Forever hill

男は夢に追われる孤独なランナー

オリンピックの華マラソン-女子編

2008-08-06 23:53:21 | スポーツ

もうすぐ北京五輪、楽しみはオリンピックの華マラソンだ。女子には期待が大きくふくらむ。

-女子編-

女子マラソンはロサンゼルス大会(1984)から正式に採用された。

初のマラソンは灼熱の炎天下で行われた。優勝したのは地元アメリカのジョーン・ベノイトで最初から独走し圧倒的な強さで初代女王の座に輝いた。

二位はグレテ・ワイツ(ノルウェー)、三位はロサ・モタ(ポルトガル)。日本勢は第一人者の佐々木七恵が19位、増田明美は暑さの中途中棄権した。

足がもつれフラフラになりながらもゴールしたガブリエル・アンデルセン(スイス)がもうひとつの感動を与えてくれた。

ソウル大会(1988)では前回三位のロサ・モタが優勝。ポルトガルは男女により二大会連続金メダル。二位はリサ・マーチン(オーストラリア)、三位はカトリン・ドーレ(東ドイツ)。

日本勢は浅井えり子、荒木久美、宮原佐知子三人参加も惨敗。でも彼女たちの懸命な走りが日本女子マラソンを上昇気流に乗せたことは確かだ。

バルセロナ大会(1992)では有森裕子が先頭を行くワレンティナ・エゴロワ(EUN)をとらえデットヒートをくりひろげるが競技場手前で振り切られ惜しくも銀メダル

三位は粘ったモラー(ニュージーランド)。山下佐知子が四位に健闘。小鴨由水は経験不足で大敗。

アトランタ大会(1996)では19km付近でノーマークのファトゥマ・ロバ(エチオピア)が先頭に出ると誰も追わずそのままゴールしてしまった。

有森裕子はロバを追ってスパートするもワレンティナ・エゴロワ(ロシア)に抜かれ銅メダル。またしてもエゴロワに敗れるも二大会連続のメダル。真木和12位、浅利純子17位。

シドニー大会(2000)では高橋尚子が日本女子陸上初となる金メダルを獲得する。高橋は終始先頭をひっぱりリディア・シモン(ルーマニア)と一騎打ちとなるが35kmでギアチェンジして逃げ切る。

競技場では粘りのシモンに追い上げられてドキドキした。三位はチェプチュンバ(ケニア)。

この大会メダル独占をもくろんだ日本だったが、山口衛里は途中転倒もあったが粘って七位、市橋有里は27kmまで高橋についていったが最後は15位に沈む。

前回のアテネ大会(2004)では野口みずきが日本女子マラソンに二大会連続の金メダルをもたらす。野口は25kmで早めのスパートで独走態勢に入る。

世界記録保持者ポーラ・ラドクリフ(イギリス)も36kmでレースを棄権していた。ところが前年の世界陸上で負けているキャサリン・ヌデレバ(ケニア)が追ってくる。

終盤ヌデレバに猛烈に追い上げられハラハラしたが野口は逃げ切った。三位はカスター(アメリカ)。日本勢は土佐礼子が五位、坂本直子が七位で全員が入賞を果たす。

さて北京大会(2008)は野口みずきが女子マラソン初の二連覇に挑む。土佐礼子は連続出場、中村友梨香にも期待する。

女子も有森から野口まで世界に通用する選手が続いているが、この後に続く選手の出現を願う。

追記

残念ながら野口みずきは故障により出場を辞退した。土佐礼子と中村友梨香にメダルをめざしてがんばってもらいたい。


オリンピックの華マラソン-男子編

2008-08-06 23:36:52 | スポーツ

もうすぐ北京五輪、楽しみは何と言ってもオリンピックの華マラソンだ。

男子編

ローマ大会(1960)で世界中に衝撃が走った。無名のアベベ・ビキラ(エチオピア)が優勝したのだが、何と裸足で走ったのだ。

東京大会(1964)ではアベベ・ビキラが当時不可能だろうと言われていたマラソン二連覇をいとも簡単にやってのけた。超人とも鉄人とも言われた。風貌や言動はヨガの哲人に見えた。

この大会で日本陸上界は28年ぶりにメダルを獲得している。国立競技場に帰ってきた時は二位だったが、ヒートリー(イギリス)に抜かれ銅メダルに終わった円谷幸吉である。

円谷には思い入れが深かった。なぜなら出身が自分の母親と同じ町だったのと、メキシコ大会でも期待されたのだがケガに悩み「もう走れません」と自殺をしたからだ(享年27歳)。ちなみにゴジラの生みの親円谷英二監督の出身も同じ町である。

メキシコシティー大会(1968)では東京八位の君原健二が親友だった円谷の分までと奮起して銀メダルに輝く。メキシコシティーは高地にあり酸素が薄くマラソンは過酷であった。

余談だが小出義雄は当時高地対策でかりだされ自ら走り実験台になっている。この事がヒントとなり高地トレーニングを開始して有森裕子高橋尚子を育てている。

この大会アベベは三連覇を狙いスタートしたが途中棄権している。その代わり同じエチオピアのマモ・ウォルデが優勝し、エチオピアの三連覇は達成された。

ミュンヘン大会(1972)ではフランク・ショーター(アメリカ)が独走で優勝。ショーターは翌年の毎日マラソンで突然観客の持つ小旗をつかみ道路から消えた、クソをしてまた戻りそのまま優勝してしまった。「野グソのショーター」と呼んだ。

この大会メキシコ覇者マモ・ウォルデは40歳にもかかわらず銅メダル、メキシコ二位だった君原健二は五位となり東京八位と合わせて三大会連続の入賞を果たす。日本の鉄人は君原である。

モントリオール大会(1976)ではその常勝フランク・ショーターをおさえて優勝したのが無名のワンデマールチェルピンスキー(東ドイツ)。

ワンデマール・チェルピンスキーは続くモスクワ大会(1980)でも優勝しアベベについでマラソン二連覇の偉業を達成する。もっとも瀬古利彦が出ていたら間違いなく優勝していただろう。

瀬古利彦ロサンゼルス大会(1984)で優勝をめざす。瀬古の金メダルをおさめようとビデオデッキまで買った。34km地点で瀬古が遅れていくのを呆然と見ていた。「悪夢だ」ひとりつぶやいていた。

優勝したのは出場最年長37歳のカルロス・ロペス(ポルトガル)。以外にもこれがポルトガル初の金メダル。宗茂が四位と健闘。

ソウル大会(1988)では瀬古利彦も出場したが期待は中山竹通に移っていた。しかしメダルに一歩届かず四位。勝ったのは粘りに粘ったジェリンド・ボルディン(イタリア)。

バルセロナ大会(1992)では黄永祚(韓国)と森下広一が息づまるデットヒートを展開。おしくも森下はモンジュイックの丘で振り切られ銀メダル

中山竹通は二大会連続の四位。途中給水ポイントで靴が脱げた谷口浩美は八位。

アトランタ大会(1996)から日本男子マラソンは大躍進する女子と反比例して低迷期に入る。円谷から森下まで世界に通用する選手が続いたがこの大会から途切れる。

優勝はヨシア・チュグワネ(南アフリカ)、イ・ボンジュ(韓国)が二位。三位に日本の企業で力をつけたエリック・ワイナイナ(ケニヤ)が入る。日本の中で敵を育ててどうすんだよ。

シドニー大会(2000)ではアフリカ勢がメダルを独占した。17km付近で転倒したもののゲザヘンゲ・アベラがメキシコ大会のマモ以来三人目のエチオピア優勝者となる。エリック・ワイナイナが前回銅から銀に順位を上げた。三位はトラ(エチオピア)。

日本勢はアトランタ、シドニーと最低の成績が続き記述するのをひかえる。

前回のアテネ大会(2004)ではデリマ(ブラジル)が独走していたが35kmコースに乱入した男に妨害され三位に後退。40kmでバルティニ(イタリア)がデリマを抜き去りそのまま優勝。二位はケフレジキ(アメリカ)。

日本勢は油谷繁が五位、諏訪利成が六位に入りマラソン王国復活にひとすじの光が見えた。

さて北京大会(2008)には佐藤敦之、尾方剛、大﨑悟史が挑む。ぜひともメダル獲得をめざしてがんばってほしい。そして近い将来世界に通用する選手の出現を願う。