挙されても賄賂で釈放されて無罪放免だったが、現在は各国とも法規制が厳しくなり、現地で検挙されなくても本国に戻ってからNGOの告訴により罪を問うことができる。
・タイでは今年6月1日に人身売買禁止法が改正施行され、未成年者を買春した者は8年以上の懲役+100万バーツ(約350万円)の罰金が課せられる。
・映画に描かれたように、現地警察の中にもマフィアと癒着している者はいるが、そうでない者もいる。

*臓器密売について
・1990年にタイの医師が患者を殺害し臓器を売買した事件が発覚。
・やはりタイで僧侶が子どもを集めて殺害し、ジャングルで臓器を密売した事件も報告されている。
・(タイで日本の心臓移植が行われた事実はなく、映画の設定はフィクションである。なぜ現実に行われている腎臓移植を題材にしなかったかという指摘に対して)心臓に限らず臓器を奪われた子どもは間違いなく死ぬし、ふたつある腎臓の片方を売った大人でも健康な生活は二度と送れなくなる。腎臓ならよい、心臓でなければよいなどという問題ではない。
・日本国内では子どもの臓器提供が不可能なため患者はドイツやアメリカで提供を受けるが、日本の子どもが臓器移植ネットワークに登録すると当事国の患者の順番がくり下がってしまう。
・映画制作に協力した大阪大学の福嶌教偉医師が法改正のために運動しているが、なかなか議論が進展しないのが現状。
・移植法改正運動に参加している人たちも脳死問題については感情論でなく不満を持っている。日本では臓器移植は美談としてしか語られないが、この映画ではそうでない面があるということを表現したかった。

*バンコク国際映画祭での上映中止について
・この問題を国内でも議論するべく招待してくれたのは現地の映画監督たち。映画祭のスポンサーである政府観光省が「観光産業に悪影響がある」という理由でNGを出した。
・タイの政治家は「民主主義」という言葉が好きでよく使うが、タイの現実は建て前とは別物である。現実にはタイでは表現の自由が保障されていない。
・タイの市民社会では児童買春や臓器密売について誰もが知っている。この作品を「タイの国辱」ととらえるのは現実的ではない。
・日本以外ではハワイとチェコで上映された。

*リアリズムについて
・塩見氏:近代史を描いた映画では日本の客観的な「有り様」を題材にした映画はこれまでにもあったが、現在進行形のそれを描いた商業映画はなかったのではないか。
・タイの子どもは日本の子どもと見て来たものが違う。彼らのシーンがノンフィクションのように見えてしまうのは、彼らのリアルな演技力の賜物(ぐりは演出も良かったんだと思うけどね)。
・プラパドン・スワンバン演じるチットはかつて被害者だったという設定になっているが、実際に売春組織の末端で働いている人の50〜60%は元被害者だという現状がある。
・銃撃戦のシーンでマフィアがNGOではなく警察に発砲するのは、NGOを撃って殺してしまうと世論が余計に盛り上がってしまうから、という理由がある。
・タイでは国内作品・海外作品問わず社会派映画が上映されることがほとんどないため、俳優にも出演の機会がない。今回出演した現地キャストにとっては、リスクはあってもひとつのチャンスでもあった。
・ラストの売春宿の摘発シーンはシナリオにはなく、唐崎氏がリクエストして撮った。監督はそういう妥協をしてくれる人。また子どもの撮影についてはできる限りの時間を割いた。
・シナリオは日本で調べるだけ調べて書き、その後は現地取材をしてリライト、ディテールに事実に反する部分があれば改訂作業を重ねた。

*梁石日氏
・昔からこの問題に関心はあったが、直接のきっかけは部落解放同盟からの依頼があって書いた。
・社会の矛盾のしわ寄せは弱者に向かう、という事実を書いておかなくてはならない。
・実は取材はあまりしていないのだが、小説はあくまでもフィクション。だが事実の向こうにある真実になかなか辿り着けないときにそこまで飛躍できるのが小説であり、虚構の持つ真実には普遍性があるはず。
・以前にも映画化の企画はあったが立ち消えになったことがある。
・阪本監督とはもともと面識があった。
・物書きと映画監督は別物なので、映画化作品が原作と違うのは当然。注文はつけなかったが、ひとつだけ「子どもの虐待シーンはちゃんと描かないと意味がない」といった。いったものの実際どう撮るのかは想像がつかなかった。
・設定に違いはあるが本質的には原作に忠実な映画。

*なぜ舞台がタイ?
・梁氏:原作がタイだから(笑)。責任の所在は原作者。
・グローバル経済による新自由主義の影響を受けやすい土壌がタイにはあり、そこが近隣諸国と違う。
・監督:タイの映画界が発達していて仕事がしやすい環境があった。架空の国に設定すれば誰にでも言い訳が通用するが、それでは問題の距離が遠くなってしまう。
・唐崎氏:タイには近隣諸国からの不法入国者が100万人以上いて、うち子どもはほとんどが人身売買の被害者。成長した彼らはタイを経由してもっと豊かな諸外国へ売られていくという、タイが人身売買の経由地になっている事実があるから、この映画の舞台がタイであることはその意味で的を得ている。
・(映画では「タイ=貧しい国VS日本=豊かな国」という単純な構図がとられているがタイはそこまで貧しい国ではないのでは?という指摘に対し)首都だけ見れば確かに近代化が進んでいて先進国と変わらない水準に見えるが、そこを離れれば地方では日本の昭和初期と変わらない暮らしが残っている。山岳部の少数民族が暮らすエリアでは貧困問題は深刻。近隣国との経済格差だけをとりあげて「タイは貧しい国ではない」と判断するのは誤り。

*協力の「日本ユニセフ協会」の児童ポルノ禁止法の改正運動について
・(冤罪のリスクがあり表現の自由を侵害するリスクが懸念される改正運動に作品が利用されているのではないかという指摘に対して)監督:利用されているかどうかについてはわからないが、自分としては「この作品は抵触しないのか?」ということだけは気になる。
(この問題については以前ティーチインでも触れていて、「この映画に関わっていなければ、自分ももっと強く改正に反対していた」と述べられていた)

*音楽について
・岩代太郎氏自身がアフリカの子どものための活動に参加している(この活動が具体的になんなのかは不明)。

*映像美について
・題材が残酷であっても劇映画である限り映像に完成度は必要。映像でものを語れなくては意味がない。
・月のイメージカットは、月はどの国からも見えるから、映画の舞台はタイだけど描かれているのは日本である、というメッセージを込めたかった。
・ラストの川での水遊びのシーンは、前日に豪雨が降って濁流になり空も曇っていて撮影条件は悪かった。それでも子役がたまたまそこで遊んでいる「子ども本来の姿」を見て、虐待されている子どもを見せるだけではなく、子ども本来の姿から何が失われているかを表現するのにうってつけのシーンであるように思えたので、予定を変えて撮影することにした。

イベント終了後に近所の居酒屋で企画の塩見氏のミクシィ仲間と登壇者と一般参加者で飲み会があったのだが、ぐりは野暮用で速攻で会場を出なくてはならない。でもそこでムリ〜なんて諦めたらもったいない。用を片づけてから急いで合流、また監督に根掘り葉掘り些末なことを聞いてしまった。いちいち親切に答えてくれる阪本監督、素敵でした。50歳で独身。超ストライクゾーンなんですけどー。どうしよう(どうもこうもない)。
梁さんも一見怖そーなのに、ときどきすっとぼけた発言で会場全員大爆笑させてくれたりするナイスキャラでした。

今日いちばん心に残ったのはプラパドン・スワンバンの「この問題を知らなかった人全員に責任がある」という言葉。
言い方を変えれば、いったん知った人間は全員が責任意識をもつべきだということ。まったくもっておっしゃる通りでございますー。

関連レビュー:
『臓器漂流─移植医療の死角』 木村良一著
『脳死・臓器移植の本当の話』 小松美彦著
『闇の子供たち』1
『児童性愛者―ペドファイル』 ヤコブ・ビリング著
『現代の奴隷制―タイの売春宿へ人身売買されるビルマの女性たち』 アジアウォッチ/ヒューマンライツウォッチ/女性の権利プロジェクト著
『アジア「年金老人」買春ツアー 国境なき「性市場」』 羽田令子著
『幼い娼婦だった私へ』 ソマリー・マム著
『子どものねだん―バンコク児童売春地獄の四年間』 マリー=フランス・ボッツ著
『アジアの子ども買春と日本』 アジアの児童買春阻止を訴える会(カスパル)編
『少女売買 インドに売られたネパールの少女たち』 長谷川まり子著


梁さんと監督。なんかかわいいツーショットだなーと思うぐりのアタマは相当疲れてるね。
今日は朝からバタバタバタバタしていてソイジョイ1本以外何も口にしていないのだが、9時半に解散して帰りにコンビニに寄ったものの、バナナ1本しか買えなかった。何を食べたらいいのかも考えられないくらい疲れた。

セックスワークってなんだ

2008年11月15日 | lecture
ピープルズプラン研究所で行われた一度に読み解くセックスワークと人身取引という講義の2回め(1回めの感想)。
本日のお題は「ケア労働・感情労働・性労働」。

まず「セックスワーク」という言葉について。
この言葉が使われ始めたきっかけは1987年にアメリカで出版されてベストセラーになった『Sex Work』という当事者の証言集。日本では93年に翻訳が刊行されている。
ちなみにぐりが「セックスワーク」という言葉を初めて耳にしたのは95年で、フリーランスでセックスワークをしている女性が自らそう表現していたのを耳にしたときだと記憶している。

「感情労働(Emotional Labour)」の社会学的定義は
・それを提供する相手との相互行為の中で
・顔や身体を使って
・外側から観察できる表現をつくりだすように
・自らの感覚をコントロールする
ことが要求される労働である(by Arlie R. Hochschild)。
例)フライトアテンダント・ホステス・介護師・主婦・カウンセラーなど

一方「ケア労働」とは人の世話をする、気を配る、面倒をみる労働。
具体的に保育・介護・介助・看護・清掃・クリーニング・ケータリングなどを指す。
これと育児・看病・掃除・炊事・洗濯との違いは何か。
・家事/仕事
・プライベート/パブリック
・対象が限られる/限られない
家事労働を社会学では「愛の労働(Labour of Love)」と表現する。

「性労働」とはセクシュアリティを媒介にし対価のある労働を指すが、現在では具体的に厳密な定義は困難とされている。
なぜなら、「性労働」には一種のコミュニケーションや幻想・感覚の共有などを伴うケースが多々あり、「感情労働」「ケア労働」との境界が非常に曖昧だからである。かといって「性が関わっている」以上同じに考えることもできない。
たとえば高齢の利用客が多いナイトクラブのホステス嬢には自らの業務を「子どもに戻りたがっている男性の相手をしてあげる保母さんのようなもの」と表現する人がいて、高齢者福祉施設の男性介護師には女性利用者の介助業務を「デリへル」と表現する人がいる。両者の労働の性格は非常に似ていてある面では同一視することも可能だが、完全に同一視することに疑問も残る。
性労働従事者には圧倒的に女性が多いが、感情労働やケア労働にしても比率的には女性の方が男性よりも多い職種が大半を占めている。

この後も「感情労働」「ケア労働」「性労働」の差異と同一性について突っ込んだ説明と議論があったのだが、かなり細かくて散漫で感覚的な内容になるので今日ははしょります(爆)。まとめられない〜。
ひとつひっかかったのは「性的な付加価値のない労働はない(足立真理子・お茶の水女子大学教授)」という言葉。そりゃまーそーだわねー。究極的にはねー。
前回と出席者が結構カブッてたんだけど、フェミニズム活動家の方々の中には男性優位社会のすべてを断定的に否定的にとらえる人もいて、そーゆーのは議論の場といえどもリアリティないなーなんて思ってみちゃったりもしました。


フォーとベトナムコーヒー。
フォー大好き。