退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「社会学あるいは『子どもの理屈』とそれがもたらすもの」について

2017-07-31 02:21:05 | Weblog
くもり。今日も蒸し暑い。

橋爪大三郎・大澤真幸他著「社会学講義」を読む。

「社会学の歴史と概要」がわかりやすく書かれている。
元々は「ドイツ発祥」だということを覚えておこう。

橋爪大三郎の「説得力」が圧倒的。
まるである種の「詐欺師」のような。

ちょいと「あぶない人」だと思われることしきり。
ちなみに院生当時の宮台真司は彼に「勉強しろ」と怒られたことがあるらしい。

こうした「先生たち」になら教えを請いたいもの。
少なくとも教育においては「先生を選べない事実」がそこここにある。

「出会い」というとまるで恋愛のようだけれど
どういった人々と接触したかという「影響」が実は大きく。

それぞれに「素敵な出会い」があることを祈るのみ。

マル激を観る。

そもそも英語で書かれたわが国の憲法の意味を
これまで誰もアメリカに沿って解釈したことがなかったというのにふむふむ。

「交戦権」と「戦力」と訳された英語はそこで初めて使われた言葉だとのこと。
つまり「歴史をたどることができない言葉」なのだと。

要は日本国民を「12歳」だと言ったマッカーサーが
「再び『いたずら』をしないように」と念押しするために書かれたもののよう。

「改憲派vs護憲派」などという対立にはあまり意味がなく
それは「戦争に負けた国」がその事実を受け入れられないことから生まれた「貧しさ」。

70年以上経ってもそこから「成長」できていないのだとすれば
われわれは「子ども」なのだとあらためて自覚した方がいいのかも。

つまり。

「戦争に負けた」からこそ自らが納得しがたい「手打ち」を受け入れざるを得ず。
その過去を忘れ「お前だっていい加減じゃないか」というのは「子どもの理屈」。

ましてわが国の現状を思えば頭を垂れるしかないはず。
そして今後もこの種の「幼稚さ」はさらに勢いを増しそうなのが怖ろしい。

「国際社会」の中で生きるしかないのは事実なのだから
その場所で「まとも」だとされることは無視できないのが「普通」。

そうした「ルール」にあまりにも鈍感だと「対話」もできなくなり。
繰り返すが北朝鮮をヒドいと言っている場合ではなく。

「国内という磁場」があまりに「国際という現実」を見失わせている「構造」よ。
ここから逃れるためには「現場」を知るしかないだろう。

「不愉快な現実を見ない習慣」がはびこると
かくもバカげたことが「日常」になってしまうことを覚えておきたいもの。

地理的単位の大きさを問わず
自分が「当然だと思っているルール」のいびつさを知ることは大切。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする