気ままに

大船での気ままな生活日誌

ベルリンの北里柴三郎と森鴎外

2014-01-12 12:52:35 | Weblog
昨日、ブログ記事にした原節子の映画”ふんどし医者”の時代背景は、幕末から明治のはじめであった。長崎のシーボルトの塾で学んだ蘭方医、ふたりを中心に物語が進んでいくが、そのとき、”東京に(幕府の医学所を接収して)医学校ができる、校長は松本良順”とかのセリフがあった。映画では、ふんどし先生が同期のご典医、池田明海にそこの教師にならんかと薦めらる。

ふと、そのとき、北里柴三郎と森林太郎(鴎外)のことを想った。二人とも、この、出来立てほやほやの医学校に学んでいる。まず、慶応4年4月(1868年5月)、明治政府は、旧江戸幕府の医学所を、”医学校”と改称し、さらに、それは、1874年(明治7年)に東京医学校と改称された。さて、北里は、1875年(明治8年)に”東京医学校”二期生として入学している。そして、林太郎は、2年前の1873年(明治6年)に予科に入学、そのまま”東京医学校”に入学したはずから一期生ということになる。

何故、ぼくがこの二人に関心をもっているかというと、二か月ほど前の観光旅行でベルリンを歩いたから。実は、二人ともベルリンに滞在しているのだ。北里がベルリン大学(現フンボルト大学)衛生研究所のコッホ博士のところに留学していたことは知っていたが、同時期に森林太郎もベルリンに、それも北里と同じ研究室に1年ほど滞在していたことは憶えがなかった。それを知ったのは、帰ってから、山崎光男著”ドンネルの男/北里柴三郎”を読んでからである。著者は細菌学にも詳しく、北里が破傷風菌の人工培養を成功させる場面も正確な記述で、わくわくするような伝記本であった。以下のことは、ほぼこの本から仕入れた知識である。

冒頭に述べたように、北里は、医学校の入学時は森より1年後輩であるが、年齢は北里が森より9歳も上である。何故、こんなことになるかというと、森は実年齢より2歳多く偽り、12才で(予科に)入学、逆に北里は入学年齢制限を2,3年超えていたため、年齢詐称で入学している。おまけに留年もしたらしい。そんなわけで、この二人が、同時期に国費留学生となることは不思議なことではないのだ。

内務省の一室での、ドイツ留学者決定の場面が面白い。予算枠は一人、山縣有朋の推挙で、お雇い教師ベルツの弟子で金沢の方で病院長をしていた中沢東一郎がほぼ決まっていたようなものだった。ちなみに彼はジョン万次郎の子息である。3人の選考委員のまとめ役、長与衛生局長は何とかして、最近、めきめき腕をあげてきた自分の配下の北里を留学させたいと思っている。そして、もう一人枠を増やそうという手に出て、山縣とつながりのある石黒忠悳が交渉役となった。そして、それが功を奏したのである。

北里の喜びは尋常でなかった。留学先は、はじめからコッホのところと決めていた。そして、明治18年(1885)、横浜からマルセーユに向かった。留学先がミュンヘン大学のペッテンコーフェル研究室となった中沢東一郎も乗船していた。のちにモースのあとの東大動物学の教授を務めることになる石川千代松もこの船にいた。

一方、軍医となった森林太郎は、北里の一年前の明治17年(1884)に陸軍省派遣留学生として横浜港から出国している。ドイツの最初の1年をライプツィヒで過ごし、次の滞在地ドレスデンに5か月、そして、1886年3月8日から翌年4月15日まで、中沢東一郎のいるミュンヘン大学のペッテンコーフェルに師事し、いよいよベルリンに入るのである。

1887年4月、北里は、コッホ研究室に入ってもう2年、ばりばりと仕事を進めていた時期だった。そこにひょっこり森が現れ、コッホを紹介してくれという。ペッテンコーフェルはコッホの研究にけちをつけていて、仲が良くない。断られても不思議はなかった。北里がうまくとりなしてくれ、森のコッホ研究室入りが決まった。その数か月後、今度は森が北里を助ける場面がやってくる。石黒忠悳がやってきて、北里の残りの1年間は、ミュンヘン大学の中沢と交換して研修するように命令してきた。北里にはとんでもないことで、怒り心頭にきたが、同席していた森がとりなし、最後はコッホが石黒にていねいに北里の非凡な才能を説明し、研究は続けられるようになったのだ。ついでながら、3年の留学期間は、さらに2年延長されることになる。

