フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月9日(月) 曇り

2014-06-10 03:00:40 | Weblog

     9時、起床。

     サラダと紅茶だけの朝食。昼食をしっかり食べる予定なので。

     午後、散歩に出る。雨は上がっている。

     下丸子の「喜楽亭」へ。先月は来られなかったので、2か月ぶりである。扇風機が回っている。

     いつものチキンカツ定食。ご主人といつものおしゃべり。

     食後のコーヒーは蒲田に戻って「ルノアール」で。ここでは空いていれば窓際の席に座る。近所の高校生たちの下校時間のようである。

     授業で読むテキストに目を通す。浅野智彦『「若者」とは誰か アイデンティティの30年』(河出書房)

     エリクソンの「アイデンティティ」とリースマンの「社会的性格」を分析概念として対比的に使って、アイデンティティ論に代わって多元的自己論が台頭してきた過程を論じている。

     多元化する生活空間の中で私たちはさまざな役割を演じている。人間は役割の複合体である。諸々の役割が、バラバラの状態ではなく、統合された状態にあることを「アイデンティティ」とエリクソンは呼び、「アイデンティティ」の確立を青年期と発達課題と彼は考えた。そうした視点からすると、現代社会はアイデンティティの拡散=喪失の時代である。一方、特定の社会状況に適合的な自己の在り方を「社会的性格」とリースマンは呼び、少産少死の安定した社会(=消費社会)では「他人指向」という「社会的性格」が優勢になると彼は考えた。 生活空間が多元化した社会ではさまざまな「他者」と相互作用することになるから、「他人指向」である限り、自己の在り方は多元化するだろう。

     浅野がエリクソンではなくリースマンを評価するのは、自己の在り方は社会変動の過程で変化するという視点をリースマンがもっているからである。ただし、リースマンは「他人指向」=多元的自己というあり方を積極的に肯定していたわけではない。むしろ歴史的趨勢としてしかたないものとして消極的に受容していたに過ぎない。この点、浅野はリースマンよりも多元的自己を積極的に肯定している。

     しかし、その浅野も多元的自己をエリクソンが「アイデンティティ」を絶対視したようには肯定しているわけではない。浅野のいわんとしていることは単純ではないが、現象の複雑さを分析する彼の手際は明晰である。

     切りのいいところまで読んでから、ジムへ行く。頭を働かせた後は、体を動かさなくてはならない。

     久しぶりの日差しである。

     昼食にチキンカツ定食を食べたので、クロストレーナーを50分漕いで、700キロカロリーを消費。トレーニングの後に計った体重は今朝の体重と同じ。つまり昼食の分をチャラにしたわけだ。これでよし。

     ジムの後は「phono kafe」に寄ることが多いのだが、今日は読書を続けたかったので、「テラス・ドルチェ」に寄ることにする。「おしゃべりカフェ」と「物思いカフェ(=読書カフェ)」のバランスには意識的でないとならない。

     アイスコーヒーを注文して、1時間ほど読書。途中で妻からケータイに電話が入る。「そろそろ夕食よ。早く帰ってきなさい」と。「はい」。

     今夜の献立は鰹のタタキと豚汁。

     昨日のAKB総選挙、テレビでリアルタイムで観た。指原莉乃が連覇を逃したのは、AKBを卒業する大島優子が選挙の前に渡辺麻友を支持する発言をしたのが大きかったようである。大島は去年の無念をそういう形で晴らしたのであるが、AKBにとってはアイドルらしからぬアイドルである指原がもう一年、トップのままでいた方がよかったように思う。