退屈日記

とりあえず日々のつれづれを。

「『現在の悲惨さ』について」

2017-02-06 02:20:53 | Weblog
くもり。雨も少々。

森達也・青木理「反メディア論」を読む。

個人的には「いつものお話」。
「オウム以降」に「体感治安の悪さ」が高まったというのにふむふむ。

「事実」ではなく「感覚」が優先されるということ。
殺人事件も交通事故も確実に減っているというのに。

「思い込みによる自主規制」の怖ろしさに注意したいところ。
それらすべてをまとめると「セカイ系」というあたりに落ち着くのか。

結局「しょぼいサラリーマン」と同じかよと思うのみ。
つまんねー野郎ばかりが増殖しているらしく。

マル激を観る。

今回は裁判所の「デタラメ」について。
そもそも「推定無罪」のはずが「推定有罪」になっているのだから。

「筋」を通した判決を書くと左遷か退職が待っているという「実態」を知っておこう。
われわれの「無関心」が結局は「冤罪」を生み出していることについても同様に。

「劣化」は至るところで止まるところを知らず。
「内集団での評価」がすべてというのはあまりにも「貧しい」。

引き続き「NNNドキュメント お笑い芸人vs原発事故」を観る。

ここまで「原発事故」をカバーしていた人物がいたことを初めて知る。
「おしどりマコ・ケン」の名前はすでに海外でも有名なようで。

東電もしくは政府の「インチキ」を具体的に指摘するあたり
そのへんの「ジャーナリスト」とは大きな違い。

「棄民」というのはこのことだったのかと思い至る。
自分たちの「利益」のためなら「他人もしくはその子どもたち」などどうでもいいらしい。

NHKスペシャルでの中国の「環境汚染」についても同じく。
それを「生存競争の厳しさ」と言うのは「お門違い」だろう。

「事実」と「理」を尊重しないとかくも「悲惨な現実」が起きる。
それぞれの「境遇の違い」を超えて「許せないこと」はあり。

われわれが「賢くなること」の重要さが浮き彫りに。
幼稚園あるいは保育園から高校まで「同じ地域」で育つ子どもたちの「想像力のなさ」を思うと。

外へ出るんだ。

「世界」は常に複雑で広い。
「現在の自分」如きですべてを理解するのを止めよ。
コメント
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