北里の研究は佳境に入る。破傷風の病原細菌が嫌気性であることを突き止め、世界ではじめて人工培養に成功。純粋培養装置を前に記念講演している写真が、今も衛生研究所に展示されている。さらに、破傷風菌の毒素を発見、また、毒素を薄めて注射すると、免疫現象を起こすことを見出し、それを”抗毒素”と名付けた。抗体の発見である。この実験結果をもとに、同僚のベーリングと共同研究し、連名で”動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について”の論文を発表。これが第1回ノーベル生理医学賞となった。共同受賞(それも北里・ベーリング)が妥当だが、ベーリングの単独受賞となった。

もちろん学界の評価は高く、ケンブリッジ大学からも招聘があったが断る。帰国の途中、パリの、もう老いていたパスツールにも会った。パスツールも普仏戦争の頃、イタリアから招聘されたが、悲劇の母国を差し置いて、良い地位を得たなら、脱走兵と同じだ、と断ったそうだ。多額の国費を使って海外留学をし、黎明期の日本の医学に役に立たなければ食い逃げといわれてしまう、と北里も思っていたのだろう。

さて、森はベルリンに1年ほど滞在ののち、1888年年7月5日、石黒とともにベルリンを立った。帰国後の森と、北里の争いも面白いが(汗)、それは、また別の機会に。

・・・・・
コッホに師事して北里柴三郎と森林太郎が留学していたフンボルト大学(旧ベルリン大学)。


ウンター・デン・リンデン通りの突き当り、ブランデンブルク門。森鴎外記念館はここからそう遠くない場所にある。訪ねる時間がなかった。


森鴎外の舞姫の舞台となったとされるマリエン教会。主人公、太田豊太郎が美少女エリスと出会った古寺とはここ。森林太郎の実話をもとにしている。北里には浮いた話はない(笑)。若い、しっかりものの奥さんが東京で子供たちを育てていた。


森はよく、美術館に通ったようだ。北里は研究が面白く、誘いにのらなかったらしい。ここにも通ったでしょう。アルテ・ナショナルギャラリー(旧国立美術館という意味)1876年設立なので、当時からあった。


この顕微鏡は、昨日、国立科学博物館で撮ってきたもの。明治初期の大学で使われた機種。”ふんどし医者”では、原節子が、(旦那のために)この顕微鏡が欲しくて、自分の身を賭け、大親分との丁か半かの大勝負をして、300両を得た(笑)。


北里柴三郎とコッホ博士の写真 (近代医科学記念館)この写真は稲村ケ崎のコッホの碑の説明板にもうつされている。


稲村ケ崎のコッホの碑


1908年(明治41年)、コッホは来日する。彼が65歳になったとき、二度目の妻を伴い、世界漫遊の旅に出たとき、弟子の北里柴三郎が招待し、日本に2ヶ月ほど滞在したのだった。夫妻はとくに鎌倉を気に入られ、一ヶ月ほど由比ヶ浜の海浜ホテルに宿泊した。奇遇にもこのホテルのコック長がドイツ人で、かってコッホがアフリカ旅行したときの船のボーイ長であり、アフリカ上陸後マラリヤに罹り、コッホの治療を受けたということであった。海浜ホテルは今はなくなってしまったが、瀟洒な洋式ホテルで明治19年に創立されたという。夫妻は近くの雲仙山(その先端部が稲村ヶ崎になる)の頂上からの江ノ島、富士山を見渡せるこの景観をことのほか好まれ、専用のベンチまでつくった。はじめ記念碑はこの雲仙山頂に建てられたが、荒れ果てて、昭和58年(1983年)の結核菌発見100年記念を期に、ここの公園内に移された。

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